汗血千里マゼッパ Mazeppa バイロン ジョージ・ゴードン George Gordon, Lord Byron 木村鷹太郎訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)運命|瑞典《スヱーデン》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)運命|瑞典《スヱーデン》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)[#改ページ] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)げに/\ -------------------------------------------------------   序 マゼッパ堅忍不拔、勇氣凛たり、戀愛艷たり。勇氣戀愛兩々映して美は益々美に勇は益々勇なり。彼れ戀愛より曠野に汗血千里、遂に曠野を變じて王坐となす。マゼッパの如きは眞の男子と謂ふべきなり。   明治四十年二月二十二日     東京淀橋柏木にて 譯者識 [#改ページ]  汗血千里マゼッパ 目次 緒言─『マゼッパ』に就いて 一  運命瑞典王を離れ去り 二  振り出だしたるの骰子の偶然のみ 三  ウクライナ族の酋長たり 四  『言葉はたとひ少きも』    『我の二十の春なりき』 五  『さてもテレサの姿』 六  『一度は或は否むとも』 七  『我は愛しぬ愛されぬ』 八  『伯爵殿は烈火の如き激怒なり』 九  『「馬連れ來れ」馬連れ來さる』 十  『驅けれり驅れり』 十一 『風の翼に打乗りて』 十二 『若木も、老樹も、狼も』 十三 『地は陷落し天は回轉し』 十四 『波は打寄せ、星燦爛と』 十五 『鬣には水滴り』 十六 『今や野蠻の精力は』 十七 『死したるものゝ其上に』    『我の最後の日の光』 十八 『待ち設けたる烏は飛び』 十九 『見てコサックの乙女は微笑み』 二十 『荒野を變じて王座となさしむ』 [#改ページ]   緒言  『マゼッパ』に就いて [#地付き]木村鷹太郎 北歐の彗星王カロルス十二世と共に、史上に著名なるマゼッパは、バイロンの詩に由つて又た一層に著名の人物となり其堅忍不拔なることは、艷麗美と勇壯美とを以つて人心に映ずるに至れり。  イワン・マゼッパ(Ivan Mazzeppa)一千六百四十四年に生まるコサックの酋長なり。家貧なりと雖ポドリア(Podolia)侯領なるマゼッピンツイ(Mazepintzui)の名族の後裔なり。ポーランド王ヨハン・カシミールの宮廷に、小姓の教育を受けしが、一貴族の夫人に通じたるより、夫人の夫大ひに怒り、マゼッパを裸體となし、ウクライナ(Ukraina)より獲來れる駻[#「馬+干」]馬に縛し、烈しく之れを鞭打ちて放ちしかば、馬は己の産地を指して驀然として馳せ歸へり、マゼッパ其の地のコサックの農夫に助けられ、此處に客となり居りしが、遂に其才幹に由つて一千六百八十七年推されて其地の酋長となれり。彼れピョートル大帝の信任を受け、ウクライナ侯の稱號を與へられしが、ウクライナをしてロシアより獨立せしめんと欲し、始めにポーランド王スタニスラウスと共に陰謀を企て、後スヱーデン王カロルス十二世のロシアを征伐するに當り、マゼッパ之れと謀を通じたるが、ピョートル早くも其の企圖を察知し、マゼッパの國都バツーリンを屠りたり。マゼッパ遁れ來りてカロルス王の軍に會し、ポルタワの戰爭に大敗してカロルス王と共にトルコに遁れ、後、一千七百〇九年ベンデル(トルコ)にて毒を仰で死せり。   ○  バイロン此詩の例言に、ボルテールの著なる『カロルス十二世傳』中、マゼッパに關せる部分を引用せり、左の如し(されども此に余の引用せる部分は、バイロンの引用せるものより聊か多し。括弧内の文は引用せる部分なり) 『勝略者たるカロルス王は猶ほ、モスコ井゛ットの首府に至る大道を取れり。而してスモレンスコよりモスクワに至る道程尚ほ一百「リーグ」、軍漸く糧粮[#「米+自/犬」、糗]に乏し。ピペー伯は懇切に請て曰く、願くば將軍レーヱンハウプトの、軍須を齎らし、一萬五千の援兵を率ゐ來るを待ちて、共に發せんと。王は他人の諫言を用ゆること甚だ稀なりしかば、此萬全の良策に從はず、忽ちモスクワ街道を轉じて、南の方ウクライナに向つて行進を始めしかば全軍の驚愕言ふべからず。抑もウクライナはコサック人の郷にして小韃靼、ポーランド、及びモスコ井゛ットの中間にあり。……常に自由を企望したりと雖、モスコ井゛ット、トルコ、ポーランドに圍繞さるゝを以つて、此三國の一を、其保護國と頼み、隨つて又た其主君と仰がざるを得ざりしを以つて、始めはポーランド人の保護に頼りしが、ポーランド人の之れを臣僕視すること甚しかりしより、其後ロシア人に歸服したり。されどもロシア人も亦同一專制の權威を以つて之れを制馭したり。此國人は、元來總督の名を以つて一侯を撰立するの特權を有したりと雖、ロシア人の爲めに此の特權を奪はれ、モスクワの朝廷之を指名するに至れり。 『常時此任に當れる人はポドリア侯領に生れたるマゼッパと呼べる波蘭の紳士なりき。此人ヨハン・カシミールに仕へて小姓の教育を受け、宮中の優麗なる生活の臭味に薫染せり。年壯にして一紳士の夫人と穴隙を鑽りしかば、事發覺して、夫人の夫、欅を以つて之れを撻たしめ、彼れを裸體となし、野馬に縛して之れを放つ。此馬ウクライナ(ロシアの南部の地)より牽き來りし者なるより、自ら其故土に歸へり疲勞飢餓交々迫りて、半死半生のマゼッパを乗せ來れり。農民數人見て之れを助け、其後永く此地に住し、數々韃靼人との戰爭に功名を顯はし、其の智識超絶せるより、コサック人の尊敬を稱し、名聲漸く増加せしかば、魯帝(ピョートル大帝)遂に之れをウクライナ侯となさゞる可からざることゝなれり。 『マゼッパ一日、モスクワにて魯帝に陪食したることあり、帝囑するに、コサック人を訓練し、並に之れを順從仰頼せしむるの業を以つてす。マゼッパ乃ち答へて曰く、ウクライナの位置と其の人民の性質とは、此くの如き計畫を妨げて爲すこと能はざらしむるなりと。魯帝酒氣漸く上りしかば、平時と雖喜怒を制する能はざる性なれば、マゼッパを謀反人なりと呼び、械縛せんと脅かせり。 『マゼッパ、ウクライナに歸りて反逆の企をなしゝが、スヱーデン軍の境邊に現はるゝに遇ひ、之れが實行に扶を得たり。其意謂へらく、己れ獨立の君となり、ウクライナと、ロシア帝國が滅ぼしたる他の小國とを合して、強大なる王國を建立せんと。此人や勇敢にして機略あり、且つ太だ剛毅なり。之れを以つて竊かにスヱーデン王と相結び、魯帝の滅亡を促し、以て自意を行わんと謀れり。』  然るにピョートル早くも其企圖を知り、マゼッパの國都バツーリンを攻めて之を屠りたり。『マゼッパの親友は其劍を奪はれ、車輪に摧裂せらるゝ者三十人に至り、其市府は灰土に歸し其貨物は略奪せられ、スヱーデン王の爲めに準備中なりし粮[#「米+自/犬」、糗]糧は取り押へられしかば、こゝに六十人を率ゐて金銀を荷載せる馬匹を以つて其身を遁れ』辛ふして、國境に現はれたるカロルス王の軍に合し、一萬五千の兵を以つて、ロシア軍五萬に對し、猛烈慘激、悲壯なるポルタワ戰爭を戰ひ、全然敗北し、兵士の大部分は、或は死し、或は生擒せられ、カロルス王は負傷し、僅少なる殘兵を以つて遁走す。 『カロルスは敵に追躡され、其馬を斃されたり。大佐ギエタと云へる者あり、身傷き出血の爲めに疲れたりと雖、己の馬を王に献じたりしかば、諸人王を扶け起し、再び馬上に登せたり。……將軍レーヱンハウプトは此敗軍を率ゐて一道よりし、王は騎兵の若干を具して他道より進みたり。行進中、王の車破壞せしかば諸人再び王を馬に乗らしめたり。其不幸の極、王は遂に終夜一森林中に彷徨したり。茲に於て、其勇氣も疲れはてたる精神を維持する能はず、其創傷は疲勞の爲めに愈々激して、堪ゆべからず、其馬亦疲れて斃れしかば、遂に一樹の根に横臥すること數時間、魯軍は四方に王を搜索して瞬々逼近せんとするの危險に迫れり』 (右に引用したるは故立花鏡三郎君の譯に係る『北光』中の文にして、二三余の變更したる個所あり) (此詩は此際マゼッパが、カロルス王に物語りするの仕組みなり。)  是よりスヱーデン王カロルスは、大速力を以つて遁走し、僅々數百の殘兵及びマゼッパ附隨し、ヲルスクラ(Volskla)河とポリステネース河との會合するペレヲロフナ(Pelewolochna)と稱する所より、非常の困難を以つてポリステネースの大河を渡り、其れより廣漠たる土地を經過し、殆と饑餓に瀕し、辛うじてボッグ(Bug)河を渡り、遂にトルコの「パシャ」(副王)の厚意に由りドニエステル(Dniester)河上のベンデル(Bender)に駐まり、スヱーデン王カロルス、マゼッパ及び殘兵數百はトルコ政府の客分となれり。然るにカロルス王トルコに客たる三年間は、其待遇上種々不當の要求を爲し、或はトルコをしてロシアと戰はしむる陰謀を企つるなどして、大にトルコ政府の迷惑を感ぜしめたるが、遂に私かに遁れてスヱーデンに歸へりて、又々不運の數度の戰爭を爲し、ノルヱーを征伐する時彈丸に中つて沒す。  