宇宙人生の神秘劇 天魔の怨(傍点なし) Cain: a mistery バイロン ジョージ・ゴードン George Gordon, Lord Byron 木村鷹太郎訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)續篇|樣《やう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)續篇|樣《やう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)[#改ページ] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)もろ/\ -------------------------------------------------------   目次 序論―『カイン』に就て 捧呈辭 緒言 第一段 第一塲―樂園の外 第二段 第一塲―無間虚空     第二塲―陰府 第三段 第一塲―地球上第一段と同じくエデンの近傍 附録―人道と耶蘇教との衝突 [#改ページ]   序論  『カイン』に就いて  木村鷹太郎   一 『カイン』の出版と其當時の世評  バイロンの原作『カイン』Cain : a mistery 余は『天魔の怨』と題して、こゝに之れを譯す、これ、此詩の主人公はカインなりと雖、天魔ルシファーの哲理、カインを導けるものなるを以つてなり。  此詩はバイロン、イタリアのラヴェ[#「ヴェ」は底本では「ヱ゛」]ンナに在る時の作にして、一千八百二十一年七月十六日に起稿し、九月九日完結す―實に英國に於ける最も宏大深玄なるものなり。  此詩は友人サー・ヲルター・スコットに捧呈したるものにして、スコット感謝の意を表し、又此詩を稱して『眞に宏荘偉大なる劇』(Grand and tremendous drama)と謂ひ、バイロンの諸作中、此くまで高尚なるものなきを謂ひ、堂々ミルトンに匹敵せるものとなし、又た其聖書に對する大膽なる批評的態度と言語とに就いて、人若し之れを涜神罪なりとせば、ミルトンの「失樂園」も亦然るべしとなせり。  シェレーは此詩に就いてバイロンを謂て『ミルトン後の無雙の大詩人』となせり。トーマス・ムーアも亦書をバイロンに與へて曰く『「カイン」は實に驚くべきなり、其恐ろしさ決して忘る可からず。若し余の見にして誤らずば、一方には不敬神として排斥さるべしと雖、能く世界の人心に徹底して永久に存すべし。而して萬人其壯大雄偉なるに感じて「カイン」の前に平伏すべし』と。獨逸のゲーテは、此詩を以つて『空前の大作』と謂ひ『英國文學中、亦他に是れに比すべき高尚なるものある無し』と爲し、友人エッケルマンに英語を學ばんことを勸めたり、其目的たる、たゞ此『カイン』の大作を、原語(英語)を以つて讀み得しめんが爲めなり。  然りと雖、其舊約書及び耶蘇教を攻撃し、惡魔哲學を唱道せるより、宗教社會の惡む所となり、單にバイロン自身のみに止まらず、延て出版書肆マーレーまでも大攻撃を受け、單行本の攻撃書現はるゝに至れり。バイロン、出版書肆マーレーに書を與へて曰く『余の攻撃を受くるは素より期せし所、然るに、累を足下に及ばすとは夢にも思はさりき。若し「カイン」が涜神のものならんには、「失樂園」の詩亦然るべし』と。又た「カイン」を僞版したる者あり、政府敢て其僞版者を罪せず、公々然と之れを放任せり。或人之れを大法官に訴ふるや、大法官答へて曰く『英國は聖書の教理を以つて一種の法律なりと認む、今ま此聖書を攻撃し、其信仰を弛むる所の性質の詩は、是國法有害のものなるを以つて、之れを保護するの義務なし、ミルトンの「失樂園[#「失樂園」は底本では「失樂樂」]」中には間々いかゞはしきものありと雖、全体聖書の教理を勸むるものなるを以つて、「カイン」と同日の論に非るなり』と。大法官の不法の言此くの如し。バイロン怒りて曰く『實に奇なり、政府はプリエストレー、ヒューム、ボリングブローク及びボルテイル等の出版を許可して、書肆の權利を害することなしと雖、獨り「カイン」の權利は之れを保護せざるなり』と。  同年十月『天地』篇の詩成る。これ「カイン」の續篇|樣《やう》のものにして、亦耶蘇教を攻撃し、宗教家等の不人情を鳴らすものなり。バイロン益々宗教家の惡む所となる。然りと雖、其詩の勢力は愈々大なり。   二 諸文學中の惡魔とバイロンのルシファー  其剛毅不屈、自尊の念に富み、義侠の情あり、―後年身を希臘の獨立軍に投じ、其指令官となりて土耳其の壓抑を破らんとしたるバイロンに、かの專横放肆にして眞僞を混合し、善惡を轉倒せる神たるエホバに反抗せるルシファーなる大天魔を詠じ、其弟子たるカインを主人公と爲せる所の、『神秘劇カイン』の作あるは素より當然にして、又た作者の性質と、其題との、最も善く契合せるものと謂ふべし。  グレシアの神話に、プロメーテウスなる神あり、大神ゼウスの意志に違ゐて、竊かに火を盜みて之れを人間に與へたる義侠の神なり。故に神の敵たりしと雖、人間の恩人なり。ゼウス怒りて、捕へて鐵鎖を以つて之をカウカソス山の岩角に繋縛す。嚴寒堅氷其身を刺し、鷲は來りて肉を咋ふ。苦痛名状すべからず、然るにプロメーテウス能く之れを堪えたり。グレシア古代の詩人アイスヒュロス之れを詩にし、英國後代の詩人シェレー亦之れを詩にす。何れも力と美とに充てる大作となす。バイロン亦同じく、反抗と義侠との感情を以つて天魔ルシファーを描き、其弟子カインを主人公として Cain : a mistery の詩を作る。ルシファーは耶蘇教經典中の惡魔サタンの別名にして、カインは同經典中の懷疑的人物なり。  ミルトン、前に失樂園の詩を作り、惡魔サタンの性格を叙し、其の剛毅不屈の意志ある状を表はせりと雖、ミルトンはサタンに同情を表する者に非ずして、最も惡しざまに之れを描き、大奈落の底に、硫黄の火中に、醜惡なる蛇状の怪物として之れを形容して、毫も高尚なる心意、深遠なる哲理、懷かしき美を、其人格中に認むることなく、全く幼稚なる想像の惡魔の形樣に過ぎざるなり。然りと雖も世界の進歩と共に、惡魔も進化せざる可からず。其進化主義を以て現はれしはゲーテの『フアウスト』中のメフィストフェレスなり。是惡魔や、已に宇宙的のものに非ずして、大哲理を有せる所の、人生界の惡魔たるなり。  實にバイロンの惡魔たるや宇宙的の大勢力たることペルシア教に説く所の惡魔と同じく、又た其哲理、人生の達觀等に至つては、ゲーテのメフィストフェレスの如く、其義侠に至つては、アイスヒュロス及びシェレーのプロメーテウスの如く、其意志の強固たり、其自己を持するの尊大なるや、決してミルトンのサタンに劣ることなく、之れに加ふるに無上の美の威嚴を其身に具ふるに至つては、實にバイロン以外に見る可からざる所にして、バイロンのルシファーの大魔力は、實に至高の點に達せるものにして、智に於て力に於て、美に於て、ルシファーは、諸詩人、諸宗教中の大惡魔中の、其最大至上のものと謂ふべし。   三 ルシファーの歴史  舊約書中イザヤ書十四章十二節(以下)に曰く『あしたの子明星(ルシファー)よ、いかにして天より隕ちしや。もろ/\の國をたふしゝ者よ、いかにして斫《き》られて地にたふれしや。汝さきに心の中におもへらく、我れ天にのぼり、我位を神の星の上にあげ、北の極《はて》なる集會の山に坐し、高き雲井に昇り、至上者《いとたかきもの》の如くなるべしと。然るに汝は陰府におとされ、坑《あな》の最下《いやした》に入れられん』と。これイザヤが、バビロニア王に就いて豫言したるものなり。然るに後代誤解して、之れを以つてサタンを謂へるものとなし、ルシファーとは惡魔を意味せるものと思ふに至り、耶蘇の時に至りては、全く是れを惡魔となせり。耶蘇が『我電の如く、サタンの天より隕つるを見たり』(路加十章十八節)と云ひ、ヨハネ[#「ネ」は変体かな「子」]の默示録には『一條の大なる赤龍あり……其尾にて天の星三分の一を曳きこれを地に墮せり。…斯くて天に戰起り、ミカヘル其使者を率ゐて龍と戰ふ、龍も亦其使を率ゐて之れと戰ひしが勝つこと能はず、且つ再び天に居ることを得ず。是に於て此大なる龍即ち惡魔と呼ばれ、サタンと呼ばるゝ者、全世界の人を惑はず老蛇地に逐下さる』(十二章)『火と硫黄との池に投げ入れられたり』(二十章)と、ペテロ後書には『神、前きに罪を犯しゝ天使を容るさず、之れを地獄に投げ入れ』(二章四節)と云へるより、サタンなるものは、神の大天使なりしものが傲慢心を起し、自ら神に比せんとして墮落したる者なり、ルシファーの星なり、又たかの赤龍なりと云ふの説を形成し、遂に創世記のエバを惑はしたる蛇は此サタンなりと云ふに至れり。(然りと雖創世記には、蛇がエバを惑はしたりとはあれども、決してサタンの惑はしたることは言はざるなり。サタンと蛇を同一視するは後人の附會なるのみ)  此くて神の反對者を意味せるサタンとバビロニア王の形容に使用したるルシファー(明星)とは同一視せられ、或は龍、或は蛇の形状を附會さるゝに至り、此くてミルトン的惡魔の傳説及び詩を生ずるに至りしなり。  ルシファーの歴史の大要此くの如く、兎に角に、ルシファー(明星)は、神と天上に爭ひて破を取りし大天使として傳はり、バイロンも亦此承傳に從ひて其詩を作れるなり。   四 ルシファーの剛毅自尊  天上の戰に敗を取りしルシファー、敗れたりと雖精神意志は尚ほ毫も屈することなく、依然として尊大の態度を持し、尚ほエホバに對して反抗を斷念するなく、新に作られたる地球に來りて、其人類を説きて自己の信者となさんとし、以つてエホバの事業を批評す。其第一の弟子となり、崇拜者となりしは、人類第一の祖たるアダムとエバとの長子カインなりき。  カインは懷疑家なり、父母弟妹等と異にして、神を信ぜず、其全善を認めず、世界に、惡の甚だ多きを實知せる者なり。ルシファー、カインに誨ふるに自我の尊貴なるものにして、決して他に左右さるゝものに非ざるを以つてして曰く [#ここから2字下げ] 『若し心意にして、能く其自己を保ち、能く四周事物の中心たるに於ては、何物も之れを壓滅すること能はず、心意は支配するやう作られあるなり』 [#ここで字下げ終わり] と。然りと雖、其自我を保つは如何にすべき。ルシファーの尊大にして決して他に下らざる、否な同等あるを許るさゞる、若し何者なりとも、同等及び上位を要求するものあるに於ては、これに『抵抗』するにありとなす。即ち『抵抗以つて「自我」を保つ』にありとなす。  エホバ素より大なり。されども、其大なるを以つてするも、抵抗的位置の快樂は、バイロンのルシファーの感ずる所なり。故に曰く [#ここから2字下げ] 『彼れは大なり―されども彼れ、其大を以つてするも、對抗の位置なる我等の如き、幸福なるに非ざるなり』と。 [#ここで字下げ終わり] 然り。活動力強きものは妄逸優懦を好まずして、困難抵抗の中に非常の快樂を有するなり。ルシファーの位置正にこれなり。  素よりこれ苦痛なり、然りと雖『限りある身の力ためさん』との慨ある男子は、却つて勇壯なる苦痛を撰びて之れに面するなり。かのエホバ側の天使等は、エホバに膝を屈し、或は讃美の歌を以つてエホバに媚ぶ、ルシファー之れを奴隸なりと稱して、之れを輕侮して曰く [#ここから2字下げ] 『彼等が苦痛の獨立を擇ばずして、かの全能者に對して、讃美を以つて琴を以つて、又た自ら求めし祈祷を以つて、阿諛追從の温柔なる苦痛を擇ふに於ては、〔彼等は奴隸なり〕』 [#ここで字下げ終わり] と。ルシファーの性格此くの如し。之れを以つて、其容貌には不平と悲哀との相を表はせり。故にカインが、始めてルシファーに會ひし時、ルシファーの何者たるや、又た幸福なるかを問ひし時、『永遠なり』『有力なり』と答ふと雖、カインの重ねて幸福なるかと問ふに當りては『否』と答へざるを得ざりしなり。  又たカイン及び其妹アダ等が、ルシファーを品評して、大天使ならんかと謂ふや、ルシファー自ら『大天使よりもいや高き』者なりと答へ、アダが、『されども幸福なるに非』るべしと云ふや、ルシファー斷乎として答へて曰く [#ここから2字下げ] 『若し幸福とは、奴隸たるにありとせば、我は即ち幸福ならず』 [#ここで字下げ終わり] と。獨立自尊の者正に然るべし。然るに世の幸福を謂ふものは、多くは奴隸の幸福たるなり、何ぞ幸福と稱するに足らん。  此くの如き性格のルシファー、如何で自己の上なるものあるを許るさんや。剛愎にして尊大なるや勿論なり。カイン問うて曰く『假令汝尊大なりとも、尚ほ汝の上なる者あるに非ずや』と。ルシファー此言に對し、侮蔑の氣を破裂せしめて答へて曰く [#ここから2字下げ] 『否な、彼れ〔エホバ〕の有に囑せる天も、我が彼れと共有せる無間虚空の深淵も、無數無量の世界も生命も、凡て是等に誓つて否と云はん。我に勝ちたる者あるは事實なり。然りと雖上なる者は之れなきなり。彼れ凡ての者の讃媚を得ん、たゞ我のみよりは一も之れを得ることなけん。之れに關して、我れ萬物に於て彼れと戰ふこと、尚ほ天上に戰ひしが如し。全永遠に、陰府無間の深淵に、廣大無邊の空間に、無終無限の年代に、徹頭徹尾、我れは彼れと戰はん。全世界も全星辰も、全宇宙も、此大戰爭の止むに非ざるよりは、其衡平を得んとして震動すべし』 [#ここで字下げ終わり] と。ルシファーの意氣此くの如し。反抗的精神滅ぼす可からず、サタン―反抗―敵對―の名眞に當れり。あゝこれペルシアの二原論なり。  ルシファーの高足弟子―崇拜者たるカイン、亦これと同樣の性格を有せり。彼れ父母弟妹等の單純なるを笑ひ、決して神に膝づかず、此ルシファーにだも容易に膝づかざらんとなせり。されどもエホバに膝づかざるものは、大にルシファーに膝づくものなりとの論法には、カインと雖服せざるを得ず、遂にルシファーの弟子となり、懷疑哲學及び反抗的感化を受けたり。   五 ルシファー及びカインの智力  ルシファーは、『能く塵の思想を知り、又た其れが爲めに感ずる』者なり―然り觀世音なり。其生死論、其善惡論、其人生論、其神性の批評等、皆實に神の威嚴を以つて説ける哲理の觀あるなり。『蛇の言葉』として嫌はれたるカインの言も、亦實に正堅鋭利のものにして、『其等の思想は、凡の思想の、最も價値ある思想』たるなり。あゝ人生とは死せんが爲めのものたるなり、子を生むとは、死すべきものを生むことにて、殺人罪を増加することなり、善惡の名稱は、權力を以つて定まるものなり等の言の如き、これ惡魔の言なりと雖亦動かすべからざる眞理にして、カインの智性は、ルシファーに由つて啓發されしものと謂ふべく、ルシファーはカインの教育者、誘導者と謂ふべきなり。  今まバイロンの惡魔ルシファーを以つて、之れをゲーテの惡魔メフィストフェレスに對比するに、其智力に於ては、何れも深酷にして、惡魔的のものありと雖、メフィストフェレスは獨逸大學の教授の如く、學びて得たる智識を語る者なる如しと雖、ルシファーに至っては、元來の大天使、元來のサタンにして、始より自然に宇宙を知れる―然り―造物者的權威を有せる智識を語れるものゝ如し。   六 ルシファーの美  剛愎自尊にして、胸中此くの如き冷々たる哲理を有せるバイロンのルシファーは、決して他の諸文學中に見るが如き[#「如き」は底本では「き」]、下等醜惡なること、ミルトンの形樣せる、衆魔殿に於ける惡魔が、凄愴なる硫黄の火中にありて、其の体蛇の如く龍の如きに非ずして、嚴たる威儀あり、天使等よりも高尚にして尊大なる態度を有し、秀麗なる容貌には聊か欝憂を含めるなり。故に怯憶なるべき女性アダが、始めてルシファーに會ひし時、多少畏懼の念なきに非ずと雖、其美と魔力との爲めに、感に打たれ、身はルシファーの方に『近く近く引き寄せ』らるゝなきこと能はず、その胸中の情を發表して [#ここから2字下げ] 『彼等(他の天使等)は、いとも靜けき、うらゝかなる晝の如く、照りかゞやきて我等を見れど、汝は九重の上なる夜の如く、長く棚びく白雲は、天の濃紫を條附《すぢつ》け色《いろ》どり、數も知れざる數多の星は、燦爛として、驚くべき、不思議なる穹蒼《みそら》を飾るに、數多の太陽なるかの如き物を以つてし、眞に美にして、其數計り知る可からず、且つなつかしく、たとひ眼|眩《くらま》すことなきも、而も吾等を其方《そなた》に引き寄せ、妾の目には、涙を湛え[#変体かな「江」]しむるなり』 [#ここで字下げ終わり] と云へるが如き、實にルシファーの美の魔力を見るなり。 又た『未明の空《そら》を仰ぐや否や、朝を迎へて見守れる、燦たる星』はルシファーの姿なるかな。アダ其を見て [#ここから2字下げ] 『こは美麗なる星よ、げに、妾は其美を愛するなり』 [#ここで字下げ終わり] の感なき能はざるなり。あゝ此星や、これ『天の萬軍の嚮導なる』かも。  何れの宗教何れの文學の惡魔か、バイロンの夫れの如く美なるものある。舊約書のサタンは別に見るべきなし、ペルシヤ[#「ペルシヤ」は底本では「ベルシヤ」]のアングラマイニューも美あらず、ヨハネ[#変体かな「子」]の默示録のサタンは幼稚なる想像のみ、ミルトンのサタン亦然り、ゲーテの惡魔は、大學教授の墮落せるが如き性格のみ、謂ふに足らず、アイスヒュロスのプロメーテウスも力ありと雖美少し、理想的美のシェレーの如きすら、尚ほ其プロメーテウスの、バイロンのルシファーの絶美には、到底比較すべからざるなり。バイロンのルシファーは、夫れ智と意と美との化身と謂ふを得べきか。   七 カインの審美力  ルシファー此く美なり、其高足弟子たるカイン、豈亦至高の審美眼あらざらんや。カインは當然エデンの樂園の相續者たるべきものなり。然るに父母の過失の爲めに之れを失ひたりと告げ聽かさる。カイン終生の憾實に是れなり。あゝ樂園、カインには「禁ざられたる」ものにして、未だ之れを見しことなしと雖、其美は之れを父母に語り聽かされたるや數々なりき。カインの想像は、彼れを樂園の美にあこがれしめ、 [#ここから2字下げ] 『夕の光たそがるゝ頃、樂園の門前あたりたゆたふ』 [#ここで字下げ終わり] こと屡[#「尸+婁」、第3水準1-47-64、屢]なりき。又た少妹チラが朝の讃美を歌ふを聽きては [#ここから2字下げ] 『小鳥の朝の囀り』 [#ここで字下げ終わり] なるが如く、其可愛さを感じたりしなり。  元來カインは地を耕えす者にして、野生物の美は、其常に觀察したる所なるべし。神は彼れ之れを禮拜せずと雖、其妻アダ、カインに勸むるに神に供ふべきを以つてし、 [#ここから2字下げ] 『土地の生物《なりもの》、尚ほうら若き美しき、小枝の花に其蕾、野に咲く花に果實《くだもの》など』 [#ここで字下げ終わり] 柔和なる心を以つてせば、最も善き供物なるを以つてせり。又た弟アベルの強ひての勸めに由り、供物を神に捧げんとするや、カインは果實を取り集め [#ここから2字下げ] 『是等種々の花やかなる色、又た其熟せる艶《つや》』 [#ここで字下げ終わり] の美に恍惚たりき。而して神に祈るの言を聽け、曰く [#ここから2字下げ] 『爾、若し地上のやさしき氣候に、美しく花咲き、其を熟せしめたる廣き太陽の大前に、汚れなき芝生の上に、并べ供へしものを嘉と視玉はゞ、之れを取り玉へ』 [#ここで字下げ終わり] と。小技の花、野の草花、色美しき果實等、あゝ其美は常にカインの眼に映じ居たるなり。  地上の星たる花を觀て美を感ずる者、天上の花たる星を見ては、豈一層の美を感ぜざるあらん。カイン其故郷―而も禁ぜられたる樂園の門外に逍遙せしも、其内に入ること能はざるより、眼を [#ここから2字下げ] 『樂園より他方に轉じ、晴れわたりたる蒼天にかゞやく光の方に向け』 [#ここで字下げ終わり] 其美の感にうたれたり。此に於てルシファーに問うて曰く [#ここから2字下げ] 『げに美麗なるかな、是等も亦死すべきにや』 [#ここで字下げ終わり] と。ルシファー答へて曰く『盖然らん―されども汝及び汝等よりも長生ならん』と。カイン喜びて曰く [#ここから2字下げ] 『我れ實に夫れを喜び、是等の物の死せざることを希ふ、是等は實に愛すべし』 [#ここで字下げ終わり] と。自己の生命よりも美を愛せるなり。彼れの精神殆ど天体と合体せしと謂ふべきか。  其ルシファーに伴はれて、此地球を離れて空間廣大の深淵を飛び行く時、後方に見て、自己の地球の [#ここから2字下げ] 『青き小き圓形は、遙かの天空に釣り下り、尚ほも小き圓形は、其近くに在つて存』 [#ここで字下げ終わり] せるを見し時、必ずや一種異樣の美觀なりしなるべし。然るに尚ほ一層遠く遠く飛び行きて、自己の地球は、殆ど視る可からざる、一小點となり、其他の星と一樣になるに於ては、 [#ここから2字下げ] 『夕の色のたそがるゝ時、蔭ほの暗き森の中、緑も深き堤のあたり、點々として飛び交ふ螢』 [#ここで字下げ終わり] を見るの感ありしなり。  カイン、ルシファーと共に、尚ほ遠く穹蒼を押し別けて進み幻影《まぼろし》の世界に至るの状景、あゝ何ぞ凄寥なるや。過去の國、未來の國、現在の國、種々の國、種々の物―其幻影、寧ろ恐ろしと雖大美此中に存せり。其、過去の國の光景の [#ここから2字下げ] 『あゝ恐ろしき光なるかな。太陽もなく月もなく、又はきらめく無數の光もあるなし。