元來ポルタワ戰爭はマゼッパの献策に由つて戰はれたるものにして、マゼッパの名はロシア全國の教會より破門呪咀する所となれり。  後ロシアのピョートル大帝は、トルコ政府に要求するに、マゼッパの引渡を以つてせしと雖マゼッパは病を獲て(或は毒を仰ぎしとも云ふ)死し、(一千七百〇九年)爲めに其運命を遁れたり。マゼッパの墓はルーマニアの有名なる都府ガラッツ(Galatz)の聖マリア寺にありと謂ふ。  此詩は一千八百十八年、バイロン・ラヱ゛ンナにて書きしものにして、其草稿は、バイロンの情婦ギツチョリ伯爵夫人テレサ手寫して英國に送りて印刷に附せしなり。『マゼッパ』中、美麗なるポーランドのテレサ、其年若き情郎及び年老たる夫「パラチン」伯を描くに當つてや、必ずや、イタリアなる情婦テレサ、其夫ギッチョリ伯及び自己の身の上を織り込みしや疑ふべきに非ざるなり。(ギツチョリ伯爵夫人テレサの事は拙著『バイロン文界の大魔王』八十三頁以下を見よ。) [#改ページ]   汗血千里マゼッパ [#地付き]バイロン 作 [#地付き]木村鷹太郎譯   一 時は維れ、慘激なる[#(一)]ポルタワ戰爭の後、 運命|瑞典《スヱーデン》王を離れ去り、 今や既に鬪ふ能はず、又た血を濺ぐ能はざる、殺戮されし軍隊を 累々として王の四周に殘したり。 戰爭の權力も光榮も 空しく戰爭《いくさ》に奉仕《つか》ふなる、人等と同じく眞實《まこと》なく、 今や勝に打誇れる、「[#(二)]ツァール」に全く歸しはてゝ、 [#(三)]他年一層今にもまさり、暗黒凄愴なる時と― 又た一層に、紀念すべき其年が、 今に優れる軍勢と、尚ほ傲慢の其名とを、 殺戮侮辱に附するまで、 モスクワの都の城壁は、再び心安けくなりにけり。 實《げ》にこれ大《おほい》なる破滅にして、又た甚しき蹉跌なり。 其一人に與へたる激動は―萬人に取つての電撃なり。 [#改ページ]   二 こは之れ、振《ふ》り出だしたる骰子《さい》の偶然のみ。 負傷なしたるカロルスは、晝夜兼行、 己《おの》が血潮と臣下の血潮にまみれつゝ、 野を過ぎ河を打渡り、遁げざることを得ざるなり。 此敗走を助けんと、數千の兵士は斃れたり。 今や[#「今や」に白丸傍点]「眞理[#「眞理」に白丸傍点]」は聊かだにも[#「は聊かだにも」に白丸傍点]、「權力《ちから》」を恐るゝ要なき所の[#「を恐るゝ要なき所の」に白丸傍点]、 弱りはてたる此塲にも[#「弱りはてたる此塲にも」に白丸傍点]、 一と言だにも大望を[#「一と言だにも大望を」に白丸傍点]、非難する聲起るなし[#「非難する聲起るなし」に白丸傍点]。 王の馬は斃れたり。[#(四)]ギエタは、我騎る馬を王に讓り― 其身はロシアの捕虜となりて死してけり。 此馬とても又假令、心盡くしていたわりしも、 激しき疲れに弱りはて、數里を行きて斃れたり。 取り圍みたる敵軍の、目標《しるし》となれる篝火《かがりび》を 影ほの暗く遙かに見つゝ、 森の深みに、王は其身を、遂に休めで叶はずなりぬ。 嗚呼これ彼等國民が、必死の力を出だしつゝ、 求めし所の、名譽の月桂冠なるか、はた又た休みの塲所なるか。 彼等は疲れ弱りはて、苦しみなやむ其王を 荒き樹蔭《こかげ》に横へぬ。 王の手負《ておひ》はいとも烈しく、王の五體は甚だ硬《こわ》く、 疾《や》ましき今の此時は、げにも陰欝暗憺として、 創《きず》の熱持つその血潮は、 時に取つての救なる、暫時《しばし》の眠《ねむり》も之れを許さず。 苦しみ此くの如しといへども[#「苦しみ此くの如しといへども」に白丸傍点]、王は終始王者の如く[#「王は終始王者の如く」に白丸傍点] 我が沒落の威儀を保ち[#「我が沒落の威儀を保ち」に白丸傍点]、 惱《なや》みの[#「みの」に白丸傍点]極《きわみ》のこの時にも[#「のこの時にも」に白丸傍点] 彼れの烈しき苦痛をば[#「彼れの烈しき苦痛をば」に白丸傍点]、彼れの意志の臣下となし[#「彼れの意志の臣下となし」に白丸傍点]、 嘗ては諸國の人民が[#「嘗ては諸國の人民が」に白丸傍点]、彼れの四周に服せし如く[#「彼れの四周に服せし如く」に白丸傍点]、 凡ての苦痛は粛然してと[#「凡ての苦痛は粛然してと」に白丸傍点]、皆盡く服從せり[#「皆盡く服從せり」に白丸傍点]。 [#改ページ]   三 將士の一團―嗚呼如何に少きかな。 僅か一日の其中に、此くも人數|減《へ》りにけり。 さは云へ今の此敗軍―皆|誠心《まごゝろ》を盡しつゝ、 又た勇敢に戰ひぬ。 無念の悲しみ言葉なく、 王も軍馬も人々も、共に地上に坐しにける。 げにや危難は[#「げにや危難は」に白丸傍点]、獸《けもの》も人も[#「も人も」に白丸傍点]、皆な一樣になしはてゝ[#「皆な一樣になしはてゝ」に白丸傍点]、 其必要の同じきより[#「其必要の同じきより」に白丸傍点]、凡てのものは友にぞある[#「凡てのものは友にぞある」に白丸傍点]。 人々の内[#「人々の内」に白丸傍点]、ウクライナ族の酋長たり[#「ウクライナ族の酋長たり」に白丸傍点]、 沈着剛膽[#「沈着剛膽」に白丸傍点]、而も若く非ざるマゼッパは[#「而も若く非ざるマゼッパは」に白丸傍点]― 其身の[#「其身の」に白丸傍点]粗《あ》らさ其如く[#「らさ其如く」に白丸傍点]、年古り荒らき[#「年古り荒らき」に白丸傍点]樫《かし》の樹の[#「の樹の」に白丸傍点]、蔭を己の枕と定め[#「蔭を己の枕と定め」に白丸傍点]、 長途の軍に疲れしも、 此コサックの酋長は、先つ其馬を撫で下《おろ》し、 馬の爲めにと、木の葉の床《とこ》を作りなし、 膝をさすり、鬣《たてがみ》を撫で 腹帶を緩るめ、手綱を解き、 此くして後に如何に善く、馬の秣に飽[#「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73、饜]けるかを、 見るを始めて樂しみぬ。 こは此時に至るまで、疲れし彼れの此愛馬は、 夜露に打たれ休むをば、 嫌ふ恐れのありしなり。 然りと雖此馬は[#「然りと雖此馬は」に白丸傍点]、其主の如く堅忍不拔[#「其主の如く堅忍不拔」に白丸傍点]、 食事も床も何ぞ望まん[#「食事も床も何ぞ望まん」に白丸傍点]、 その氣は強きも亦柔和に[#「その氣は強きも亦柔和に」に白丸傍点]、 爲すべき事は何事も[#「爲すべき事は何事も」に白丸傍点]、必ず喜び之れを爲さん[#「必ず喜び之れを爲さん」に白丸傍点]。 毛荒く、捷《はや》く、足強く 全く凡て韃靼流《だつたんりう》に、馬は其身を振舞へり。 彼れの聲をば聽きわけて、其呼ぶ時は來るなり。 數千の人は入り交《まじ》るも、 星も有らざる夜は來るも、 凡ての人の其中にも、彼れは其主を識り別けて、 夕より曉《あけ》に至るまで 馬は子鹿の其如く、彼れの主人に附きまつへり。 [#改ページ]   四 マゼッパ此くて外套廣ろげ、 樫《かし》の根幹《ねもと》に槍を立てかけ、 行程長き其間に、武器は何れも完きかを、 一々あらため試《た》めしつゝ― 火藥は火皿《ひざら》に尚ほあるか、 燧《ひうち》の石は撃鐵に、しかと保たれ有るなるか、 刀の柄《つか》は如何ならん、又た其鞘は如何ならん。 帶革《おびかわ》若しや摩《す》り切れずや、撫でさすりつゝ改《あらた》めぬ。 次いてけだかき此老將は、 糧嚢及び鑵の中より、 いと僅かなる蓄《たくは》へを、取り出だしつゝ並べつゝ、 宮に仕ふる人々等が、酒宴の席に在るよりも 尚ほ沈着の態度もて、 其食物の、全部或は其一部を、 王に捧げ、左右の者に薦《すゝ》めたり。 カロルス王は打ゑみつゝ、 暫《しばし》が間、僅かの彼れの馳走に加はり、 強ひて機嫌を壯んにし、 負傷と不幸を超脱して、感ぜぬ樣《さま》を力《つと》めつゝ、 扨て言ひけらく『吾等味方の一同は、 何れも心は勇敢に、手腕も強き其中に、 戰鬪にも、進軍にも、又た襲撃にも、 言葉はたとひ少きも[#「言葉はたとひ少きも」に白丸傍点]、其爲す所の優りて多きは[#「其爲す所の優りて多きは」に白丸傍点]、 嗚呼マゼッパ[#「嗚呼マゼッパ」に白丸傍点]、汝に及ぶ者なけん[#「汝に及ぶ者なけん」に白丸傍点]。 アレキサンドロス以來今日まで、 汝《な》がブケファロスと汝《なんぢ》程、 格好《かくかう》したる配偶は、地上に曾て生れざり。 洪水をも、原野をも、其を乗り廻はすの巧みなる、 [#(六)]スキチア人も其名譽を、凡て汝に讓るべし。』 マゼッパ答へて言ひけらく、 『さば、我が馬に乗る術の、學びの校《いへ》を語らんか。』 カロルス王言ひけらく『如何に爲してか老酋長 此くも汝は此術に、深く熟達致したる。』 マゼッパ曰く『此事語らばいと長し。 急流激する[#(七)]ポリステネースの彼方《かなた》にて、 我等の馬の休息して、秣《まぐさ》飼《か》ひ得る其れまでに、 吾等の一は[#「吾等の一は」に白丸傍点]、少くとも[#「少くとも」に白丸傍点]、敵の十に當りつゝ[#「敵の十に當りつゝ」に白丸傍点]、 數々打撃を加へつゝ[#「數々打撃を加へつゝ」に白丸傍点]、 數里を尚ほも、吾等は行くを要するなり。 されど陛下よ、陛下の御身[#「御身」に傍点]は休《やす》みを要す。 吾は陛下の、此軍隊の哨兵たらん。』 瑞典《スヱーデン》王言ひけらく『されども我れは望むなり、 汝の話を語り聽かせよ、 或は我れは夫れに由り、 眠の賚《たまもの》得ることあらん― 其は今や、一時まどろむ其希望も、 我れの目よりは飛び去り居ればぞ。』 『さらば陛下よ、其如きの心もて、 吾れの記憶の、七十年の昔をたどらん。 思ひ出づれば、我れの二十《はたち》の春なりき― 然り、カシミール―ヨハン・カシミールの、王たりし時のこと― 我が青年時代の六年《むとせ》の間、 我れは王の小姓なりき[#「我れは王の小姓なりき」に白丸傍点]、 此王眞に學を好み、 全く陛下と異にして、 一度《いちど》も戰《いくさ》を起こすことなく、 再び失ふ其爲めに[#「再び失ふ其爲めに」に白丸傍点]、新の版圖を獲もなさず[#「新の版圖を獲もなさず」に白丸傍点] たゞワルシャワの議會にて、議論するある其外は、 見苦しきまで、最も平和に支配せり。 さは言へ王を惱《なや》まする、心懸りのものは有り。 王は「ミユーズ」と女性を愛せり。 されど是等は、時に王に從順ならず、 王をして、自ら不和を願はしむることもあり。 されども直に、怒り解くるや、 王は他《ほか》なる女を愛し、或は新の書を讀みつ、 次には盛大非常の祭《まつり》を行ひ― g羅を飾れる王の宮廷、 みやび盡しゝ、貴婦人將士を見ん爲めに、 全ワルシャワの人々は、王の門邊《かどべ》に集りつどひぬ。 王は波蘭《ポーランド》のソロモンなりと、 彼れの詩人等皆歌へど、 こゝに一人《いちにん》、恩給得ざる詩人ありて、諷刺の詩を詠《よ》み 阿諛諂侫を爲さゞるを、獨り自ら誇り居たり。 實《げ》にこれ[#「にこれ」に白丸傍点]、戲れ試合[#「戲れ試合」に白丸傍点]、狂言[#「狂言」に白丸傍点]|道化《どうけ》の宮廷にて[#「の宮廷にて」に白丸傍点]、 此宮中にある者は[#「此宮中にある者は」に白丸傍点]、一人だにも詩文作らぬ者はなく[#「一人だにも詩文作らぬ者はなく」に白丸傍点] 吾《わ》が如きだも[#「が如きだも」に白丸傍点]一度《いちど》は歌を作りつゝ[#「は歌を作りつゝ」に白丸傍点]、 吾れ其短歌に記名しぬ[#「吾れ其短歌に記名しぬ」に白丸傍点]、『望あらざる[#「望あらざる」に白丸傍点][#(八)]チルジス[#「ルジス」に白丸傍点]』と[#「と」に白丸傍点]。 時に一人《ひとり》の「[#(九)]パラチン」の宮内官あり。 伯爵にして名門の後裔なり。 又た其富や[#(十)]鹽礦銀山の豊けき如く、 其尊大の趣や、 或は之れ、天より降《お》りし者かと思はる。 彼れ此く血統に富み、礦物に富み、 王座の下《もと》に在る者にて、匹敵する者殆どあるなし。 彼れつく/″\と、己が貨財を打眺め、 又其系圖を見つめつゝ[#「又其系圖を見つめつゝ」に白丸傍点]、 遂には思想の亂れを起こし[#「遂には思想の亂れを起こし」に白丸傍点]、 頭腦有らざる者かの如く[#「頭腦有らざる者かの如く」に白丸傍点]、 祖先の立てし[#「祖先の立てし」に白丸傍点]功績《いさをし》は[#「は」に白丸傍点]、己れのものと思ふに至りぬ[#「己れのものと思ふに至りぬ」に白丸傍点]。 されども彼れの妻なる人[#「彼れの妻なる人」に白丸傍点]は、 夫と意見を異にせり。 妻は芳紀、夫よりも三十若かく[#「夫よりも三十若かく」に白丸傍点]、 夫の支配の下《もと》に在るを、日々に物憂《ものう》く思ひ來《き》て、 遂には種々の願い事、或は希望《のぞみ》、或は恐れの思を起こし、 徳義に向つて[#「徳義に向つて」に白丸傍点]、いと僅かなる[#「いと僅かなる」に白丸傍点]、別れの涙をこぼしつゝ[#「別れの涙をこぼしつゝ」に白丸傍点] 穩《おだや》かならざる夢|一二三《ひふみ》、ワルシャワの若人達《わかびとたち》に向くる目使《めつかひ》 歌の會《つどひ》及び舞踏の會《つどひ》など、 待ちに待たるゝ、さは云へ常の機會にて、 是等の樂しき折々は、 冷淡極まる貴婦人をも、いとも優《やさ》しき人となし、 天に昇《のぼ》らん旅行券よと、人|噂《うわさ》せる稱號もて、 夫の君たる、伯爵の名を飾るなり。 されど是等の稱號に、最も當れる人々を、 彼等の敢て誇らぬは、いとも不思儀の事なりけり。 [#改ページ]   五 『其時吾は[#「其時吾は」に白丸傍点]、容姿美《みめうるは》しき青年なりき[#「しき青年なりき」に白丸傍点]。 此七十の吾が年《とし》にて、此くは言ふとも可ならんか― 吾が青春の其當時、 少年たれ成人たれ、 小姓たれ、或は騎士の階級たれ、 吾れに對して、華美《はで》を競ひ得る者は、其數いとも少なかり。 吾れは力も強く、年若かく、又た其氣質は快活に、 我が容貌は、君等が今見るが如きに非ず、 肌理《きめ》もこまかにありしかど、今はむさく荒れはてぬ。 こは之れ齡《よわい》と心使ひと、戰《いくさ》とが、 我れの額《ひたい》の表より、我れの心に、皺《しわ》鋤《す》き入れしに由ればなり。 此くて人若し、吾れの今と昔とを、比較するを得たりとも、 尚ほ我が同族にも一類にも、 吾れの言葉は信ぜられじ。 抑も此變化の始まりは、 我が年長けて、小姓たるの容貌を、失ふよりも長き前なり。 たとひ年には寄りたりとも、 我が體力も勇氣も心も、其衰ろへざるは皆な人々の知れる所。 若し夫れ然らざらんには、今や星なき空を天蓋《てんがい》とし、 我れは木蔭《こかげ》に、 昔を語り居らざるべし。 さても─テレサの姿─[#「さても─テレサの姿─」に白丸傍点] 今も彼處の胡桃《くるみ》の木と、我れとの間に、 立ち現はるゝ思ひして、 其想ひ出《で》は、此く鮮《あざや》かに温かし。 されど此く吾が愛する女の姿、 如何なる言葉に言ひ表はさん─ [#(十一)]其眼は實に亞細亞的[#「眼は實に亞細亞的」に白丸傍点]、 我れに隣れる土耳其《トルコ》人種と、 我が波蘭《ポーランド》の血統との、混合したるものにして、 今此|空《そら》の、暗きが如き黒眼勝ち─ されどまた、夜半《よは》に月の出《で》そめの如き、 なつかしき光は影さしつ─ 太く、暗く、光の流れに浮びつゝ、 其身自身の光彩に、溶け去るかとも思はれて、 凡て之れ愛、半《なかば》は疲勞《つかれ》半は火、 恰も火刑《ひあぶり》に逢ふ聖者等が 死を喜べる樣《さま》にして、 恍惚として[#「恍惚として」に白丸傍点]、天を仰ぐに似たりけり[#「天を仰ぐに似たりけり」に白丸傍点]。 其額は夏の[#「其額は夏の」に白丸傍点]湖水《みづうみ》、 波もさゞめくなきの時、 日光さし込み、透きとほり、 天も己れの面影を、其處に眺むる如きなり。 頬《ほう》と唇《くちびる》─我れ如何なれば、此くは語り進むぞも。 そは我れ其時女を愛し、今尚ほ愛する故にこそ。 此くて我れの性として、 善にも惡にも其愛や、實に烈しき極端なり。 されど吾等は今と雖、狂するばかりに尚ほ愛し、 此現在の[#「此現在の」に白丸傍点]年齡《とし》までも[#「までも」に白丸傍点]、 過去の空しき影に取りつかれ[#「過去の空しき影に取りつかれ」に白丸傍点]、 さもマゼッパが最後まで[#「さもマゼッパが最後まで」に白丸傍点]、王に從ふ如きなり[#「王に從ふ如きなり」に白丸傍点]。 [#改ページ]   六 『吾等は逢ひぬ─相見つめぬ─吾れ見て、と息《いき》つきにけり。 彼女、言葉なけれど答は爲せり。 千萬無量の音調も、徴證《しるし》も是れに含まれて、 吾等其を聽き又た見るも、誰しも之を解くことなく─ 知らず識らずの思想《おもひ》の火花《ひばな》は、 不思議と共に意味深き 一種異樣の通信を、 疲れし胸より工夫し出だし、 燃ゆるが如き鎖を連ね、 意志《こゝろ》あるに非ずして、若き人等の胸と心を結びつゝ、 如何になしては知らざれど、 電氣の線の爲す如く、燒きも盡くさんばかりなる、烈火を傳へ送るなり。 我れ、彼女を見てと息つき─心の内には泣き居たり。 されども我れは女に知られ、 疑念を胸に置くことなく、語り得るに至るまでは、 尚ほも本意なき隔り保ちぬ。 二人の關係《なか》は、此くまで熟せしとは云へども、 我れ尚ほ胸に焦れ居て、漸く思ひを明かさんと、心決しぬ。 さはいへ、震へる弱き我が聲は 殆ど一と時其間、唇よりぞ消え去りぬ。 或日の事よ、或慰みの勝負あり、 げにこれ、たわけし遊びにて、 一と日を之れに費やしぬ。 吾れ今ま其名を忘れしが 或不思議なる機會にて、 吾等仲間に入れられしが、其機會の何なりしかは忘れたり。 或は勝つとも負くるとも、何れなりとも厭ふなし。 たゞ此く深く戀ひ慕ふ、人の近くに我が居りて、 又た見ることを得だにせば、 滿足なりと思ひたり。 我れ番兵のその如く、彼女をのみ見守りぬ。 (闇《くら》き[#「き」に白丸傍点]今宵《こよい》の[#「の」に白丸傍点]、吾等の見張りも此くこそあれ[#「吾等の見張りも此くこそあれ」に白丸傍点]。) 見れば彼女、物思ひある面色《おもいろ》にて 其爲す所に氣のなき如く、 負くるも勝つも悲しまず、又た喜ばぬ樣《さま》なりき。 彼女勝つべしとしも見えざれど、 自ら己が心もて、其身を此處に縛《しば》りし如く、 尚ほ時長く遊びけり。 