紫青き夜は微《ほの》かに明けて、いと物すごき曉とはなれど、我れ尚ほ暗澹[#「黯のへん+甚」、第4水準2-94-61、黮]たる巨塊を見る』 [#ここで字下げ終わり] と云ひ、 [#ここから2字下げ] 『恐ろしき雲は、渦を卷きて開き』 [#ここで字下げ終わり] と云ひ、陰府《よみ》の國の廣大なる『闇《やみ》なる世界』の [#ここから2字下げ] 『憂鬱なる浮べる所の多くの陰影《かげ》、恐ろしき形の數々の、際《は》てしもあらぬ陰鬱なる國』 [#ここで字下げ終わり] 前世界の堂々たる人間の幻影等より、或は大洋の幻影、前世界のレヴィ[#「ヴィ」は底本では「ヰ゛」]ヤタンの鯨、マンモスの巨象、或は海中の大蛇の幻影等、宏大なるもの、恐ろしきもの、物すごきもの等、カイン盡くルシファーの魔力に由つて之れを觀たり。彼れ素より觀美力ありと雖、ルシファーの大作美力に至つては、到底如何なる畫家の筆も、決して企及し得ざる所となす。宜なり、ヲルター・スコットが此詩の雄大にして美なるを稱し、ムーアが「其恐ろしさ忘る可からず」と謂ひしや。  然りと雖、カインは、あゝ人なりけり。かの天体の美觀に恍惚とし、『是等の範圍には不幸は決して至り能はじ』とまで感じたりと雖、尚ほ遠隔なる最美のものよりも、近き美の一層美なるものありとなす。其美とは何ぞや―妹たり、妻たるアダこれなり。カイン曰く、 [#ここから2字下げ] 『燦々たる天上一切の星も、中夜森々たる……星辰を以つて閃めける天も、あかねさす朝の色も、豊榮登る太陽も、其形容すべからざる入日―我れ是れを眺めて、眼には樂しき涙を湛え[#変体かな「江」]、心は共に漂搖として、雲井の西の樂しき園生、森の樹蔭、緑の樹枝、鳥の鳴音と共に浮べるも……凡て是等は何かあらん。我れ地に背向き、天に背き、たゞアダをこそ眺むなれ』 [#ここで字下げ終わり] と。然りと雖、ルシファー、カインに教ふるに、其美の消褪《うつろ》ふ[#(*1)]ことを以つてす。カイン甚だ其を悲しむ、されども若し其美は消褪するものなりとせば、こはたゞカインの悲しみのみに非ずして、其美を造りし神は、『此くの如き美の消ゆるを見るは』自己よりも一層の損失なるべしと感ず。   八 カインの愛  意志の強き者情亦た厚し、智の鋭利なるもの亦最も善く愛す。カイン、ルシファーと同じく剛愎にして尊大、又た徹底的知力ありと雖、其アダを愛し、子を愛するの何ぞ柔和にして又た深きや。カイン神を敬せず、然るに時に供物を神に捧げんとしたることあり。是れ何故ぞ。あゝこれアダの切なる願に由りしものにて、アダの愛の爲めには、彼れ湛ゆべからざる所を堪えしなり。ルシファー、カインを天界に誘ふや、アダ、カインに問うて曰く、 [#ここから2字下げ] 『我等〔父母弟妹〕を見棄てゝ?』 [#ここで字下げ終わり] カイン [#ここから2字下げ] 『然り』 [#ここで字下げ終わり] アダ [#ここから2字下げ] 『妾も見棄てゝ?』 [#ここで字下げ終わり] と。カイン果して何と之れに答ふべきぞ、 [#ここから2字下げ] 『愛するアダ』 [#ここで字下げ終わり] これ其窮時の答言たりしなり。然り『愛するアダ』なり。此はこれ、カインが『地に背向《そむ》き、天に背向き』て、たゞ眺むる美なるアダなり。『彼女あらずして、我れはた何物たるべきぞ』とまで思ふ所のアダなり―アダは美にして智あり、又た愛に富み、實にカインの愛を受くるに足るの女性たるなり。  カイン此くアダを愛し、アダ亦カインを愛す。『同じ日に、同じ胎より生れし兄妹』―素よりこれ畜生腹の夫婦なり。然りと雖現代の道徳を以つて古代の道徳を咎むる勿れ。道徳は變遷進化するものなればなり―此兄妹の愛よりして、愛らしき子は生れ、子を持つ親の心は、カインも之を經驗せり。其子の睡れる顏を見れば、げに可愛き面もちにて、自ら裸なるを知りもせず、たゞ無邪氣に樂しげなりと雖、『他日知らざる罪に苦しめらるゝ時』及び最後に、死の來るべきを思ふに於ては、カイン、小兒の將來に關して憂慮なきこと能はざるなり。此に於てカイン、其子の生れざりせば宜しかりしを思ひ又た自ら、死する者を生むは殺人的行爲なりとまでに感じたり。  『カイン』は、兄弟殺しと同一語に使用せらる。素より一時の情に激して其やさしき弟を殺したりと雖、其激昂せる情の退くに及びては、直に本心に歸へり、常に『相愛して兄弟らしく、又た小兒らしく』數々相抱きて樂みたりしを回想し、悲哀禁じ得ざりしなり。カイン假令弟を殺したりと雖、決して弟を愛せざりしと云ふべからずして、寧ろ大に之れを愛せしと謂ふべく、吾人はカインを以つて『シーヨンの囚人』の兄弟の愛に劣ることなしと斷言せん。   九 奮鬪的人生のカイン  カイン罪を犯して父母に逐はる。父母は曩に罪に由りて樂園を逐はれたるが、カインは又た再び遠くに逐はるゝなり。さして行くゑは何れなるべき。エデンより東の方 [#ここから2字下げ] 『これ最も荒れし土地、』 [#ここで字下げ終わり] にして、カインは、以つて、 [#ここから2字下げ] 『我れの歩みに相應《ふさ》はしゝ』 [#ここで字下げ終わり] となす。これ實に自ら奮鬪的人生の行路を擇ひしものと謂ふべく、假令彼れ、人生に就いて悲觀せざるに非ずと雖、ルシファー的―カイン的―然りバイロン的の性格は、彼れをして安逸を貪らしむることなく、心中不平に充滿し『假令世界の諸元素の、靜平に歸せるを見しことありとも、果して如何な靜平、我精神に存せしやは、未だ甞て之れを知らず』と云ふの情態にありと雖、一方には宇宙、人生、生死、過去、現在、未來、戀愛、親子の情、善惡の性質、知識と幸不幸等、―然り、宇宙人生の達觀を得て、『是等は此くの如し』と知り、『人として』堅忍不拔の精力を以つて其妻其子を伴ひて『荒野』的の人生の行路をたどれり。而して愛する妻アダ又た、今や [#ここから2字下げ] 『おん身の負はん其重荷は、妾も共に分つべし』 [#ここで字下げ終わり] との情を以つて、カインに盡くす。あゝ、これ眞の人生なり。  (其他『カイン』中の人生觀及び、種々の哲理はこゝに之れを略し、附録『人道と耶蘇教との衝突』の中に聊か言ひ及ぶ所あるべし。)    *   *   * 〔參考〕バイロンの此詩を作るに據りし所は、專ら舊約書創世記、首の數章なり。歐米に在つては、各人大抵聖書を所有し(其を信ずると信ぜざるとは之れを問はず)其昔話の大要は之れを知るべしと雖、日本に於ては、彼れの聖書は之れを藏する家少く、又た其昔話も之れを知らざる者多し、故に參考の爲め、左に創世記中、此詩の材料とせし所を拔萃す、─老婆心のみ。─ 『〔エホバ神六日間に天地萬物を造りたり〕、エホバ神エデンの東の方に園を設けて其造りし人を其處に置き玉へり。河エデンより出て國を潤ほし彼處より分れて四の源となれり。……エホバ神其人を取りて彼れをエデンの園に置き之を理め之を守らしめ玉へり。エホバ神其人に命じて言ひ玉ひけるは、園の各種の樹の果は、汝意のまゝに食ふを得、然れども善惡を知るの樹は汝其果を食ふべからず、汝之を食ふ日には必ず死すべければなり。エホバ神言ひ玉ひけるは人獨なるは善しからずと。〔こゝに男子の助者として、男子の睡れる間に取りし肋骨より女子を作りて男子に與ふ。男の名はアダム、女の名はエバ。二人倶に裸体にして愧ぢざりき。〕エホバ[#「エホバ」は底本では「エホボ」]神の造りたまひし野の生物の中に、蛇最も狡猾なり。蛇、婦に言ひけるは、神眞に汝等園の諸々の樹の果は食ふ可からずと言ひ玉ひしや。婦、蛇に言ひけるは、我等園の樹の果を食ふことを得、されど園の中央にある樹の果實をば食ふ可からず、又た之に捫《さわ》る可からず、汝等恐くは死なんと言ひ玉へり。蛇婦に言ひけるは、汝等必ず死ぬることあらじ、神、汝等が之を食ふ日にに、汝等の目開けて、汝等神の如くなりて、善惡を知るに至るを知り玉ふなりと、婦、樹を見れば食ふに善く、目に美麗《うるは》しく、且つ智慧《かしこ》からんが爲に慕はしき樹なるによりて、遂に其果を取りて食ひ、亦之を己と偕なる夫に與へければ彼れ食へり。是に於て彼等の目倶に開けて其裸体なるを知れり。……神アダムに言ひ玉ひけるは、汝其妻の言を聽きて我が汝に命じて食ふ可からずと言ひたる樹の果を食ひしに由りて、土《つち》は汝の爲めに咀はる。汝は一生の間|勞苦《くるし》みて其れより食を得ん。土は荊棘と薊《あざみ》とを汝の爲めに生ずべし。又た汝は塵なれば塵にかへるべきなりと。…エホバ神曰ひ玉ひけるは、視よ、かの人我等の一の如くなりて善惡を知る、されば恐くは其手を舒べて生命の樹の果實をも取りて無限《かぎりなく》生きんと。エホバ神、彼れをエデンの園より出だし、土を耕えさしめ玉へり。此く神其人を逐ひ出だしエデンの園の東に、ケルビムと、自ら旋轉《めぐ》る焔[#「火+陷のつくり」、第3水準1-87-49、焰]の劍とを置きて生命の樹の果を守護《まも》らしめ玉ふ。 アダム其妻エバを知る、彼れ孕みてカインを生み、……其弟アベルを生めり。アベルは羊を牧ふ者、カインは土を耕えす者なり。日を經て後カイン土より出づる果を携《も》ち來りてエホバに供物となせり、アベルも亦其羊の初生《うひご》と、其肥ゑたる者を携ち來れり。エホバ、アベルと其供物を眷顧《かへりみ》玉ひしかどもカインと其供物をば眷顧玉はざりしかばカイン怒りて……弟アベルに起りかゝりて之を殺せり。エホバ、カインに言ひ玉ひけるは、汝の弟アベルは何處にありや。彼れ言ふ、我れ知らず、我豈弟の番人ならんや。エホバ言ひ玉ひけるは汝何を爲したるや、汝の弟の血の聲、地より我に叫べり、されば汝は咀はれて此地を離るべし、此地其口を啓きて汝の弟の血を汝の手より受けたればなり。汝地を耕へすとも地は咀はれて汝力を効《いた》さじ。汝は地に吟行《さまよ》ふ流離子《さすらいびと》となるべしと。〔カイン、流離子たるものは人の之を殺さんことを恐る、エホバ人の彼れを殺さゞる爲めに仰誌《しるし》を彼に與へ玉へば、彼れエホバの前を離れて、エデンの東なるノドの地に住めり。〕(舊約書「創世紀」二、三、四章) [#改ページ] 宇宙人生の神秘劇 天魔の怨 [#地付き]バイロン 作 [#地付き]木村鷹太郎譯 [#ここから2字下げ] 『エホバの神の造りし野の生物の中、蛇最も狡猾《さか》し』―創世記三章一節。   ―――――*――――― 從男爵サー・ヲルター・スコット君に『カインの神秘劇』を捧呈す       親愛なる友たり忠實なる僕たる [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]著者 [#改ページ]   緒言  左の劇は、之れ『神秘劇』と命名せり。これ古代是れと同樣なる性質の劇に『神秘』或は『道義』と稱せし所と同一意味に據れる者にして、著者は決して、以前イギリス、フランス、イタリア、及びイスパニア等に流行したる所の涜神性の作に對比さるべきものゝ意味を以つてせしに非ざるなり。