こゝに於てか我が頭腦に、忽然一の思想は浮び出《で》ぬ、 さも之れ、電光《いなづま》の、閃《ひらめ》きしにも比《たとう》べく、 彼女の身の振には、 我れを失望に、宣告せざる、或ものありと思はせたり。 此考へに從ひて、我は言葉を漏らしゝが、 凡てこれ、前後揃はぬものなりき。 其雄辯は、何等の値あるなきも、 彼女は其を聽きたり─之れにて足れり─ 一と度び耳を借す者は、再び我に聽くものぞ。 彼女の心情は、確かに、氷にては非ざるなり。 一度《いちど》は或は否むとも、其實拒むに非ざるなり。 [#改ページ]   七 『我は愛しぬ、[#「、」は底本では空白]愛されぬ。 聞けば陛下は[#「聞けば陛下は」に白丸傍点] [#(十二)]かゝる優さしき[#「優さしき」に白丸傍点]、情《なさけ》の事は知り玉はぬと[#「の事は知り玉はぬと」に白丸傍点]。 若し夫れ眞に然りせば、吾が歡樂と苦痛との、話《はなし》は凡て省略せん。 陛下に在つては此くの如きは[#「陛下に在つては此くの如きは」に白丸傍点]、笑ふべきこと[#「笑ふべきこと」に白丸傍点]、空しきことゝ見ゆるならんも[#「空しきことゝ見ゆるならんも」に白丸傍点]、 凡ての人は盡く[#「凡ての人は盡く」に白丸傍点]、支配せん爲め生れ來らず[#「支配せん爲め生れ來らず」に白丸傍点]― 或は己が情欲を[#「或は己が情欲を」に白丸傍点]、 或は陛下の爲す如く[#「或は陛下の爲す如く」に白丸傍点]、是等の情欲[#「是等の情欲」に白丸傍点]、及び多くの國民を[#「及び多くの國民を」に白丸傍点]。 我は一個の君主なり―然り寧ろ君主なりき。 能く數千の頭として、 彼等を率ゐ、激戰奮鬪せしめ得れども、 たゞ我れ自身を制御するは、 之れと同じき事を得ず。 さるにても、我は愛しぬ、愛されぬ。 げに/\我れは幸運なりき。 されど至極の幸福は、苦痛に終るものなりけり。 吾等忍びて相逢ひぬ。 夫人の室に、吾れの忍ひし「其時」は、 烈火の如き待つ戀の、養老資産〔と今ぞ知る〕 たゞ「かの時」の其外は、我が夜も晝も凡て何ぞや― 青年より老年まで、長き年月《としつき》其間、 是れに似たる何事をも、思ひ出ださんことはなし。 吾れはウクライナの地を返還し[#「吾れはウクライナの地を返還し」に白丸傍点]、 再び小姓の身となりて[#「再び小姓の身となりて」に白丸傍点]、 一人《ひとり》のやさしき胸の君となり[#「のやさしき胸の君となり」に白丸傍点]、己《おの》が[#「が」に白丸傍点]劍《つるぎ》の主となりて[#「の主となりて」に白丸傍点]、 たゞ青春と健康との[#「たゞ青春と健康との」に白丸傍点]、天の授けの其外に[#「天の授けの其外に」に白丸傍点]、 寶石もなく富みもなき[#「寶石もなく富みもなき」に白丸傍点]、樂しき小姓とならまほし[#「樂しき小姓とならまほし」に白丸傍点]。 吾等忍びて相逢ひぬ― 人言ひけらく、忍び相逢ふ樂しみは、二倍の樂しみあるものよと、 そは我れ知らず― 天地の間に公明正大、たゞ彼女の生命を、我がものなりと言ひ得ん爲め、 我れの生命を、與へんことぞ願はしき。 我は屡[#「尸+婁」、第3水準1-47-64、屢]々はかなみつ、且つ又た長く恨みたり― たゞ/\秘密に、忍び相逢ふのみなるを。 [#改ページ]   八 『凡て戀人等に對しては、多くの人目あるものにて、 此くの如き多くの人目は、實に吾等の上にもありき。 かゝる折には、惡魔をも禮儀を守るべし― あゝ惡魔―我れは彼れを、害することを好まざり。 たゞ其敬虔なる義忿をば、洩らさんとの其爲めに、 餘りに長く、心休めぬ其人は、 稍強情の、聖者にてもや之れ有らん。 然りと雖、美しき或夜のこと、待ち伏せしたる間者等は 不意に現はれ、驚く吾等二人を捕へぬ。 伯爵|殿《どの》は、烈火の如き激怒なり。 我は其時何の武裝もあらざりき、 たとひ若《も》しくは、頭の先きより足の先きまで、剛鐵をもて甲《よろ》ひたりとも、 彼等多數に對しては、今はた何をか爲し得べき。 塲所はこれ城の近く、市街を離れて、何の救助も得難き地、 時は殆ど、曉近き頃なりき。 我は他日の太陽を、又た見得んとは考へず、 我れの生命の瞬間は、僅かになれりと思ひたり。 されば我は、聖母マリアと、 一人《ひとり》二人《ふたり》の聖者とに祈祷[#「示+壽」、第3水準1-89-35、禱]をさゝげ、 身を運命に任かしゝ時、 彼等は我を、城門内に運び入りぬ、 テレサの運命、如何になりしか吾れ知らず、 其時以來全く吾等別け離されぬ。 傲慢なるパラチン伯の忿怒の状は、 推測しても之れを知れ。 其は素よりの道理なり。 されども彼れの最も怒るは、 かゝる意外の事件《ことがら》が、 將來彼れの、家系を褻がすを恐れてなり。 又た彼れや、其血統の中にても、最も高きに關はらず、 其貴き紋章《もんどころ》に、かゝる汚辱を被りしには、 驚愕少なからざりき。 こは彼れ、人間中の第一なりと、自ら思ひ― 他人の目にも然るべく―且つ殊に、我れの眼には然るべしと、自ら思ひし故にこそ。 あゝ我れ僅かに事の始め、小姓の身にて死せざる可からず― されど恐らく、王は自ら仲裁しけん。 我れ小姓の青春を以つてして― 伯爵殿の、忿怒は之れを感ずるも、其形容は之れを肅き能はぬなり。 [#改ページ]   九 『馬連れ來れ[#「馬連れ來れ」に白丸傍点]』―馬連れ來たさる[#「馬連れ來たさる」に白丸傍点]。 此馬實に駿馬にして[#「此馬實に駿馬にして」に白丸傍点]、 ウクライナ産の[#「ウクライナ産の」に白丸傍点]韃靼《だつたん》種《だね》。 其思想の迅速なるは、 四足にありとまで見られたり。 此馬甚だ荒く、其荒きこと、野生の鹿の荒きが如く、 馴致《なら》されたることもなく[#「されたることもなく」に白丸傍点]、拍車も轡も未だ之れを受け[#「拍車も轡も未だ之れを受け」に白丸傍点]しことなく、 僅かに一日捕へられて[#「僅かに一日捕へられて」に白丸傍点]、此處に來りしものたるなり[#「此處に來りしものたるなり」に白丸傍点]。 鼻息強く鬣《たてがみ》振り立て、 烈しく荒るゝも其甲斐なく、 怒りと恐れの泡を吹きつゝ― 此くの如きの荒野|育《そだち》は―我れにまで持ち來されぬ。 彼れの卑しき奴僕等は、 革《かわ》の紐《ひも》の多くもて、我を馬背に縛り付け、 急撃一鞭[#「急撃一鞭」に白丸傍点]、馬をば解きて放ちしかば[#「馬をば解きて放ちしかば」に白丸傍点]、 吾等忽ち突進奔逸[#「吾等忽ち突進奔逸」に白丸傍点]、遠く彼方に[#「遠く彼方に」に白丸傍点]、驀然《まつしぐら》に驅《か》け去りつ[#「け去りつ」に白丸傍点]、 其急激猛烈なる[#「其急激猛烈なる」に白丸傍点]、如何なる激流も比すべきに非ざりき[#「如何なる激流も比すべきに非ざりき」に白丸傍点]。 [#改ページ]   十 『驅《か》けれり―驅けれり、我が息《いき》盡きぬ、 馬は何處に馳せ行くや、我れは知らず。 時はいま、漸く曉《あかつき》なせる頃、 馬は尚ほ泡を吹きつゝ、たゞ一《いつ》さんに驅《か》けれり―驅けれり。 我れが敵より驅け出し時、 聽きし所の最後の聲は、 嘲り笑ふ野蠻粗暴の叫びにして、 下賤の奴僕の群集より、 瞬時の後、風に送られ轟《どよ》み來れり。 我れは怒りて、突然頭ねぢ上げて、 手綱代りに我れの頸《くび》を、 鬣に、縛り付けたる綱《つな》を緊付《ひきつ》け、 殆ど半、我身を持ち上げ 咀の言葉を叫び返へせり。 然りと雖馬の足《あ》がきの速なると、又た其雷なす響とに、 彼等恐らく其を聽かず、又た氣を留むるなかりしならん。 彼等の無禮に、報ひんと思ひたる我れ、 如何でか之れを怒らざらん。 此後我れ[#「此後我れ」に白丸傍点]、見事に之れに復讎し[#「見事に之れに復讎し」に白丸傍点]、 城門も、釣り橋も、又た重き釣り格子も、 石も、障害物も、堀も、橋も、又た柵も、 一も之れを殘こすことなく、 其田畑には、草の一と葉もあらしめず、 たゞかの館《やかた》の、煖爐の石の在りしあたり、 崩れ落ちたる壁の上に、草の生《は》ゆるのみとはなしぬ。 人若し、數々其所を過ぎ行くとも、 嘗ては此處に城塞ありしを、夢にも知ることなかるべし。 我れ、其塔や、樓《やぐら》は燃え、 城砦《とりで》の壁は裂け碎け、音を立てゝ崩れ落ち、 燒けて黒《くろ》ずむ其屋根は、 厚《あつ》さはたとひ厚《あつ》しとも、復讐除けとなり能はず、 鉛《なまり》の[#(十三)]熱湯、雨の如く注がるゝを見き。 曩《さ》きに彼等が雷《いなづま》なせる馬に我れを乗せ、 死地に激奔爲さしめて、吾れに苦痛を與へし日には、 他日我れが再び來り、 五千騎の二倍もて、 伯爵殿の不體なる、乗馬に謝禮すべしとは、 夢にも之れを思はざりけん。 其時彼等我れに惡戲し。 荒れ馬をもて嚮導となし、 そが汗血の脇腹《わきばら》に我を縛《しば》れり。 されども[#「されども」に白丸傍点]「時[#「時」に白丸傍点]」は[#「は」に白丸傍点]、凡ての物を平均す[#「凡ての物を平均す」に白丸傍点]― 遂に我れは[#「遂に我れは」に白丸傍点]、思ふがまゝに[#「思ふがまゝに」に白丸傍点]、彼等を戲れ弄びぬ[#「彼等を戲れ弄びぬ」に白丸傍点]― 若し吾等[#「若し吾等」に白丸傍点]、人の罪をば赦るすことなく[#「人の罪をば赦るすことなく」に白丸傍点]、 たゞよく時機を窺ふ時は[#「たゞよく時機を窺ふ時は」に白丸傍点]、 かの惡行を蓄へて[#「かの惡行を蓄へて」に白丸傍点]、積み重ねたる者に對して[#「積み重ねたる者に對して」に白丸傍点]、 忍耐なせる探索と[#「忍耐なせる探索と」に白丸傍点]、長き時日の注意とを[#「長き時日の注意とを」に白丸傍点]、 遁れ得しむる人力なるもの[#「遁れ得しむる人力なるもの」に白丸傍点]、未だ嘗て之れあるなし[#「未だ嘗て之れあるなし」に白丸傍点]。 [#改ページ]   十一 『驅《かけ》れり、驅れり、我と馬とは、 嵐の翼に打乗りて、 人の住居《すまゐ》は、凡《すべ》てこれを後《あと》に見ぬ。 馬蹄の音は鳴り響き[#「馬蹄の音は鳴り響き」に白丸傍点]、 夜《よ》は北光に[#「は北光に」に白丸傍点]閃《ひらめ》く時[#「く時」に白丸傍点]、 天を横ぎる流星の[#「天を横ぎる流星の」に白丸傍点]、如くに吾等飛び行きぬ[#「如くに吾等飛び行きぬ」に白丸傍点]― 我等の路に當つては、町も村も一つだになく、 曠漠[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58、邈、バク]たる大野原《おほのはら》が 黒き色なる、森に限られあるのみにて、 遠き彼方《かなた》の小高き山に 土耳其《トルコ》人種を防がん爲め、去る年築きし城砦の、 やぐらの壁をかすかに見るのみ― 人跡更に有ることなし。 こゝは前きに、土耳其《トルコ》軍勢侵入し、 [#(十四」)]スパーヒ騎兵の、馬蹄の蹂躙し盡くして、 草の緑は、血潮の泥《つち》に塗《まみ》れし所。 天は曇りて、灰色なして薄暗く、 低《ひく》く吹き來る軟風は、物哀れげに下《した》匍匐《はひ》つ、 我れたゞ歎息《といき》、之れに答へ得たるのみ。 されど我等は、遠く遠く、急速に馳せ去りつ、 と息《いき》も祈祷[#「示+壽」、第3水準1-89-35、禱]も、何れもこれを爲し能はず、 冷たき汗は、滴々と雨なして、 毛荒き馬の、鬣《たてがみ》の上に落つ。 されども馬は、尚ほも怒《いか》りと恐《をそ》れとに、鼻息《はないき》荒らく 飛ぶが如くに大速力もて長驅せり。 時には我れ、まことに思ひけらく、 馬は今や、其速力に弱りしならんと。 されど然らず。縛《しば》られたるか細《ほそ》き我身は 怒れる馬の力に取つては[#「怒れる馬の力に取つては」に白丸傍点]、何ものにてもあることなく[#「何ものにてもあることなく」に白丸傍点] 却つて拍車の用を爲し[#「却つて拍車の用を爲し」に白丸傍点]、 脹れて痛める我れの五體の[#「脹れて痛める我れの五體の」に白丸傍点]、其苦しさを弛めんと[#「其苦しさを弛めんと」に白丸傍点]。 身を動かする度毎に[#「身を動かする度毎に」に白丸傍点]、 馬の怒と[#「馬の怒と」に白丸傍点]駭《おどろき》とを[#「を」に白丸傍点]、愈々増すにとゞまれり[#「愈々増すにとゞまれり」に白丸傍点]。 我れ試みに聲立つれば―あゝ[#「我れ試みに聲立つれば―あゝ」に白丸傍点]微《かす》かにして低けれども[#「かにして低けれども」に白丸傍点]、 馬は恰も鞭打たれたるものかの如く[#「馬は恰も鞭打たれたるものかの如く」に白丸傍点]、うねりつ曲りつ[#「うねりつ曲りつ」に白丸傍点] 一言一語に駭きて[#「一言一語に駭きて」に白丸傍点]、 突然ひゞく喇叭の音を[#「突然ひゞく喇叭の音を」に白丸傍点]、聽きしが如く[#「聽きしが如く」に白丸傍点]跳《と》び[#「び」に白丸傍点]上《あが》り[#「り」に白丸傍点]、 忽ちにして[#「忽ちにして」に白丸傍点]、我を[#「我を」に白丸傍点]縛《しば》れる[#「れる」に白丸傍点]革紐《かわひも》は[#「は」に白丸傍点]、血潮に濡ひ[#「血潮に濡ひ」に白丸傍点]、 凡て手足ににじみ流れ[#「凡て手足ににじみ流れ」に白丸傍点]、 舌の[#「舌の」に白丸傍点]渇《かわき》は[#「は」に白丸傍点]。 火焔[#「火+陷のつくり」、第3水準1-87-49、焰]《ほのほ》よりも尚ほ一層[#「よりも尚ほ一層」に白丸傍点]、猛烈《はげし》きものとなり來りぬ[#「きものとなり來りぬ」に白丸傍点]。 [#改ページ]   十二 我れ森林に近づきぬ― 際《は》てしもあらぬ廣さにて、 彼處に此處にそば立てる、喬木老樹は かのシベリアの荒野より、猛り狂うて吹き下だす、 其すさまじき勢に、森を赤裸《はだか》に剥《は》ぎ去らん 最も荒き疾風にも、敢て屈することはなし。 さはいへ是等は數少く、又た互に隔りて、 其の間には若かき緑の灌木の、茂げみはいとゞ深くして、 其|年《とし》々の、青葉|豊《ゆた》かに榮ゆなり。 然りと雖、秋の[#「秋の」に白丸傍点]夕《ゆうべ》の木枯《こがらし》吹かば[#「吹かば」に白丸傍点] 森の木の葉は枯れ落ちて[#「森の木の葉は枯れ落ちて」に白丸傍点]、 色は全くさめはてゝ[#「色は全くさめはてゝ」に白丸傍点]、生氣あらざる赤となり[#「生氣あらざる赤となり」に白丸傍点]、 さも戰場の[#「さも戰場の」に白丸傍点]屍《かばね》の上に[#「の上に」に白丸傍点]、 硬《こは》ばり固まる血潮の如く[#「ばり固まる血潮の如く」に白丸傍点]、地一面に散り敷きて[#「地一面に散り敷きて」に白丸傍点]、 冬の夜長の白霜の[#「冬の夜長の白霜の」に白丸傍点] 其等死人の[#「其等死人の」に白丸傍点]、墓なき頭におくときは[#「墓なき頭におくときは」に白丸傍点]、 冷《ひ》えて凍りて堅まりて[#「えて凍りて堅まりて」に白丸傍点] さすが[#「さすが」に白丸傍点]烏《からす》の喙も[#「の喙も」に白丸傍点]、凍りし其等死人の頬をば[#「凍りし其等死人の頬をば」に白丸傍点]、穿ち得ざるの趣あり[#「穿ち得ざるの趣あり」に白丸傍点]。 げにこれ、樹《こ》の下生《したばえ》の荒野《あれの》にて、 彼處《かしこ》に此處《ここ》に胡桃《くるみ》の木《き》、 不撓不屈の、樫の木松の木そば立てど、 是等は互に隔りて―こはまことに仕合わせなりき、 若し夫れ然らざらんには、我運命や如何《いかが》なりけん― 多くの枝は道を開きて、我の手足を傷つけず、 已《すで》に寒氣に、いためられたる我|傷《きず》も、 これに耐ゆるの、力あるをば知り得しも、 我を縛《しば》れる革紐《かはひも》は、身をゆるむるを許るさゞり。 我等宛も風の如く、音騷がしく枝葉《えだは》の中をくゞり行き。 若木《わかぎ》も、老樹《おひき》も、狼も[#「狼も」に白丸傍点]―是等を後に見殘せり。 夜《よる》ざれば[#「ざれば」に白丸傍点]、是等多數の狼は[#「是等多數の狼は」に白丸傍点]、我が行く路に吼《ほ》え唸《うな》り、 群を爲して、我等の後《しりべ》に迫り來り、 其迅速なる長驅には、 深き恨の獵犬をも、獵師の銃《つゝ》をも疲《つか》らし得べく、 吾等何處に驅けるとも、彼等必ず後《あと》附《つ》け來り、 朝《あした》の太陽登るといへども、彼等決して去り行かず、 夜明《よあけ》の頃には、森林中をうねり廻り、 後《うしろ》に迫る、僅かに一丈《いちじょう》半《なかば》の隔《へだたり》。 夜はよもすがら彼等の足音 或は忍び、或は騷ぐ足音の、繰り返へされて聽ゆるなり。 あゝ[#「あゝ」に白丸傍点]、我れ死なでかなはぬことなりせば[#「我れ死なでかなはぬことなりせば」に白丸傍点]、 寧ろ多數に取り圍まれ[#「寧ろ多數に取り圍まれ」に白丸傍点]、 死地に陷り[#「死地に陷り」に白丸傍点]、多くの敵を斃しつゝ[#「多くの敵を斃しつゝ」に白丸傍点]、 或は槍に[#「或は槍に」に白丸傍点]、又た劍に[#「又た劍に」に白丸傍点]、死なんことをぞ望みたる[#「死なんことをぞ望みたる」に白丸傍点]。 始め我れ、馬の驅け出《い》でたりし時、 我目的は、已にこれを、達し得たりと思ひしも、 今や馬の速力も、力もこれを疑ひぬ。 然りと雖、此疑は用あらず、其速力と荒き育《そだち》は 彼を勵まし力付け、宛も牡鹿の如く爲し 森林中を馳する勢[#「森林中を馳する勢」に白丸傍点]、 眼《まなこ》くらます[#「くらます」に白丸傍点]吹雪《ふゞき》の爲めに[#「の爲めに」に白丸傍点] 農夫を[#「農夫を」に白丸傍点]己《おの》が[#「が」に白丸傍点]門邊《かどべ》に倒ほし[#「に倒ほし」に白丸傍点]、 再び[#「再び」に白丸傍点]閾《しきみ》ふみこゑて[#「ふみこゑて」に白丸傍点]、我家《わがや》に入るを得しめざる[#「に入るを得しめざる」に白丸傍点]、 目も開かれず降る雪も[#「目も開かれず降る雪も」に白丸傍点]、其迅速なるには遙かに及ばず―[#「其迅速なるには遙かに及ばず―」に白丸傍点] 疲れず[#「疲れず」に白丸傍点]、馴れず[#「馴れず」に白丸傍点]、暴《あ》らきよりも尚ほ惡しく[#「らきよりも尚ほ惡しく」に白丸傍点]、 其狂暴の有樣や[#「其狂暴の有樣や」に白丸傍点]、思ふ所を妨げられし小兒の如く[#「思ふ所を妨げられし小兒の如く」に白丸傍点]、 尚ほ一層に猛烈なるや[#「尚ほ一層に猛烈なるや」に白丸傍点]―氣隨《きずゐ》氣儘《きまゝ》に振《ふる》まへる、 婦女子の怒れる如きなり[#「婦女子の怒れる如きなり」に白丸傍点]。 [#改ページ]   十三 『森も之れを通り拔け、日も已に正午を過ぎ、 時、六月の空にしあれど、風は甚だ惡寒《わるざむ》し。 こはこれ或は我が脈の、冷《つめ》たく流るゝ故にやあらんか― いと長びきし耐忍は、猛けき氣象も鈍らせて、 其時我は、今見る如きに非りき。 さはさりながら、寒き流れの其如く、いと急遽《いそが》はしく、 我が諸々《もろ/\》の感覺は、其原因を考へ得たらん其《そ》の前《まへ》に 全く疲れ弱りはて、 狂暴《くるひ》と、恐懼《おそれ》と、又た激怒《いかり》と、 我れの前途に當れる所の 寒氣《さむさ》と、饑餓《うゑ》と、悲哀《かなしみ》と、耻辱《はぢ》と、苦痛の苛責と共に、 此くは自然|其儘《まゝ》の、赤裸の身にて縛《しば》られぬ。 我れやかの[#「我れやかの」に白丸傍点]、昂揚なせる其血潮は[#「昂揚なせる其血潮は」に白丸傍点] 若し其靜かなるを激せしめて[#「若し其靜かなるを激せしめて」に白丸傍点] 強くこれを踏み付くれば[#「強くこれを踏み付くれば」に白丸傍点]、 其復讐や[#「其復讐や」に白丸傍点]、毒蛇のそれの如きなり[#「毒蛇のそれの如きなり」に白丸傍点]、一族より出でし者[#「一族より出でし者」に白丸傍点]― 今若し疲れ果てたる此我身が 苦難の下に一時沈むも、何の異《あや》しむことかある。 地は陷落し[#「地は陷落し」に白丸傍点]、天は回轉し[#「天は回轉し」に白丸傍点]、 我は地中に[#「我は地中に」に白丸傍点]、沈沒するかと感じたり[#「沈沒するかと感じたり」に白丸傍点]。 されどこはこれ誤《あやまり》なりき―我は固く、縛《しば》られてある者なれば。 胸は痛み、腦は病み、 暫時《しばらく》動悸せしかども、やがて直にそもやみて、 天は宛も強大なる[#「天は宛も強大なる」に白丸傍点]、車輪の旋轉する如く[#「車輪の旋轉する如く」に白丸傍点]、 木々は宛も醉漢の[#「木々は宛も醉漢の」に白丸傍点]、よろめくものゝ如くに見え[#「よろめくものゝ如くに見え」に白丸傍点]、 微《かす》かの火花は、我目の上に見えしかど、やがて是れも見えずなりぬ。 たとひ如何なる人なりとも 我《わが》此時に死なんよりも、苦《くる》しき死《しに》はよもあらじ。 其ものすごき馬の背に、其苦しみの堪え難たみ、 黒きものは、我目の前に行きかひつ、 自ら目さまし起さんと、必死に力《つと》めし如きを感じぬ。 然りと雖、我感覺を勵まして、下より上に、登らしむるを爲し得ざり。 我身はげにも、海に浮べる板子《いたご》に乗《の》れる如《ごと》くにて、 大浪《おほなみ》激《はげ》しく打寄せて、 其《そ》をもち上げて覆へし、 我身忽ち、大海原《おほうなばら》に、投げ出だされん思ひかな。 今此く、動搖なせる我|生命《いのち》は 腦に發熱しそむる時、 假幻《けげん》の光の 深更|閉《とざ》しゝ我の眼《め》に、閃《ひらめ》くさまに比《たと》ふべし。 されど僅かの苦痛にて、熱も直に去り行けど、 これにまさりて最も惡しきは、思想の亂を起こすにあり。 我は實に自白せん―再び是れを感ぜんよりも、 寧ろ死ぬるを優《まさ》れりと。 されど想ふに我れ死して、塵《ちり》に歸するに至るまでは 尚ほ一層に、感せざるを得ざるべしと。 然りと雖何かあらん―我は以前も又今も 已に十分我|額《ひたひ》を、死の面前に曝《さ》らしたり。 [#改ページ]   十四 『我は氣付きぬ。我は何處に在りしにや。 冷えて、しびれて、目まひして、 脈《みやく》、ひと脈其度に、ためらう生命《いのち》を取り留《とゞ》め、 動悸に動悸―遂に積りて激痛し、 まさに痙攣せんばかり。 我が血は再び、廻り始めしとはいへど、濃き冷《ひ》やゝかのものなりき。 耳には不思議の音鳴り聽こえ、 我れの心臟、爲めに再び震ひ始めぬ。 目は見ゆるに至りしも、尚ほ甚だ微かにして、 厚く硝子を、重ねし如き思あり、 其時我は感ずらく、近くに波は打押せて[#「近くに波は打押せて」に白丸傍点]。 星燦爛と[#「星燦爛と」に白丸傍点]、きらめく空も亦ありと[#「きらめく空も亦ありと」に白丸傍点]― こはこれ夢にあらずして[#「こはこれ夢にあらずして」に白丸傍点]、 此荒馬は[#「此荒馬は」に白丸傍点]、其荒らきよりも尚ほ荒らき[#「其荒らきよりも尚ほ荒らき」に白丸傍点]、流《ながれ》を泳《およ》ぎ渡れるなり[#「ぎ渡れるなり」に白丸傍点]。 かゞやく大河の[#「かゞやく大河の」に白丸傍点]、迸《ほとばし》れる潮流は[#「る潮流は」に白丸傍点]、 遠く廣く[#「遠く廣く」に白丸傍点]、滔々と[#「滔々と」に白丸傍点]渦《うづ》まき流れ[#「まき流れ」に白丸傍点]、 我等は今やまだ知らぬ[#「我等は今やまだ知らぬ」に白丸傍点]、彼方《かなた》の聲なき岸邊に向つて[#「の聲なき岸邊に向つて」に白丸傍点]、 進みあせれる中途にあり[#「進みあせれる中途にあり」に白丸傍点]。 波の音は我の空しき夢幻を破りて、 氣を失へる我の五體は、 一時の力に洗禮されたり。 我此馬の廣き胸は[#「我此馬の廣き胸は」に白丸傍点] 逆か卷く高き波をも恐れず[#「逆か卷く高き波をも恐れず」に白丸傍点]、 其を衝き破りて我等は進み[#「其を衝き破りて我等は進み」に白丸傍点]、 遂に辛くも、平かなる岸邊に着きぬ。 然りと雖これやこれ、我に益なき避難の場所― そは凡て、過ぎ[#「過ぎ」に白丸傍点]來《こ》し[#「し」に白丸傍点]方《かた》は暗くして[#「は暗くして」に白丸傍点]、又た其上にものすごく[#「又た其上にものすごく」に白丸傍点]。 行手《ゆくて》は同じく又た凡て[#「は同じく又た凡て」に白丸傍点]、夜《よる》と恐《おそれ》とのみなればぞ[#「とのみなればぞ」に白丸傍点]。 或は夜《よる》の、又た晝《ひる》の、其時間のいくそばく、 終知《をはりし》れざる、かゝる苦痛にあるべきかは、 我れはこれを告ぐるを得ず、 たゞ我《わ》が知れるは、我がなす呼吸は、これをしも、 人間《ひと》の呼吸と云ふべきやを。 [#改ページ]   十五 『毛皮《けがは》には光澤《つや》を帶び、鬣《たてがみ》には水|滴《したゝ》り、 足はよろめき、脇腹には湯氣立のぼり、 此荒馬の[#「此荒馬の」に白丸傍点]、強き氣象の筋力は[#「強き氣象の筋力は」に白丸傍点]、 追ひも反へさんばかりなる[#「追ひも反へさんばかりなる」に白丸傍点]、嶮《け》はしき堤を[#「はしき堤を」に白丸傍点]、尚ほ[#「尚ほ」に白丸傍点]攀《よ》ぢ登れり[#「ぢ登れり」に白丸傍点]。 我等頂上に達して見れば、 はてしも有らぬ平原は、夜《よる》の蔭なる暗さと共に延《ひろ》まりつ、 尚ほ/\進み行く程に 夢に見るなる斷崖の 我限界を打超えて、遠く廣きが如くにて、 月、我が右方《めで》に登りなば かしこにこゝに白き斑《まだら》 又た飛び散れる、薄暗き緑の點は、 數集まりて、月の光に交はれり。 されども闇《くら》き此荒野に 小屋の戸口の徴《しるし》とて 人家あるをば示めさんは、一物だにも有ることなく、 我を迎ふる星の如くに、 遙にきらめく、小き燈《ともし》の火も見え[#変体仮名「江」]ず、 我の不幸を慰さまん 鬼火だにも出づるなし― 其|欺惑《まどわし》も其時は、我の心をよろこばせ、 其《そ》を欺惑《まどわし》と知れりとも、我れ尚ほ之れを歡迎せん。 多くの不幸の事の内 人の住家《すまゐ》を、我れに思ひ出《で》しむればなり。 [#改ページ]   十六 『吾等《われら》は尚ほも前進せり―されども緩《ゆる》く徐《おもむろ》に。 今や野蠻の精力は[#「今や野蠻の精力は」に白丸傍点][#「の」は底本では欠落]、全く使ひ盡くされて[#「全く使ひ盡くされて」に白丸傍点]、 頸垂《うなた》れ弱る我馬は[#「れ弱る我馬は」に白丸傍点]、其氣は[#「其氣は」に白丸傍点]微《かすか》に力なく[#「に力なく」に白丸傍点]、 喘息《あへ》ぎよろめき歩みけり[#「ぎよろめき歩みけり」に白丸傍点]。 いかにか弱き[#「いかにか弱き」に白丸傍点]幼兒《おさなご》たりとも[#「たりとも」に白丸傍点] 今此時の此馬は[#「今此時の此馬は」に白丸傍点]、これを[#「これを」に白丸傍点]牽《ひ》き行き得べきなり[#「き行き得べきなり」に白丸傍点]。 されども凡て我に用なく[#「されども凡て我に用なく」に白丸傍点]― 此くは新に馴れしとも、何等の益もあることなし― 我の手足は、縛《いま》められてあるなれば。 又た假令、其いましめは解かるとも 我の力は、今はた何をか爲し得べき。 さはさりながら我は尚ほ、いと微かなる力もて、 強く縛《しば》れる革紐を、引きちぎらんと試みぬ。 然りと雖其甲斐なく、 我の手足は[#「我の手足は」に白丸傍点]、尚ほ々々痛みを増すのみに[#「尚ほ々々痛みを増すのみに」に白丸傍点]、 益《やく》なきもがきは、直に之れを斷念せり。 されどこはこれ、たゞ其痛みを、永引かしむるのみにこそ。 眩暈《めま》ふばがりの其|驅《かけり》は、今や殆ど終りし如きも、 終始點には達しも爲さず。 時には棚引《たなび》く條《すぢ》なす色は、今や將に日の登らんとするを示めせり― あゝ其登るや遲きかな。 