著者は作中諸人物の性格に適當せる言語は、之れを保存せんことを力め、其聖書より取りし所(これ甚だ稀なり)は成らん限り其變更を少くし、若し押韻の許るす以上は、一言一語も、其儘に使用することを力めたり。讀者は記憶するならん。創世記の書には、エバは蛇に誘惑されしことの外、決して、惡魔に誘惑されしことを記るさゞることを。而して蛇の誘惑するは、たゞ其『野の生《いき》物の中、最も狡猾』なりしに由ると云ふに過ざるなり。猶太の博士或は耶蘇教の教父等か、如何に之れを解釋するとも、余は其發見したるまゝに言語を解釋し、人ありて、是と同樣なる塲合に於て、監督ワットソン氏に對して教父等の言を引用して論談せし時、氏は、ケンブリッヂ學派中の中庸派として、聖書を差し上げて『此書物を見よ』と答へし如く答へんと欲す。余はこゝに新約書に就いては、毫も言ひ及ぶことを爲さゝるなり、これ時代錯誤たるを免れざればなり。余は近來、此詩と同樣のものは全く之れを讀みしことなし。余は二十歳以來ミルトンを讀まずと雖其以前は數々之れを讀みしを以つて、讀まずと雖、讀みしと異るなし。ゲスナーの作『アベルの死』は余のアバーヂーンに在りて八歳の時以來全く讀みしことなしと雖、大体余の記憶には之れを愉快に感ずるなり。然りと雖余の記憶せる内容は、たゞカインの妻をマハラと謂ひ、アベルの妻をチルザと謂ふに止まるなり。余は次々の紙上には之れを、創世記中最も初めに出づる所の女性の名稱たるアダ及びチラと爲せり。是等は實はレメクの妻の名にして、カイン及びアベルの妻は其名の記載あらざるなり。若し夫れ題目の同一なるより、或は其發表に同似の事あらんとも、余の知らざる所、又た關せざる所なり。  讀者諸君は(少數の人の回想せんと擇ぶ所を)必ず喜びて心を留むるならん―即ちモーゼの何れの書にも、又た舊約書にも、決して未來世界に就いて言へる所あらざること是れなり。この案外なる遺漏に對する理由に關しては、讀者宜しくワーバートンの『神の代理』なる書に就いて之れを問へ。其滿足を與ふるや否やは兎に角、是れ以上のものは未だ撰定されざるなり。故に余は何等聖書に違反することなく、此事を明かにせるは、カインに於ける創見たらんことを望む者なり。  ルシファーの言葉に就ては、これを同一なる問題に關して、宣教師の如く語らしめんことは、余に在つては困難の事たるなり。されども余は能くし得る限り、彼れを精神上の禮節の範圍に制限せん[#(*1)]ことは之れを力めたり。若し夫れ蛇の形状にて、エバを誘惑したることを否認するは、これたゞ創世記が、此種の事に關し、何等言へる所なく、たゞ蛇は其蛇たるの能力を以つて誘惑したるを言へるのみなるを以つてなり。    *   *   *   * 注意―余はキュビエーの學説たる、此世界は人間創造前、數回破壞されたりとの思想の或部分を、此詩に適用したるは讀者の知る所なるべし。此思想たるや、數多の地層、及び巨大にして未だ知らざる動物の骨を、其等地層中に發見せしより得たるものにして、たゞモーゼの記せる所に衝突せざるみならず、却つて之れを確證するものたるなり。これ人間の骸骨は未だ甞て其等地層中に發見さるゝことなしと雖、數多既知の動物の骨は、未知の動物の骨の附近に發見さるゝを以つてなり。詩中ルシファーが、アダム前の世界には、人間よりも優れる道理性の者住居し、又たマンモス及び其他の諸動物に對して有力なりしを謂ふが如きは、勿論これ此塲合の事情を完うせんが爲めに詩歌上の作話たるなり。  こゝに一言附記すべきは、アルフィエリの作にかゝる『アベル』なる悲歌劇ありと雖、余は未だ甞て其れを讀まず、又た其他同著者の遺著をも讀みしことなく、たゞ彼れの傳記を讀みしと云ふことこれなり。     一千八百二十一年九月廿日ラヴェ[#「ヴェ」は底本では「ヱ゛」]ンナに於て識す。 [#改ページ]  登場人物   男性 アダム(Adam) カイン(Cain) アベル(Abel)   精靈 ルシファー(Lucifer) 神の天使(Angels of Lord)   女性 エバ(Eve) アダ(Adah) チラ(Zillah) [#改ページ]  第一段   第一塲―樂園の外なる地―時は日出。 [#ここから5字下げ] アダム、エバ、カイン、アベル、アダ、チラ等神に供物をさゝげつゝあり。 [#ここで字下げ終わり]  アダム 永遠、無限、全智の神よ―爾《いまし》は一言もて海の上なる暗黒《やみ》より、水の上に光を造りし神なり―頌《ほ》むべきかな。エホバは歸る光と共に頌むべきかな。  エバ 神よ、汝は晝を名付け、其時まで區別なかりし朝と夜とを別ち―波と波とを分ち、爾の事業《みわざ》の一部を天と稱へ玉へり―頌むべきかな。  アベル 神よ、爾は諸元素を地、水、火、風にまとめ、晝と夜とを造り、又た是等を照らし或は蔭する諸々の世界を造り、以つて、是等を喜び、是等を愛する者を造り玉へり―頌むべきかな、頌むべきかな。  アダ 永遠にして萬物の父なる神よ、爾は是等の最善最美にして、たゞ爾を除くの外、凡てに優りて愛せらるべき者を造り玉へり―吾をして、爾及び彼等を愛せしめ玉へ―頌むべきかな、頌むべきかな。  チラ あゝ神よ、爾は凡ての物を愛し、之れを造り、之れを幸《さいは》いし玉へども、たゞ蛇に許るすに、樂園に匍ひ入ることを以つてし、こゝより吾父を放逐し玉へり。願くば其他の罪より吾等を守り玉へ―頌むべきかな、頌むべきかな。  アダム 長男カインよ、何故汝無言なる。  カイン 何故吾れは言はざる可からざるぞ。  アダム 祷らん爲めに。  カイン 父上祷り玉ひしならずや。  アダム 吾等祷れり―熱心に、  カイン 且つ聲高く。―吾れ父上の祷り玉ひしを聽きぬ。  アダム 吾れ信ず、これ神の御心なりと。  アベル アーメン。  アダム 然るにカインよ、汝は尚ほも無言なるか。  カイン 吾れは此くあることを善しとなす。  アダム そは何故ぞ。  カイン 吾れ願ふ事あらざれば。  アダム 又た感謝することも無きか。  カイン 無し。  アダム 汝は生けるにあらずや。  カイン 又た死すべきにあらずや。  エバ あゝ、禁制の樹《こ》の實《み》は、今や落ち初めたるらし。  アダム あゝ、吾等其果を收めざるを得ず。神よ、如何なれば爾は智慧の樹を植え玉ひしぞ。  カイン 父上何故に生命《いのち》の果實《このみ》を摘み取り玉はざりしぞ。若しさあらんには、父上は神を眼中に置くの要はなかりしならんを。  アダム あゝ吾子よ、神に不敬を爲すこと勿れ、是等は蛇の言葉なり。  カイン 何故此く言ふ可からざるぞ。蛇は眞理を語れるなり。かの樹は智慧《ちゑ》の樹なりき。かの樹は又た生命《いのち》の樹なりき―智慧も善なり、生命も善なり。然るに如何で兩者共に惡なることを得ん。  エバ 吾子よ、汝の生るゝ其前に、我が罪犯しゝ時の如く、汝は今や語れるなり。我れの不幸が再び汝の身の上に、新に來るを我れに見せざれ。吾れは已に悔ひ居るなり。願くばあゝ我子、樂園の外なるわなに、かゝらであれかし。此物已に樂園にて、吾等兩親を破滅せしめぬ。汝は物の「然るがまゝに」滿足なせ―あゝ吾子。吾等然りしならんには、汝も亦今滿足してありしならんに。  アダム 吾等の朝の祈祷は終れり。いざ、各自の勞働《つとめ》にいそしまん―必要なれども、左程に重きことには非ず。土地尚ほ若かし、たゞ少しの働きもて、いと親切に、土地は收穫《みのり》を生ずるなり。  エバ 吾子カインよ、見よ、父上の樂しげに、又た不平なき有樣を。汝も亦其如くなせよかし。  チラ 兄上よ、おん身も亦其如く爲し玉はざるか。  アベル 如何なれば兄上よ、容貌此くは憂を帶び玉へるぞも。これ兄上に何の益もあることなく、たゞ「永遠〔なる神〕」の忿怒を起こすのみなるよ。  アダ 愛するカインよ、おん身は又た、妾をも怒り玉ふか。  カイン 否とよ、アダ、否とよ。吾れは暫く一人こゝに在らんことを願ふなり。アベルよ、吾れは心病めり、やがて癒ゆべし。弟よ、願くば吾れに前き立ち行け。又た妹よ、おん身等も、こゝに留まること勿れ。おん身|達《たち》のやさしさは、我れはすげなく聽き去らじ。やがて後より行くべきぞ。  アダ 若し來まさゞらんには、妾は呼びに來るべし。  アベル 兄上、願くば、神の惠おん身の精神《こゝろ》の上にあれかし。 [#地付き]〔アベル、チラ及びアダ退塲  カイン(獨語) 此くの如きは人生のみ。勞働せよと。何故吾れは勞働せざる可からざる。これ只我父、エデンに位置を保ち得ざりし故なるのみ。如何んぞ我れ之れに關せん―其時我れは生れ居らず、生れんことを求めず、又た生れ出でゝ我が其然るべき状態を愛しも爲さず。何故父は蛇と婦《をんな》の言葉とに從ひにけん。假令之れに從ひたりとも、又た何故に苦しむぞ、此こに有りしは果して何ぞや。樹は植えられてあり。こは何故に父の爲めのものならざりし。若しこれ父の爲めのものにあらずば、神は何故、樂園の中央、而も最も美麗にして、其樹の茂れる近傍に、吾れの父を置きたるぞ。彼等は凡ての疑問に對して、たゞ『これ神の御意《みこゝろ》なり、神は善なり』との一つの答あるのみなり。神は力強しとの理由を以つて、又た全く善なりと續づくべしとは、吾等如何にしてか之れを知らん。我れたゞ結果にて判斷するのみ―是等の果實は實に苦《にが》し―而も我物ならざる過失の爲めに、我は之れを食はざるを得ざるなり。今ま此處に來るは誰れぞ―形は天使の如しと雖、彼等よりは今一層の威儼あり、又一層の悲哀の相ある精靈の本体なり。吾れ戰慄《わなゝ》くは何故ぞ。かの樂園は、當然、我れの相續すべき所にして、禁制の墻壁《かべ》の、天使の防禦《ふせ》げる堡壘の上に、不死なる木々の數々の梢を夜《よる》の鎖《とざ》さん前、其樂園を見んとして、吾れは屡[#「尸+婁」、第3水準1-47-64、屢]々夕の光たそがるゝ頃、樂園の門前あたりたゆたふ時、日毎《ひごと》多くの精靈が火焔[#「火+陷のつくり」、第3水準1-87-49、焰]《ほのほ》の劍《つるぎ》振れるを見しも、是等の精靈にもいやまさり、如何なれば吾れは今ま、此精靈を恐るゝぞも。火焔[#「火+陷のつくり」、第3水準1-87-49、焰]の劍揮るへる精靈等を、敢て恐るゝことなき吾れ、など今ま近づき來るものを恐るゝ。然りと雖此精靈は、彼等に優りて有力なるの趣あり。又た極めて美ならざるに非れども、全く以前に美なりし如く、又此後に美たり得べけん美は無くして、悲哀は彼れの、不死の半部《なかば》を爲せるが如し。若し果して然りせば、人類を措いて、何者か彼れを悲しませ得るものぞ。彼れ來れり。 [#ここから5字下げ] ルシファー登塲 [#ここで字下げ終わり]  ルシファー 人間よ、  カイン 精靈よ、汝何者ぞ。  ルシファー 諸《もろもろ》の精靈の主なり。  カイン 果して然らば、汝は能く、彼等〔諸精靈〕を離れて、塵より成れる者と與《とも》なり得るか。  ルシファー 我れ能く塵の思想を知り、又た其れが爲めに感じ、又た汝等と同じく感ず。  カイン 如何にしてか、汝は我れの思想を知れる。  ルシファー 其等の思想は、凡ての思想の、最も貴とき思想なり―是れ實に、汝の内にて語れる所の、汝の不死の部分なり。  カイン 如何なる不死の部分ぞや。此事未だ我に啓示されざるなり、生命《いのち》の樹は、父の愚《おろか》の行の爲め、吾等に禁ぜられ、智慧の樹は、母の心の性急にて、餘りに早く摘み取られて、其果や凡て死たるのみ。  ルシファー 彼等の言へるは皆詐。汝は生くべし。  カイン 吾れ生けり。然りと雖、たゞ死せんが爲めに生けるなり。又た假令生けりとも、死を嫌はしむる物聊かだにも有ることなく、たゞ生來の執着あるのみ。これ實に厭ふ可けれど、克つこと得ざる生命の天性なるのみ。吾れ之れを嫌ふこと、吾が身自身を卑しむ如し、されども之れに勝つこと能はず。此くて吾れ生けるなり。吾れ始より、生を得ざりしならんには、却つて宜しかりしものを。  ルシファー 汝は生き―又た永久に生きざる可からず。汝の外部を蔽へる所の土なる身は、眞實在と思ふ勿れ―此物滅びん、されど汝は、今あるよりも以上に生くべし。  カイン 以上なりとか。何故に、此以上生きずと言はざる。  ルシファー 汝は又た、我等のあるが如くに、あり得べし。  カイン 而して汝は。  ルシファー 永遠なり。  カイン 汝は幸福なるか。  ルシファー 我等は有力なり。  カイン 汝は幸福なるか。  ルシファー 否。汝は。  カイン 如何で我れ幸福ならん。我を見よ。  ルシファー 憐れむべき土《つち》〔なる人〕よ。汝は又た、自ら不幸と稱せんとす。實に汝は。  カイン 然り、我れ不幸なり―又た凡て、其力を有せる汝、果して何者ぞ。  ルシファー 我れはかの、汝を造りし者〔神〕たらんことを欲し、又た若し汝を造らば、現状の如き汝を造ることを爲さゞりしならん者なり。  カイン あゝ、汝は殆ど一種の神の趣あり。而して―  ルシファー 吾れ何者にてもあることなし。且つ、神たらんとして敗れし以上は、吾が現在然る以外、何者にてもあることなし。彼れ〔神〕をして支配せしめん。  カイン 何者を。  ルシファー 汝の父を造り、又た地球をも、  カイン 又た天をも、又た天地間凡ての物を造りし彼れ。吾れ此く天使の歌ふを聽き、父も亦、しか言へり。  ルシファー 彼れ天使等は、精靈たれ人間たれ、吾れ及び汝の如き存在者の、苦痛に付いて或は歌ひ、或は語らでかなはぬ所を言ふのみなり。  カイン さらば其、存在者とは何者ぞ。  ルシファー これ、かの敢て不死を利用するの靈魂なり―これ、かの全能なる壓制者の、其永遠の面前に立ち、恐るゝことなく、彼れに告ぐるに、彼れの惡の決して善に非ざることを、以つてするの靈魂なり。我れは知らず、又た信ぜずとも、若し其言へるが如く、彼れは我等を造れる者にてあらんには―彼れは吾等を、造らざるを得ざりしなり。吾等は不死なり―否、彼れ、我等の然るを欲するなるべし―即ちこれ、吾等を苦しめ得んが爲めなるのみ。然りと雖此くの如きは、これを彼れに一任せん―彼れは大なり―されども彼れ、其大を以つてするも、對抗の位置なる我等の如き、幸福あるにあらざるなり。「善」は決して、「惡」を作るものにはあらず。其他彼れ、果して何をか造りし。されども彼れは、獨り其の宏大にして、寂寥なる玉坐にありて、以つて無數の世界を造り、以つて己が永遠性の限りあらざる存在と、寂寥孤獨の無聊の苦悶を少なく爲さん其爲めに、彼れは世界に世界を増すなり。彼れは獨り、明確ならず、又た碎くべからざる暴君なり。彼れ若し自ら自己を碎き得たらんには、實にこれ、彼れが與ふる最上一の恩典なり。然りと雖、彼れは其統治するに一任し、自己を不幸に増さしめん。少くとも吾等、互に同情し―心を協せて苦しむ精靈、人間等は、共に無限の同情もて、無量の苦痛を、忍び堪ゆるに易からしむ。然るに彼れは、其|高御座《たかみくら》にひとり在りて、憫れむべくも、又た其不幸の状態にて、尚ほ息むことなく創造し、再造せざるを得ざるなり。  カイン 汝の言葉は實にこれ、甞て我れの思想の中に、幻《まぼろし》にて漂ひ浮びし所のものなり。我れ、視し所と聽きし所を、調和する[#(*1)]こと能はざりき。父と母とは、蛇について、果實《このみ》について、又た樹について我に語れり。かの兩親の所謂樂園なるものゝ其|門《もん》が、火炎《ほのほ》の劍持ちたる天使等に、衞《まも》られあるを、我れ見たり。こは是れ、父母と我とを、閉ぢ出だしたる門たるなり。吾は日毎の勞働と、絶ゆる[#(*1)]ことなき物思《ものおもひ》の、いとも重きを感ずるなり。我心中には、能く萬物を、支配し得るが如きの思想、群り起るも、四周の世界を觀來つて、我此思想に對する時は、我は實に言ふに足らざるものゝ觀あり。然りと雖、我は獨り以爲へらく、此不幸は、吾物なりと。今や父は馴らされ了り、母は曩に、神の咀を犯してまでも、求めし知識を、渇望するの心を忘れ、弟はたゞ牧童たるのみにして、額に汗を流すにあらずば、何物をも、生ずることを、土地に向つて禁ぜし彼れ〔神〕に、羊の初生《はつほ》を捧ぐる者に過ぎざるなり。妹チラは、小鳥の朝の囀りよりも尚ほいや早く、朝の讃美の歌謠ひ、吾が最愛の妹アダも、亦我れを壓迫爲せる苦悶を解し能はずして、今に至るも、何等、吾れに同情を表はすことに、吾れは遭遇せざるなり。善し。吾れは寧ろ精靈|達《たち》と交はらん。  ルシファー 而して若し、汝自己の精神《こゝろ》に由りて、此くの如きの交りを、爲すに適せぬ者なりせば、我れ今ま我が此姿を以つてして、汝の前に立ち現はるゝなかりしなるべく、汝を誘ひ惑すには、尚ほ以前の如くにして、蛇にて十分足りしなり。  カイン あゝ、我母を誘惑《まよわ》しゝは、果して汝にてありにしか。  ルシファー 吾れたゞ眞理を以つてする以外、何者をも誘惑したることあるなし。かの樹は、智慧の樹にてはあらざりしか。生命の樹は、今も尚ほ、其實を結ぶにあらざるか。汝の父母に、是等の樹の實を、摘み取る勿れと命ぜしは、果して我れにてありたるか。無邪氣にして、自然に物めづらしき彼等の近くに、其等禁制のものを植えしは、果して我の爲しゝ所か。我は汝を、神々の如く爲さんと欲す。否尚ほ進みて、かの汝を排斥したる彼れ〔大神〕の如くにまでも爲さんと欲す。彼れが汝を排斥するの理由たるや『汝、生命《いのち》の樹の實を食ひて、我等の如く神々と、なる可からず』と云ふにあるのみ。彼れ此く言ふことなかりしか。  カイン 然り、我れ是等の言葉を、雷鳴中に聽きしと謂へる、其等の者より聽き覺ゆ。  ルシファー 然らばかの、汝を永生せしめざる者と、又たかの汝をして智慧を樂しみ、其力を有して、以つて永久に生くることを得しむる者と、果して何れか惡魔なる。  カイン あゝ父母にして、兩種の果實を摘み取るか、或は何れをも取らざりせば宜しかりしを。  ルシファー 一方、汝の物と已になれり、他も亦た汝の物となり得べし。  カイン 如何にしてか、これを得べき。  ルシファー 抵抗以つて「汝自我たる」ことに由つて之れを得べし。若し心意にして、能く其自己を保ち、能く四周事物の中心たるに於ては、何物も之れを壓滅すること能はず。心意は支配するやふ作られあるなり。  カイン 然りと雖、汝果して、我兩親を惑はしゝか。  ルシファー 我れなりとか。あゝ憫れむべき泥[#「土へん+尼」、坭]《つち》なる者よ。我れ何の爲めに、又た如何なれば、汝の父母を誘惑するの要かある。  カイン 皆曰く、蛇は前きには靈なりきと。  ルシファー 其を言ひたるは誰なるぞ。天に於ても、其如くは記るしあらず。たとひ、人間多大の恐怖と、又た些々たる虚誇《ほこり》とは、靈性を考ふるに、人間自己の、卑しき所の弱點を、之れに附與するものとは云へど、かの傲慢なる者〔神〕も、此くまでは欺かざらん。蛇は蛇のみ、其以上何者にてもあることなし。然りと雖、其の彼れ〔蛇〕が、誘惑したる彼等〔アダム、エバ〕よりは以上のものなり。彼れ又た自性|土地《つち》にして、其の能く彼等に勝ちたると、又た智識なるものは、彼等の狹き喜悦《よろこび》には、却つて不幸の原《もと》なるを、前知せるより考ふれば、智慧に於ては、蛇は、彼等以上の者なるかな。汝は我れを、死すべき物の形を着ると思へるか。  カイン されども、物に惡靈ありしにあらざるか。  ルシファー 彼れ〔蛇〕たゞ、其|叉岐《またさけ》なせる舌を以つて、話しかけたる其等の内の一人《いちにん》を、覺《さま》しゝものに過ぎざるなり。汝に告げん―蛇はたゞ、蛇たるのみにして、其れ以上、何等の事もあることなし―かの誘惑《まどわし》の樹の實を守護せる天使に問へ。今より後、汝及び、汝の子孫の死灰の上に、數千年も經過せば、其時代の世界の子孫は、汝の父母の、太古に爲しゝ失敗を、小説なるものに仕組みなし、我れに着するに、我が輕侮する物の形を以つてせん。彼れ〔神〕其不快孤獨の自己の永遠性に對して、己が前に叩頭せしめん其爲めに、萬物を造れるなり。我は、彼に膝を屈する凡の者を輕蔑す。されども吾等眞理を見し者は、其事語らざるを得ざるなり。汝の愛する兩親は、匍匐する物に聽きて墮落せり。かの精靈は何の爲めに汝の父母を誘惑するの要かある。全空間に瀰漫せる精靈には、此樂園の狹隘なる範域内に、何の羨やむものかある。然りと雖智慧の樹の實を以つてするとも、全く知るを得ざるものを、我れは汝に教へんか。  カイン されども我が知らんともせず―知らんと欲せず―又た知らんとも心がけざる知識に就いて、汝は何等語ること能はざらん。  ルシファー 又た見んとの心もなきか。  カイン 其を證明せよ。  ルシファー 汝は敢て死を視ることを爲し得るか。  カイン 彼れ〔死〕は未だ我れの見ざる所。  ルシファー されど汝は、遂に其れと、ならざることを得ざるなり。  カイン 父は曰く、彼れは一種の恐ろしきものなりと。母は、父が死の名を言ひし時には打泣きつ、アベルは仰ぎて天を見つめ、チラは俯して地を見て祈祷をさゝげ、アダは我を見つめて默然たり。  ルシファー 而して汝は。  カイン 我は此の免れ難き觀ある所の、全能なる死の名を聽く時は、言ふべからざる思想、胸中に群がり出でゝ、燃ゆるが如し。我は彼と相撲取りする[#(*1)]ことを得べきか。我れ小兒なりし時、戲れに獅子と共に相撲取りしに、獅子は咆哮《うな》りて、我が握《つか》みより遁げ去りたり。  ルシファー 死は形は有らざれども、能く地より生れし形あるもの一切を、呑沒し去るものなり。  カイン あゝ、我れ、死は一個の存在者と思ひ居たり。されど何者なればにや、彼れたゞ一の存在者を除くの外、此くの如きの多くの惡事を、凡ての物に爲し得るぞ。  