我は思ひぬ、灰色なせる此朝霧は、 晝《ひる》の光を、點ずることはあらざるべしと。 しのゝめ明《あ》くるかの「火焔[#「火+陷のつくり」、第3水準1-87-49、焰]《ほのほ》」が、眞紅《しんく》の色に高まりて、 凡の星の位を廢黜《しりぞ》け 彼等の乗れる車より、其|光輝《かゞやき》を召《め》し出《いだ》し、 奧いと深き玉座より、たゞひとりの、全く己《おの》がものなる榮光もて 此地球を充たすの前、 あゝ朝霧、其の捲《ま》き去るの遲《おそ》かりしかな。 [#改ページ]   十七 『朝日は登りぬ。 たてこめたりし霧はしも、寂《さみし》き四周の世界より、 後《うし》ろも前も捲き去れり。 何ものか此の、平野を、森を、又河を、 其を横ぎると、踏みさぐみたる者やある。 人も獸《けもの》も―蹄《ひづめ》の痕《あと》も足跡も 荒れ茂りたる此土地に、たゞの一つも有ることなく、 旅人行きししるしなく、人働きしあともなく、 四邊《あたり》の空氣凡て寂寥。 小き虫の一つだに、小き笛の音《ね》鳴らしもなさず、 朝《あした》囀《さへづ》る鳥の聲、 叢《くさむら》よりも森よりも、聽ゆるものは有らざりき。 不幸の事は數あまた、胸は宛も、破れんばかり動悸せど、 疲れはてたる我馬は、よろめきながら尚ほ歩み、 我等は尚ほも獨りさみしく、又たは然るが如く思ひにき。 此くて、よろめきながら行き居りしに、 遂に彼方《かなた》の、樅《もみ》の木|小暗《をぐら》き樹立《こだち》より 馬の嘶《いななき》、聽こゑし如く思ひたり。 其等の樹の枝動くは如何に、そは風なるか。 否々、森の中より[#「森の中より」に白丸傍点]、馬の一隊[#「馬の一隊」に白丸傍点]、踏みしたぎつゝ躍り出で[#「踏みしたぎつゝ躍り出で」に白丸傍点]。 此方《こなた》に來るを我れ見たり。 彼等は大に、隊を爲しつゝ進むなり。 我れ叫[#「口+斗」、呌]ばんとあせりしも、我|唇《くちびる》は聲を出ださず。 其等の馬は[#「其等の馬は」に白丸傍点]、滿々たる豪氣を以つて[#「滿々たる豪氣を以つて」に白丸傍点]、突進奔放なしたりぬ[#「突進奔放なしたりぬ」に白丸傍点]。 然りと雖、彼等を導く、手綱なるもの何處にかある。 無數の群馬、あゝ何者の乗れるあるなく、 尾は振り動き[#「尾は振り動き」に白丸傍点]、鬣ゆらめき[#「鬣ゆらめき」に白丸傍点]、 廣き鼻は[#「廣き鼻は」に白丸傍点]、苦痛を以つ開きしことなく[#「苦痛を以つ開きしことなく」に白丸傍点]、 手綱《たづな》、轡《くつわ》に、口[#「口」に白丸傍点]、血を流さず[#「血を流さず」に白丸傍点]、 未だ嘗て[#「未だ嘗て」に白丸傍点]、足[#「足」に白丸傍点]、蹄鐵を受けしことなく[#「蹄鐵を受けしことなく」に白丸傍点]、 其脇腹は[#「其脇腹は」に白丸傍点]、拍車に[#「拍車に」に白丸傍点]、鞭《むち》に[#「に」に白丸傍点]、創《きず》つけられしことあらず[#「つけられしことあらず」に白丸傍点]。 無數の馬は[#「無數の馬は」に白丸傍点]、自然のまゝに自由にて[#「自然のまゝに自由にて」に白丸傍点]、 海上續づく波に似て、 我等の弱き近づきを、迎ふるものゝ其如く、 雷《らい》なすひゞき踏みとゞろかし、群れ團《かたま》りて近寄りぬ。 此光景に[#「此光景に」に白丸傍点]、我馬再び興奮し[#「我馬再び興奮し」に白丸傍点]、 よろめきながら[#「よろめきながら」に白丸傍点]、僅かに馳せしも[#「僅かに馳せしも」に白丸傍点]瞬《またゝ》く間《ま》、 弱きかすかの嘶を[#「弱きかすかの嘶を」に白丸傍点] 答となして斃れたり[#「答となして斃れたり」に白丸傍点]。 息《いき》せき[#「せき」に白丸傍点]喘《あへ》ぎ[#「ぎ」に白丸傍点]、目はうるみ[#「目はうるみ」に白丸傍点]、 汗の氣のぼる其[#「汗の氣のぼる其」に白丸傍点]|躰躯[#「身+區」、第3水準1-92-42、軀]《むくろ》は、終に動かず横たはり[#「終に動かず横たはり」に白丸傍点]、 我乗る駿馬の[#「我乗る駿馬の」に白丸傍点]、始たり又は終りたる[#「始たり又は終りたる」に白丸傍点]大驅《おほがけ》は[#「は」に白丸傍点]、此くて完く遂げられぬ[#「此くて完く遂げられぬ」に白丸傍点]。 群がる馬は近づき來り―斃れし馬を打眺め、 又た其《そ》が背《せな》に、革《かわ》の紐《ひも》の多くもて、 縛《しば》られてある我を見て、不思議の思ある如し。 彼等は、立ち止まりつ、又た去りつ、我等をめぐりめぐりしか、 彼等の種族《やから》の宗領なるらん する墨黒く、粗《あ》らき毛に 白き一點一毛だになき いと逞しき、一つの馬の先立《せんだち》に 彼等は不意に跳ね躍り、かなたに驅けりとび行きつ、 鼻息荒く、泡をかみつ嘶《いなゝ》きつ、右に左に寄せつ返しつ、 其を人間の眼より見ば、皆天性に由れる如く、 森の茂みに馳せ歸へり、 我は依然、死して硬《こわ》ばる獸《けもの》に縛《しば》られ、 一人《いちにん》あとに殘されて、只失望の外ぞなき。 此くて我身の下には、生命絶えにし躰躯[#「身+區」、第3水準1-92-42、軀]《むくろ》は斃れ、 慣れぬ重《おも》みは救はれしも、 我は其處より、彼れも我をも解き去り能はず、 死したるものゝ其上に[#「死したるものゝ其上に」に白丸傍点]、今やまさに死なんとして[#「今やまさに死なんとして」に白丸傍点]、 我等はこゝに横はり[#「我等はこゝに横はり」に白丸傍点]、 我れの家なき助なき、頭を次に明くる日の、 又た見るべしとは、聊か思ひなさゞりき。 『朝より夕に至るまで、我はこゝに縛《しば》られて、 重き苦しき、時間を過ごし、 我の最後の日の光[#「我の最後の日の光」に白丸傍点]、我を照らして西に沈むを[#「我を照らして西に沈むを」に白丸傍点] 僅に見得る[#「僅に見得る」に白丸傍点]、生命《いのち》保てるのみにして[#「保てるのみにして」に白丸傍点]、 我れの心は、絶望の確《たし》かさもて、 前見し得る我等の年齡《とし》が、預め示めす所の 最も惡しき[#「最も惡しき」に白丸傍点]、多くの恐れの最後のものに[#「多くの恐れの最後のものに」に白丸傍点] 遂に我等は、委《まか》せ了りし思ひせり― こは實に免れ難き― 其|疾《と》く來るや、却つて不親切に非ざる所の、おくり物にてあるものを、 こはこれ一種の係蹄《わな》にして 智慮もて免れ得るかの如く、 尚ほ其を厭ひ其を恐れぬ。 時には是れを願ふと共に、切にこれを求むるあり、 時には劍《つるぎ》のきつ尖《さき》もて、自ら求むることもあり。 さはさりながら、假令いかに堪え難き、苦痛の生命《いのち》なりとはいへ、 尚ほこれ暗き、ものすごき終にて、 如何なる形を以つて來るも、歡び迎ふるものに非ず。 言ふも不思議、かの快樂《けらく》の子 美と祝杯と、酒と貨《たから》に 興樂《うたげ》盡くしゝ其者等は かの、貧困を、相繼したる者よりも 往々《おう/\》靜かに、死するものなり。 こはこれ凡て美なるもの、新奇のものを 順次に浪費し盡くしゝ者は、 望まん物も更になく、殘せる物も更になく たゞ未來のみ(これとても 人を、卑しき、或は善きと觀ることなく、 彼等の氣力は、授かり得べきことゝ觀て) 悲しきことも、或はあることなかるべし。 然りと雖憫れむべきかな、彼れ尚ほ、其禍の終らんことを希望して、 其友として見るべき「死」は、 惱み亂るゝ彼れの目には、 己《おのれ》が得べき報酬の、新樂園の樹の實をば 奪はんとして、來るが如く觀ゆるなり。 然りと雖|明日《あくるひ》は、凡《すべて》を彼に與ふべく、 彼の苦痛を返濟し、彼れの不幸を償はん。 明日《あくるひ》は、歎くことなく呪《のろ》ふことなく、 光りかゞやき且つ長く、手招き寄する年月の 其初めの日なるべく、 苦《くる》しかりにし、長き時間の報酬《むくひ》として、 明日《あくるひ》こそは、支配し、かゞやき、撃ち、救はんの力を彼に與ふべく― 其が墓の上に、東雲《しのゝめ》あくべきことなるか [#改ページ]   十八 『日は將に沒せんとせど、 我れ尚ほ寒き、硬固《かたくな》なる馬に縛《しば》られ、 我等の土《つち》は、こゝに交ゆることゝ考へ、 くらきおぼろの我の目は、死をば今や需むるなり。 解き放されて、自由を得べき望は起らず、 目を上げて、最後の眺めを、空に向けしに、 日と我との間には 待ち設けたる[#「待ち設けたる」に白丸傍点]烏《からす》は飛び[#「は飛び」に白丸傍点]、 我等の死するを待ち兼ねて[#「我等の死するを待ち兼ねて」に白丸傍点]、 其食事を始めんとせり[#「其食事を始めんとせり」に白丸傍点]、 彼れ飛び去りつ又た棲《と》まりつ、又た再び飛び去りつ、 其時毎に前よりも、愈々我に近づきぬ。 我れ、曉《あかつき》の光の中《うち》、其羽ばたく翼を見、 一度のごときは、打ち得るまでに近づきしも、 あゝ我れ力あらざりき。 