ルシファー 汝宜しく、破壞者に之れを問へ。  カイン 破壞者とは誰なるぞ。  ルシファー 造物者のことなり―其名は何れなりとも、汝の欲するまゝに之れを呼べ。彼れ破壞せんが爲めに、萬物を造れるなり。  カイン 我れ死を知らず、されども其れを思ひたり。我れ死に就いて聽きたればなり。假令これを知らざれども、是れ恐ろしきものなる如し。我れ死を尋ねて、これを廣大寂莫なる夜に求めて、巨大なる影の像《かたち》を、遙に閃く天使の劍もて遮ぎられたる、エデンの壁の、ほの暗き陰に見し時、我は心に思へらく、こはこれ彼れ〔死〕の來れるならんと、注視之を久うせり。そは此くも、我等凡てを恐れ震はす其者は、果して如何なる者なるかを、知らんとの情、恐と共に、我胸中に起りし故なり。然るに遂に何も來らず。こゝに於て我れは遂に疲れし眼を、我故郷なりとは云へ、而も禁ぜられたる樂園より他方に轉じ、晴れわたりたる蒼天に、かゞやく光の方に向けたり。あゝ、げに美麗なるかな。是等も亦死すべきにや。  ルシファー 盖然らん―されども汝及び汝等よりも長生ならん。  カイン 我れ夫れを喜び、是等の物の死せざる[#(*1)]ことを希ふなり。是等は實に愛すべし。抑も死とは如何なるものぞ。我れ其すごきものなるを恐れ、又た感ず。然りと雖果して如何なるものなるか、これを解し得ざるなり。是れ吾等、罪犯したる者にも犯さゞる者にも、兩者に對して惡なることゝ宣言されてあるものなり。然りと雖惡とは果して如何なることぞ。  ルシファー 土地に溶《と》解け去ること即ち是れなり。  カイン されども吾れは其を知り得べきか。  ルシファー 我れ死を知らず。其を答へ能はざるなり。  カイン  我れ若し靜寂《しづか》なる土地たるべしとせば、これ聊も惡に非ず。吾れたゞ塵たる以上に、寧ろ何物にても無かりしことこそ望ましけれ。  ルシファー こは是れ汝の父にも劣りて、一層下れる願かな。汝の父は知らんことを願ひたり。  カイン 然りと雖、生きんことをば願はざりき。若し夫れ然らざらんには、父は何故、生命《いのち》の樹の實を摘み取らざりしぞ。  ルシファー 彼れ妨げられしを以つてなり。  カイン 始めに先づ、生命の樹の實を摘み取ざりしは、これ至極の誤謬《あやま》りなり。されども彼れ、智慧の樹の實を摘み取る前には、未だ死をば知らざりき。あゝ我れ今にして、始めて其の何物たるかを僅かに知りぬ。されど我れ尚ほこれを恐る―其の何の恐れなるやを知らざるなり。  ルシファー されども、凡てを知れる我に在つては、何の恐れもあることなし。見るべし、眞の知識の如何なるかを。  カイン 汝は能く、凡てを我に教ふるか。  ルシファー 然り、一の條件の下に於て。  カイン 其は如何なる條件ぞ。  ルシファー 汝は伏して、汝の主として、我を崇拜すること即ちこれなり。  カイン 汝は、父の禮拜なせる主〔神〕に非ず。  ルシファー 然り。  カイン 彼れ〔神〕の同儕なるか。  ルシファー 否な。我れは彼れと共同なるもの一もあるなく、又たあらん[#(*1)]ことを求めもせず―我れ上たりとも可なり―下たりとも可なり―たゞ彼れの權力の分有者たり、又た奴隸たるを除くの外、我れ何者たりとも可なり。我れは全々無關係に存在す。然りと雖我れは大なり―我れを崇拜する者多くこれ有り、又た今後一層多かるべし―汝は其前者中のものたるべし。  カイン 我れ未だ嘗て、父の神に膝づきたることあるなし。弟アベルは、數々我に願ふに、共に犧牲を供へんことを以つてせしかど、我れ爲さず。如何んぞ我れ汝に膝づかん。  ルシファー 汝果して彼れに膝づくことなかりしか。  カイン 我れ已に言ひしに非ずや―再び言ふの要あらじ。汝が偉大なる智識は、其れを汝に教へざりしか。  ルシファー 苟も彼れ〔神〕に膝づかざる者は皆、我に膝づく者たるなり。  カイン されども我れは、兩者何れも、これに膝づくことなけん。  ルシファー 大に我に膝づけり。汝は我の禮拜者なり。彼れ〔神〕を禮拜せざることは、汝を我れの禮拜者たると同一たらしむ。  カイン 何をか意味す。  ルシファー 汝はやがて、又た今後、其事を知るべけん。  カイン たゞ我本体の秘密を我に教へよ。  ルシファー 導くまゝに隨ひ來れ。  カイン 我は歸へりて、地を耕えすを要するなり―我れ約束したればなり。  ルシファー 何とか言ふ。  カイン 初生《はつなり》の果實を摘み取る爲めなり。  ルシファー 何故ぞ。  カイン アベルと共に、神に祭檀に捧げん爲めに。  ルシファー 汝は今しも言はざりしか―汝を造りし彼れに、未だ嘗て、膝づきたることなしと。  カイン 然り―されどアベルの切なる願ひの爲めなり―供物は實は我よりも、彼れ―及びアダの爲めなり。  ルシファー 汝の躊躇は何故ぞ。  カイン 彼女は我妹、同じ日に、同じ胎より生れしもの。彼女涙をもつて、強て此約束を我より得たり。されば彼女の泣きを見んよりも、寧ろ凡てを堪え忍び、何者たりとも禮拜せんと思ひしのみ。  ルシファー 然らば我に隨ひ來れ。  カイン 然り、行かん。 [#ここから5字下げ] アダ登塲 [#ここで字下げ終わり]  アダ 兄上、妾はおん身に會はんとこゝに來りぬ。今や休息《やすみ》と樂しみとの時刻となれり。おん身も共に居まさずては、妾の樂しみいとも少し。おん身は今朝、働き玉はざりしかど、おん身の分は、妾これを働きぬ。果實は熟して、其を熟せしむる光の如く赤くうれたり。彼方に來玉へ。  カイン おん身は見ざるか。  アダ 妾は天使の居ますを見る。吾等數多の天使を見たり。此天使も共に來りて、吾等の休息《やすみ》を樂しみ玉ふか。さらば天使を歡迎せん。  カイン 然りと雖此天使は、我等の見たる如きに非ず。  アダ さらば尚ほ他の天使あるか、されど從來の天使の如く歡迎せん。他の天使等は、我等の客たることを聽き玉へり―此天使も亦其如く聽き玉ふか。  カイン (ルシファーに向つて)汝は其れを承諾するか。  ルシファー 我は却つて汝に請ふ、汝は我れの客たることを。  カイン (アダに向ひ)彼れと共に、我れは彼方《かなた》に行かざることを得ざるなり。  アダ 我等を見棄てゝ?  カイン 然り。  アダ 妾も見棄てゝ?  カイン 愛するアダ。  アダ 妾も行かん。  ルシファー 否、女人は行き得ず。  アダ 心と心の、仲に立ち入る、汝果して何者なるぞ。  カイン (アダに向ひ)彼れは一の神なるよ。  アダ 何に由りておん身は知れる。  カイン 神の如く彼れ語ればなり。  アダ 蛇亦此く爲せり。而して欺きぬ。  ルシファー アダ、おん身誤れり。かの樹はこれ智慧の樹にてはあらざりしか。  アダ 然り、これ吾等の永遠の悲しみなり。  ルシファー さは云へ、其悲しみは智識なれば、彼れ欺きしに非ざるよ。若し彼れおん身を欺きたりとせば、これたゞ眞理を以つて爲せしのみ。又た其眞理は、實質たゞ善たらざるを得ざるなり。  アダ されど吾等は、凡て是れに元づきて、凶に重ぬるに惡を以つてし、吾家よりは放逐され、恐怖、勞働、流汗、心痛、過去の痛恨、來らぬ希望を知れるあるのみ。カインよ、此精靈と與《とも》なる勿れ。從來吾等が堪えし所を堪え忍びて、妾を愛せよ。妾はおん身を愛するなり。  ルシファー おん身の母よりもまた父よりも?  アダ 然り、これ亦罪なるか。  ルシファー 否未だし。されど他日おん身の、子等の代《だい》には然らん。  アダ 何ぞや。我女は、其兄弟エノクを愛すべからざるか。  ルシファー おん身がカインを愛する如くは愛すべからず。  アダ あゝ、彼等〔兄妹〕互に相愛し、愛より出でゝ、愛する物を生み得ざるか。彼等は、此胸より共に乳を飮みしにあらずや。カインは彼等の父にして、同じ胎より、妾と共に、同じ時に生れしならずや。然るに我等互に相愛せるにはあらざるか。又た我等、我身を増殖して、以つて其を愛する如く、互に愛する物を増殖したるにあらざるか―カインよ、妾はおん身を愛すべければ、此精靈と行く勿れ。彼れは我等の精靈に非るなり。  ルシファー 我が今言ひし所の罪とは、我れの定めしものに非ず。又た汝にあつても、罪たることを得ざるものなり―たとひ、死後、汝等に代りて生るゝ者等に取つては、此事如何に見ゆるとも。  アダ 其物自身罪に非る罪とは、果して如何なる罪なるぞ。罪も徳も「事情」なるもの[#(*2)]、凡て之れを作るを得るか。若し果して然りとせば、我等は―――の奴隸なり。  ルシファー 然り、汝等よりも高き者等〔天使〕は、奴隸にして、彼等及び汝等よりも、一層優りて高き者も同く然り―彼等が苦痛の獨立を擇ばずして、かの全能者に對して、讃美を以つて琴を以つて、又自ら求めし祈祷を以つて、阿諛追從の温柔なる苦痛を擇ぶに於ては然り。彼等のこれを爲すはたゞ、彼れ〔神〕の全能なるが故にして、決して愛よりするに非ず、たゞ恐怖と自家の希望とに出づるなるのみ。  アダ 全能は又た、全善たらざる可からず。  ルシファー エデンに於ける全能者は果して如何ん。  アダ 惡魔よ。美をもて妾を惑はす勿れ。汝は、蛇が美なりしよりも、尚ほ一層に美麗にして、又た一層に詐りなり。  ルシファー 又た一層に眞實なり。汝の母エバに問へ、母は善惡の智識を有せるならずや。  アダ あゝ母。おん身はおん身自身よりも、おん身の子等の身に取りて、いや増す不幸の樹の實を摘み取り玉へるよ。おん身は少なく見積りても、若き時代は樂園に年月過ごし、いとも無邪氣に、幸福なる精靈と、幸福なる交を爲し玉へり。然るにおん身の子なる妾等は、エデンの園は之を知らず、神の言葉を裝ほへる惡魔等には附きまつはれ、我等の不滿足なる、又た好奇なる思想に乗じて、彼等は我等を誘惑し、宛もおん身の顏の尚ほ紅に、心樂しく、罪なき自儘《じまゝ》の幸福なる時、蛇の爲めに惑はされ玉ひし如きなり。妾は今、我前に立てる所の、此不死の者に答へ能はず、又た嫌ふことも之れを爲し得ず。妾は喜ばしき恐れもて彼れを見れども、妾は彼より遁れ去らじ。彼れの目には、一種の強き魔力ありて、さまよふ妾の眼《まなこ》を、彼れの目に定めしめ、我の胸は、急に動悸し、彼れは妾を恐れしむるも、尚ほ妾を、近く近く、引き寄するなり。カイン、カイン、彼より妾を救ひてよ。  カイン アダ、何をか恐るゝ、こはこれ惡しき精靈には非るなり。  アダ 彼れ神に非ず、又た神の仲間の精靈にも非ざるなり。ケラブ及びゼラフの天使は、妾多く之れを見たれど、彼れは是等の如きに非ず。  カイン されども、尚ほ他に高き精靈あり―大天使等は即ち然り。  ルシファー 大天使よりもいや高き。  アダ 然り―されども、幸福なるには非ざるなり。  ルシファー 若し幸福とは、奴隸たるにありとせば、我は乃ち幸福ならず。  アダ 妾は聞きぬ、ゼラフの天使は最も愛し、ケラブの天使は最も知れりと。彼れの愛せざるよりして見れば、こはこれケラブの天使なるべきか。  ルシファー 果して若し、高き智識は、愛を打ち消すものなりせば、知りたる後は、汝はこれを愛し得ざる、彼れとは果して何ものなるべき。凡てを知れる大智のケラブは、若し夫れ愛情少かりせば、ゼラフの愛は、たゞこれ無知に過ぎざるなり。これ矛盾せることにして、汝の愛せる兩親の、敢て爲しゝ所に對する運命は、善く此事を證明せり。愛と智識と、兩者何れか、之れを擇ぶを要するなり―他に出づべきの途あらず。汝の父は、已にこれを撰擇せり。彼れの神を禮拜するや、たゞこれ恐懼に出づるのみ。  アダ あゝカイン、おん身は愛を擇び取れ。  カイン 愛するアダ、おん身の爲めにと、我れに撰擇の必要あるなし―これ初めより、我と共に生れたり。其他我れ、何物をも愛するなし。  アダ 吾等の父母は?  カイン 父母が、吾等凡てを樂園より、逐ひ出だしたる樹の實を取りしは、果して吾等を愛せしなるか。  アダ 其時吾等未だ生れず―吾等若し生れ居たりしならんには、吾等は父母も我子も、これを愛するなかるべきか。  カイン あゝ幼きエノク、片言言へる其妹、我只だ幸福なりと思ふを得ば、我は半忘れしならん―然りと雖數千代の子孫等は、決してこれを忘るゝなけん。人はかの同時に、罪と人間との、種子を蒔きたる人の記憶を、決して愛する勿るべし。彼等〔父母〕は智慧と罪との樹の實を摘み取り―且つ彼等自身の悲哀を以つて、尚ほもこれに足れりとせず、我を生み、汝を生み、其他こゝなる少數、將來あらん無數無算の大衆、百萬、千萬、凡ての者を―時代に時代を經過して、積み重ねたる苦痛を相續せんが爲め―生めり。此くて吾身は、この大衆の父祖たらざるを得ざるなり。おん身の美と、おん身の愛―我が愛と喜悦、歡喜恍惚の瞬間、及び靜穩なる時間等、凡て吾等は、子孫及び相互の身にて愛すれど、此くの如きは要するに、吾等の子孫と吾等をして、罪と苦痛の長年月の生活を、爲さしむるものにして、又た若し假令短かきも、尚ほこれ悲哀の生活にて、間々快樂の瞬間の短かき時を挿み、以つて遂には―未知の死に導き去るなり。吾れ意ふに智識の樹は、其約束を充たさゞりき。彼等〔父母〕若し罪を犯しゝものとせば、少くとも、智識に關する凡ての事物と、死の秘密をば知れる筈なり。彼等果して何をか知れる―其己等の、不幸に就いて。我等にこれを教へんには、蛇と樹の實は、果して何の要かある。  アダ カインよ、おん身若し幸福ならんには、妾は不幸に非るなり。  カイン 然らばおん身|一人《いちにん》幸福なれ、我れ幸福に用あるなし。是物、我れ及び我種族を卑しくするなり。  アダ 妾一人のみにては、決て幸福なるを得ず、又た其を欲せず。たとひ死あるに拘はらず、たゞ吾等の近くの人々と、與にありなば、妾始めて、幸福なるを得ると思へり。妾未だ死を知らず、聞く所にて判ずれば、恐るべき陰影《かげ》の如くに思はるれども、妾は敢て恐れざらん。  ルシファー 此くて汝は、一人《いちにん》にては、幸福なること能はずとは、汝の言へる所なるか。  アダ あゝ一人、誰か幸福にて、一人たり、又た善たることを得るものぞ。妾はやがて、我兄、我弟、吾等の子供、吾等の父母を見るべきことを思ふに非ずば、獨り寂莫に居ることは、罪の如くに思ふなり。  ルシファー 然るに、汝の神は孤獨なり。彼れ果して幸福に、寂寥として、又た善たるか。  アダ 神は然らず。神には天使及び人間ありて、神はこれを幸福ならしむ。神が是等に、其|喜悦《よろこび》を與ふるは、これやがて、神の幸福となるものなり。喜悦を、擴め及ぼすことの外、如何なる喜悦あるべきやは、  ルシファー 新にエデンを逐はたる、汝の父、或は又た其第一の長子に問へ―汝自身の胸に問へ。必ず靜穩《しづか》にあらざるなり。  アダ あゝ靜穩に非ず―而して汝は―汝は大に幸福なるか。  ルシファー 吾れ若し幸福ならずとせば、(汝の主張爲せるが如く)、かの生命及び生物を造りたる、至大至善の造物者の爲すと謂ふなる、此幸福擴張の原因を考究せよ。こは之れ彼れの秘密にして、彼れ、是を保てるなり。彼れの天使等謂へらく―吾等堪えざる可からず。吾等の内の或者は反抗したるありと雖、何れも共に其甲斐なしと。然りと雖、此言討驗を値せり。何となれば、善良なるもの無きにしも非ざるべく、精神中には智慧ありて、能く正に導くこと、宛も汝等若かき人間が、未明の空を仰ぐや否や、朝を迎へて見守れる、燦たる星を認むる如きものあれば。  アダ こは美麗なる星よ、げに。妾は其美を愛するなり。  ルシファー 又た何故に崇拜せざる。  アダ 父は唯だ、目以つて視る可からざる者をのみ崇拜せり。  ルシファー 然りと雖、視る可からざるものゝ記標《しるし》は、視らるべき物の中、最も美麗のものにして、かなたの空に、光りかゞやく星こそは、げにこれ天の萬軍の嚮導なれ。  アダ 父は、自己及び母を造りし神其ものを見たりと言へり。  ルシファー 汝は神を視たるあるか。  アダ 然り―神の事業《みわざ》に於て。  ルシファー 然りと雖、神其者は?  アダ 否、たゞ神の肖像たる妾の父、或は汝に似たる神の天使の身に於てこれを見しのみ。其等の天使は、汝よりは輝けども、其美と力は、汝に劣れる如くに觀ゆ。彼等はいとも靜けき、うらゝかなる晝の如く、照かゞやきて我等を見れども、汝は九重の上なる夜の如く、長くたなびく白雲は、天の濃紫《こむらさき》を條《すぢ》付け色どり、數も知れざる數多の星は、燦爛として、驚くべき、不思議なる穹蒼《みそら》を飾るに、數多の太陽なるかの如き物を以つてし、眞に美にして、其數計り知るべからず、且懷かしく、たとひ眼|眩《くらま》す[#(*1)]ことなきも、而も吾等を其方《そなた》に引き寄せ、妾の目には、涙を湛えしむるなり。汝の爲せるも亦其如し。汝は不幸の面《おも》もちあり。吾等をも、亦其如く爲すことあらざれ。妾は汝の爲めに泣きぬべし。  ルシファー あゝ其涙。涙の太洋は濺がるべきを汝は知るか。  アダ 妾に由つてか。  ルシファー 凡てに由つて。  アダ 如何なる凡てぞ。  ルシファー 幾千萬―幾億萬―人間充ち滿つ地球―人間住まざる地球―充ち滿ちて溢るゝ地獄等―皆なこれ、汝の胸の乳こそは、全く其れが萠芽《めば江》なれ。  アダ あゝカイン、此精靈は吾等を咀へり。  カイン 彼れの言ふ所を言はしめよ。我れは彼れに隨ひ行くなり。  アダ 何處まで。  ルシファー 一と時經なば、歸り得る其の塲所まで。たとひ時は短きとも、其間には、數日の事物を見るを得ん。  アダ 其事如何でこれを得ん。  ルシファー 汝の造物主は數日の内に、舊世界より、此新世界を造りしならずや。此事業に助力せし我れ、彼れが數日の内に造り、或は短き時日に壞《やぶ》りしものを、如何で一時の間に示めし得ざらん。  カイン いざ、導き行け。  アダ 一と時經なば、歸り來るとは其は眞か。  ルシファー 然り彼れ歸るべし。吾等に在つては、凡ての行爲は、時間に關係爲さゞるなり。吾等は、永遠を一時の内に攝收し、一時間を、永遠に擴張するを得。吾等は、人間の爲すが如き、計算及び度量に由つて生けるに非ず。されどこれ神秘なり。カインよ、我と共にいざ來れ。  アダ 彼れは歸るならんか。  ルシファー 然り女よ。人間中、彼れたゞ一人は、其の所より汝の許に歸り來《こ》ん。(これたゞ一人を除くの外、歸り得るは始めたり終たり)。歸り來りて、いとも寂しき、望みて待てる此世界を、今我が行かん世界の如く、人口多く爲すなるべし。今此世界は、人口實に稀薄なり。  アダ 汝の住所は何處ぞや。  ルシファー 全空間至る所。我れ何處に住めりとか。乃ち汝の神、又た神々の居る所、其所に我れも存在せり。萬物我れと共に兩分せらる。生も死も―時間も─永遠も─天も地も―天にも非ず、地にも非ずと雖、前に一度び人の住ひし所も、又たは此後に住はん所も、何れも共に―是等は我れの領域なり。此くて我れは彼れの領域を二分して、彼れの版圖に非ざる王國を領有せり。若し夫れ我れは、言ひし如きものに非ずば、如何で我れ、こゝに立つを得可けんや。彼れ〔他の神〕の天使は、汝の見得る範圍にあり。  アダ 其れと同じく、前《さき》に美しきかの蛇が、我母と談話なしたる其時に、彼等天使も、亦其の處に在りたりき。  ルシファー カイン、汝は既に聽きたるべし。汝若し知識を望まば、我れ其渇を癒やすべし。我れに在つては、かの勝利者〔神〕が、汝に殘しゝ唯一つの其善〔生命〕を、奪ひ去るべき樹の實〔智慧の樹〕をば、食ふを汝に要めもせじ。我に隨ひ來れ。  カイン 精靈よ、我れ既に其を言へり。 [#地付き]〔ルシファー及びカイン退塲  アダ (叫[#「口+斗」、呌]びつゝ後追ひ行き)カイン、兄上、カイン。 [#改ページ]  第二段   第一塲―無間虚空  カイン 我れ空氣を踏みて沈まず、されど尚ほ沈まんことを恐る。  ルシファー 我を信ぜよ、汝は大空高く掲げらるべし。此大空はこれ我が王たる所。  カイン 不信神なくんば、吾れ其如きを得るか。  ルシファー 『信ぜよ―然らば沈まず、疑へ―然らば死せん』とは、他の神の宣告なり。彼れ其天使に向つて、我を稱して惡魔と呼び、天使等は又た、其音響を憫れむべき者等に反響す。此憫れむべき者等は、たゞ其淺薄なる知力以上、何等の知れる所あるなく、たゞ其耳に響く言語を崇拜し、自ら品位を失墜し、布達されしまゝに善と稱し、惡と謂ふなり。吾等に在つては、此くの如きことあるなく、崇拜するも崇拜せざるも、汝の小き世界以外に、種々の世界を汝見るべく、又たは汝の小き生命《いのち》の其以外を、假令汝は疑ふとも、これに對して、我が宣告の苛責を以つて、汝を罰することもなし。後の世に人ありて、數滴の水面に溺れんとする時、人ありて、彼れに向つて『我れを信じて水面を歩め』と言ひ、其人波上を歩みて、安全なるを得る時も來らん。されども我れは、汝を救はん爲めの條件付きの信仰個條として、「我を信ぜよ」と言ふことなけん。たゞ我と同じき速力もて、空間廣大の深淵を、我と共に飛び來れ、汝に示めすに、否み得ざる―過去、現在、及び未來世界の歴史を以つてせん。  カイン あゝ、汝は神たれ、惡魔たれ、はた又た何物たりとも可なり。彼處なるは我等の地球なるか。  ルシファー 其は汝に父の身を成せる、塵なることを、汝は認むる能はざるか。  カイン 眞に然るか、彼處の青き小き圓形は、遙かの天空に釣り下り、尚ほも小き圓形は、其近くに在つて存し、宛もこれ、吾地球の夜に輝くものゝ如き〔これ果して眞に我等の地球なるか〕。是れ吾樂園なるか。何處に其壁あり、又た其護衞者ある。  ルシファー 我に樂園の所在を指さし示めせ。  カイン 如何で吾れこれを爲し得ん。吾等日光の如く進み來り、彼處の形は次第々々に小くなれり。