されど僅かに我手を動かし、 いとも弱く砂を掻き、 咽喉《のんど》勵まし、微かにして、僅かに聲と稱へ得る、 苦しき音を立てしかば、 漸く是等を以つてして、烏は威《お》どしさりしかど、 其れより後は何をも知らず― 我の最後に見し夢は、 いと美はしき星は、鈍りし我の目にかゞやき、 其光はさまよひて、かなたこなたに、ゆきゝしゝつ、 寒き、鈍き、漂へる さりては來る感覺あり、 次には再び死に沈み、 次には再びかすかに呼吸し、 暫く震ひ、暫くやみ、 氷の如き病ましさは、我れの胸に蔽ひ凝まり、 火花の星は、我腦中を横切りつ― 息《いき》は逼り、胸は動悸し、苦痛にもがき、 といきつき、其外は何も知らざりき。 [#改ページ]   十九 『我は目さめぬ―我は何處に在りにけん。 我の上に見下すは、こは人間の顏なるか。 我の上を蔽へるは、こは屋根にてあるなるか。 我の此身を休めるは、こは寢臺の上なるか。 我の臥《ふ》せるは、こは室《へや》にてあるなるか。 かしこに[#「かしこに」に白丸傍点]柔《やさ》しき眺めもて[#「しき眺めもて」に白丸傍点]、我《わ》を見まもれる[#「を見まもれる」に白丸傍点] すゞしき其目は[#「すゞしき其目は」に白丸傍点]、こは人間にてあるなるか。 我は再び目を鎖《と》ぢたり、 そは前《さ》きの、我が見し夢か幻《まぼろし》かは 未だ終らぬ思ひして、尚ほ疑のあればなり。 か弱き[#「か弱き」に白丸傍点]乙女《をとめ》、髮長く[#「髮長く」に白丸傍点]、丈《たけ》高きが[#「高きが」に白丸傍点]、 小屋の壁にもたれつゝ[#「小屋の壁にもたれつゝ」に白丸傍点]、我《わ》を見まもれり[#「を見まもれり」に白丸傍点]。 乙女の[#「乙女の」に白丸傍点]眼《まなこ》のかゞやきを[#「のかゞやきを」に白丸傍点]、我れはみとめつ[#「我れはみとめつ」に白丸傍点]、 これと共に[#「これと共に」に白丸傍点]、我は始めて氣付きたり[#「我は始めて氣付きたり」に白丸傍点]。 自然のまゝに飾なき、黒目《くろめ》勝《がち》なる目《ま》なざしもて、 乙女は時々、つく/″\と、憐れむさまに我を見ぬ。 我も見つめぬ。 こは幻《まぼろし》に非ずして、 我は生きて 鷲の餌《え》じきとなることを、免れたるを知るまでは、 我も同じく見つめたり。 我の重き目、遂に漸く開きしを、 見て、コザックの乙女は微笑《ほゝゑ》み、 我れ語らんと力めしも、未だ言葉は出でざりき。 乙女は我に近寄りて、 其唇と指とをもて、符諜となして我を制し、 我の力の回復して、 思ふがまゝに、語り得ん時までは、 強て無言を、破る勿れと誨へつゝ、 其手を我手の上に置き[#「其手を我手の上に置き」に白丸傍点]、 枕を直ほし[#「枕を直ほし」に白丸傍点]平《たひら》にし[#「にし」に白丸傍点]、 爪先《つまさき》もて忍び足して[#「もて忍び足して」に白丸傍点]、 靜かに戸をあけ[#「靜かに戸をあけ」に白丸傍点]、いと[#「いと」に白丸傍点]小聲《こごゑ》にてさゝやきぬ[#「にてさゝやきぬ」に白丸傍点]― 此く美しき[#「此く美しき」に白丸傍点]聲音《こわね》をば[#「をば」に白丸傍点]、未だ嘗て聽きしことなく[#「未だ嘗て聽きしことなく」に白丸傍点] 其いと輕き歩みには[#「其いと輕き歩みには」に白丸傍点]、音樂附き添ふ思ひせり[#「音樂附き添ふ思ひせり」に白丸傍点]。 然りと雖乙女の呼びし、其等の者は目さめずて、 乙女は彼方に出で行きぬ。 其出で行く時にしも、再び我をかへり見て[#「再び我をかへり見て」に白丸傍点]、 又た手眞似の符諜《しるし》もて 我れ何物も、恐るゝことの用あらず、 凡の人は近くにあり、一度命じ、呼びもせば、 彼女、直にこゝに歸り來る、事の由をば知らせたり。 此くて乙女は行きければ、 我はあまりに一人《ひとり》にて、物さみしさを感じたり。 [#改ページ]   二十 乙女は來れり、母と父とを伴ひて― その以上、語るの用はあらざるべし― 長く其餘を語りつゞけて、人|倦《う》ましむるは本意《ほい》ならず、 其時この方[#「其時この方」に白丸傍点]、我れはコザックの客となれり[#「我れはコザックの客となれり」に白丸傍点]。 彼等は荒野に、氣を失へる我を見出だし、 あたりの小屋に我を連れ込み、 再び我を生命にかへしぬ― 其我や[#「其我や」に白丸傍点]―他日彼等の國土をば[#「他日彼等の國土をば」に白丸傍点]、支配する爲めたりしなり[#「支配する爲めたりしなり」に白丸傍点]。 [#(十五)]此くて愚《おろか》のしれものども、たゞ其怒を飽[#「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73、饜]かさんと、 我が苦痛にて精錬し、 我を縛り、裸《はだか》にし、血を流し、又た唯|一人《ひとり》、我を荒野に逐ひやりて、 荒野を變じて[#「荒野を變じて」に白丸傍点]、王座と爲さしめたりしなり[#「王座と爲さしめたりしなり」に白丸傍点]― 人誰か[#「人誰か」に白丸傍点]、己《おのれ》に定まる運命を[#「に定まる運命を」に白丸傍点]、想像爲し得る者やある[#「想像爲し得る者やある」に白丸傍点]。 さらば人々[#「さらば人々」に白丸傍点]、決して落膽することなく[#「決して落膽することなく」に白丸傍点]、決して失望すること勿れ[#「決して失望すること勿れ」に白丸傍点]。 明日《あくるひ》、土耳其《トルコ》の[#(十六)]堤の上にて、 我等の馬は心安く、秣《まぐさ》食み得る其さまを、 ポリステネースの河や見ん。 我等安けく、其處に到着する時は、 未だ嘗て、此くまで厚《あつ》き歡《よろこび》を、河なるものに、述ぶることはあらざらん。 さらば、人々|寢《いね》よかし。』 〔語り終りて〕酋長は、其身を伸ばして、樫の樹蔭《こかげ》に横へぬ。 木《こ》の葉《は》の床《とこ》は、前《さき》に已《すで》に作りあり、 かゝる寢床も彼に取つては、敢て不愉快なるにもあらず、又た新奇なるにもあらずして、 何處なりとも其は問はず[#「何處なりとも其は問はず」に白丸傍点] 時來りなば何時にても[#「時來りなば何時にても」に白丸傍点]、彼は其場に[#「彼は其場に」に白丸傍点]打臥《うちふ》して、 其眼は直に[#「其眼は直に」に白丸傍点]、嶮はしき眠を急ぐなり[#「嶮はしき眠を急ぐなり」に白丸傍点]。 若し人、カロルス王が、彼の爲したる物語を、 謝することを忘れしを、異しむことあらんとも、 彼れは敢て異しまず―そは一と時其前に[#「一と時其前に」に白丸傍点]、王は已に[#「王は已に」に白丸傍点]、 眠り居りし[#「眠り居りし」に白丸傍点]を以つてなり。  【をはり】 [#改ページ]   註釋 (一)ポルタワ戰爭―瑞典王カロルス十二世魯西亞を征して全敗を取りし戰爭にて、此戰爭にて、瑞典全く勢力を失ひ、魯西亞は愈々勃興せるなり、時は紀元一千七百九年。 (二)「ツァール」―魯西亞帝ピョートル[#「ピョートル」は底本では「ペョートル」]大帝なり。 (三)他年一層今にもまさり―ナポレオンが魯西亞を征せし時のこと (四)ギエタ―カロルス王部下の大佐なり。 (五)ブケファロス―古昔グレシアの大王アレキサンドロスの愛馬にして、此馬に乗り得るは、たゞアレキサンドロス一人ありしのみ。戰地に常に伴ひ、ペルシアと印度の境、ヒダスペス河邊にて死し、こゝに葬る。『汝がブケファロス……』とは、マゼッパと其馬との關係に就いて云ふなり。マゼッパは大馬術家なればなり。 (六)スキチア人―此國は歐州東北、亞細亞西北一帶の古代の地なり。國人皆乗馬に有名なり。 (七)ポリステネース―ドニエペル河(ニーペル河)の舊名。土耳其にてはウジ河と云ふ。 (八)チルジス―詩人テオクリツス及びヰルギリウスの詩中の牧羊者の名なり。田舍者の名を示めすなり。 (九)「パラチン」―宮廷内の高位の官吏なり。 (十)鹽礦銀山―此處に此くの如き句を出し來るは、波蘭の此地方は是等のものゝ産地にして、其所有者は富者を示めす。 (十一)其眼は實に亞細亞的―バイロン殊に亞細亞婦人の黒眼勝を好む。 (十二)かゝる優しき情の事―カロルス王は一生婦女子を近づけず、情を解せざりし人なり。 (十三)鉛の熱湯云々―古代城攻めの法の一種にして、屋根の上より鉛の熱湯を注ぐなり。 (十四)スパーヒ騎兵―十四世紀土耳其にて組織されし騎兵隊にして其戰鬪の方法や全く秩序なきものなり。「エニチエリー」軍と共に土耳其の軍隊の花なりき。 (十五)此くて愚のしれものども―前の「パラチン」の伯爵等を謂ふ。 (十六)土耳其の堤の上―之れポリステネース河の堤にして、常時此河露西亞と土耳其との境界なりき。 底本:眞善美協會 二松堂書房「汗血千里マゼッパ」1907 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=41003501&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0 George Gordon, Lord Byron(1788年〜1824年) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3 木村鷹太郎(1870年〜1931年) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%B7%B9%E5%A4%AA%E9%83%8E Ver.20120317