其愈々小くなり、益々小くなるに從ひ、周圍に光彩を集むること、宛も樂園の外より眺めし時、衆星中の、最も圓きものゝ輝く光の如きかな。意ふに地球も是等の星も、其遠ざかるに從がひて、共に吾等の周圍なる、數多の星となるが如し。吾等進むに從つて、其數いや増し加はれり。  ルシファー 汝の趣味なき其地球は、生命ある分子を増殖し、其等は皆な、假令生命を有するも、亦盡く死すべきものと運命定まり、且つ憫れむべきものなるも―今汝是れに優りて大なる世界あり、大なる者之れに住し、又其數を以つてするも、汝の地球に優れるものありとせば、汝果して何とか思ふ。  カイン 我れは、此くの如き事物を知れる、吾思想を誇らんかな。  ルシファー されど若し、其高尚なる思想にして、下等なる物質の塊團に結着し、此くの如きの知識、此くの如きの高尚なる熱望、又た尚ほ、是等を超越せる知識は、最も粗雜卑陋にして、全く不淨、且つ厭ふべき欲望に束縛せられ―汝が最上の快樂は、品性の甘き墮落たり―最も懦弱卑猥の欲情は、汝を欺き、精神及び身体の、新元氣を得るに因循せしめ、全く脆く弱く前定せられ、此くて幸福なるもの眞に少き……〔時は如何ん〕  カイン 精靈よ、我れ死の恐ろしきものたる外、何事も知れるなし。これ父母に聽きし所にして、醜惡なる遺産として生命《いのち》に劣らず、父母に得たるものたるなり。此遺産や、我が今に至るまでにて判斷すれば、餘りに有りがたからぬものたるなり。されど精靈、若し汝の言へる如しとせば(吾れ内心其眞理の豫言の如き苛責を感じ)我れ死せん―多年苦しみて然る後、死すべき者を生むことは、意ふにこれ唯だ死を傳播し、殺人を増加するに外ならざれば。  ルシファー 汝全くは死する能はず―こゝに一個生き殘らざる可からざる物あるなり。  カイン 他の神は、樂園より、我が父を閉ぢ出だしゝ時、父の額に死を書き現はしゝとは云へど、これを父に教へざりき。然りと雖、我れの死すべき部分はこれを死せしめ、天使の如く我れは靜かに、休まんことこそ願はしけれ。  ルシファー 我は天使の如きなり。我の如く、汝あらんと欲するか。  カイン 我れ、汝の何者たるを知らずと雖、有力なるは之れを見たり。若し夫れ我れの欲望する所、思念《おも》ふ所を以つてすれば、尚ほ劣れるありと雖、能く我が力を超越し、又た我が生れながらに有せる所の、凡ての官能を超越せる、諸物を我に示めしゝは、我れは之れを知る者なり。  ルシファー かの尊大なる意氣を有し、而も卑しく存すること、宛も土中に、小虫と共に寓居するが如きの彼等〔人間〕、果して何者ぞ。  カイン 能く傲然として精靈の内に在り、又た能く自然と不死とに屬し得るも―而も尚ほ悲哀の相ある汝果して何者ぞ。  ルシファー 我れ、我が然かある如く觀ゆる者なり。故に我れ汝に問はん、汝果して不死たることを欲するか。  カイン これ汝の言へる所、我が欲すると欲せざるとに關はらず、不死たらざるを得ざるなり。我れ今に至るまで、此事を知らざりしが、愈々其然らざるを得ざるに於ては、幸たれ或は不幸たれ、不死の豫想を我に教へよ。  ルシファー 我が未だ汝に來らざる其前に、汝既にこれを爲せり。  カイン 如何にして。  ルシファー 苦悶すること即ち是れなり。  カイン 然らば苦悶は、不死たらざるを得ざるものか。  ルシファー 吾等及び汝の子等は其を試みん。されども今や彼方を見よ。實に光燿華麗にあらざるか。  カイン あゝ汝美麗にして想像し得ざる天の雰[#「雰」は底本では「零」]圍氣、又た汝愈々數増し、尚ほも數増す光明よ、汝果して何者ぞ。かの無終の蒼々たる大氣の洪荒は、果して如何なるものなるぞ。汝之れに沿ひて回轉すること、エデンの園の清き流れに、浮べる木の葉の如きなり。汝の道は、汝の爲めに、定められあるものなるか、はた又た汝の面白さに、廣漠無限の大氣の宇宙を進行爲せるものなるか。我れ其無限の遠大を思ひて之れに醉ひ、我精神は痛みを感ぜり。あゝ汝は神たれ、神々たれ、はた又た何者たりとも可なり、何ぞ汝の美麗なる、こはこれ汝の事業たれ、偶然たれ、或は何事たりとも可なり、何ぞ夫れ美麗なる。我れ原子の死するが如く、死せんことを願ふなり(若し原子死するものならんには)。若し夫れ然らざらんには、汝の力と知識とに、直《たゞ》に體達せんを希ふなり。塵の我身は、素より價値《あたひ》あらざれども、今此時の我思想は、我視し所に就いて、決して價値なきに非ず。精靈、願くは、我れをして死せしめよ、然らざれば、一層是等に近づきて、吾れをして見るを得しめよ。  ルシファー 汝大に、近づきしには非ざるか。汝の地球を顧みよ。  カイン 我が地球は何處にありや。我れたゞ無數の光の外、何物をも見ざるなり。  ルシファー 彼方を見よ。  カイン 我れ、夫れを見るを得ず。  ルシファー 尚ほ輝けり。  カイン 彼れなるか―彼處のなるか。  ルシファー 然り。  カイン 汝はそれを然りと言ふか。何ぞや。夕の色のたそがるゝ時、蔭《かげ》ほの暗き森の中、緑も深き堤のあたり、點々として飛び交《か》ふ螢、光れる小虫を見たりしが、是等は却つて、是等のものを戴するなる、彼處の世界にいやまさり、其光輝あざやかなり。  ルシファー 汝は此くて小虫と世界と、何れも同じく輝きつ、又た其光るを見たりしが、是等に就いて、汝果して如何にか思ふ。  カイン 是等何れも、其各々の範圍に於ては、皆盡く美麗にして、夜《よる》は是等を美ならしむ。意ふに、光りて飛ぶなる小き螢も、大運行の不死なる星も、何れも皆、導かるゝものなるべし。  ルシファー されども誰れに、又た或は何物に。  カイン 我に示めせ。  ルシファー 汝果して、能く其を見るを敢てするか。  カイン 焉んぞ我れ、敢て見得るか否かを知らん。然りと雖汝は未だ、我が尚ほ進みて見ることを、敢て得せざる何物をも、我に示めせしことあるなし。  ルシファー さらば、我と共に進み來れ。汝は死すべきもの、死せざるもの、何れを見んと欲するぞ。  カイン 何ぞや。其等は如何なるものぞ。  ルシファー 幾分か兩者なり、されども汝の心の次に、其座を占むるは何物ぞ。  カイン 余の見る事物。  ルシファー 然りと雖最も近くに、其座を占めて居りしは何ぞや。  カイン 余の未だ見ざりしもの、又た見ること無かるべきもの―死の秘密即ちこれなり。  ルシファー 若し我れ汝に示めさんに、死したるものを以つてすること、猶ほ數多の不死のものを、示めせし如く爲さば如何ん。  カイン 願くば其如く。  ルシファー さらば吾等の、強き翼に乗りて進まん。  カイン あゝ吾等、遠く穹蒼を押し別け來りしは如何にぞや。星の光は次第に吾等に遠ざかりて、影うすれ行きぬ。あゝ地球、我地球は何處ぞや。我れ其を見んを欲するなり。我身は其れより成れる物故。  ルシファー 地球は今や、汝の見ること能はざるものとなり、宇宙に於て小なること、地球に於ける汝よりも小となれり。されど汝は、地球より遁れ得べき者なりとは思ふ可からず。汝は直に地球に歸へり、凡て又た其塵に歸へるべし―是れ汝及び我の永生の一部なり。  カイン 汝は何處に我等を導き行かんとするぞ。  ルシファー 汝よりも以前に在りし者の處に―是れ世界の幻像にして―即ち是れが破壞より、汝の今の世界は成りしなり。  カイン 何ぞや。然らば〔我が〕此世界は、新《あらた》のものに非ざるか。  ルシファー 生命よりも新にあらず―汝よりも、我よりも、又たは兩者何れよりも大なる如く觀ゆる物等よりも、以前に有りき―數多の物は無終なるべし。又た或者は、無始なりきと言はんとするものありと雖、汝の如く、賤しき始を有せるあり。又た、力強き物も死し絶えて、我等の想像以外なる、下等の物等に、其途を開きたり。これたゞ「現瞬時」と「空間」とのみ、不變たり、又た不變たらざる可からざればぞ。されども變化なるものは、泥[#「土へん+尼」、坭]土《つち》たるものゝ以外には、死をば與へ得ざるなり。然りと雖汝は泥[#「土へん+尼」、坭]土《つち》の身―其了解し得る所は、唯だ泥[#「土へん+尼」、坭]土《つち》たりし物をのみにて、此くの如きを汝見るべし。  カイン 泥[#「土へん+尼」、坭]土なりとか。精靈よ、たゞ汝の欲する所、吾れ之れを見るを得ん。  ルシファー 然らば進め。  カイン 然りと雖、光はいと速にうすれ行き、遂に其或物は、近づくまゝに次第に大に、又た世界の趣を具へ來れり。  ルシファー 然り、是等は世界なり。  カイン 是等にも亦エデンは有るか。  ルシファー 或は有らん。  カイン 人も亦。  ルシファー 然り、或は一層高き者もあらん。  カイン 果して然らば蛇も亦。  ルシファー 人には蛇なきことを汝望むか。唯だ、直立せる者のみて、爬虫の類《たぐひ》は、一切存すべからざるか。  カイン あゝ、光は大に後《あと》になれるかな。吾等何處に飛び行くぞも。  ルシファー 幻影《まぼろし》の世界に至らん。こは是れ過去の存在者と、又た未來の影となり。  カイン 然りと雖暗さは愈まし暗くなり行き、星の光も有らずなれり。  ルシファー されど汝は見るを得ん。  カイン あゝ恐らしき光なるかな。太陽もなく月もなく、又たはきらめく無數の光もあるなし。青紫の夜は微《ほの》かに明けて、いと物すごき曉《あかつき》とはなれど、我れ尚ほ暗澹[#「黯のへん+甚」、第4水準2-94-61、黮]たる巨塊を見る。然りと雖、吾等が前《さき》に近づきし、世界の如き趣は、聊かだにもこゝに有るなし。前きに吾等の見たりける、かの諸《もろ/\》の世界等は、凡て光に纒はれ居て、光の雰[#「雰」は底本では「零」]圍氣散り開き、深谷大山、不同の形を示めす時にも、尚ほ生々の氣に滿ちて、其或者は閃く火光を發射するあり、其或ものは實《げ》に廣大なる流動体の平原を顯はすあり、又た或ものは光の帶を環らしつ、いと美しく、其等と同じく地球の觀ある、浮べる月をまとふと雖―今こゝに見る此世界は、全くこれを異にして、此處は全く闇黒《やみ》にして、物恐ろしき世なるかな。  ルシファー されど尚ほ、明かに見るを得るなり。汝は死と、死したる者とを、見んことを求むるか。  カイン 吾れ之れを求めず。されど此處には、其如きの物ありて、我父の犯しゝ罪は、父も我も、其他遺傳を受けし者皆を、此く爲すべきを知るに於ては、他日是非とも、見ずて叶はぬ其物を、我れ今直ちに、見ることを欲するなり。  ルシファー 〔さらば〕見よ。  カイン これ闇黒なり。  ルシファー 永久に然るべし。されども我等其門を開かん。  カイン 恐ろしき雲は、渦を卷きて開きたり―これ何物ぞや。  ルシファー 入るべし。  カイン 我は再び歸るを得るか。  ルシファー 確かに歸ることを得ん。若し夫れ然らざらんには、如何で「死」は、其住人を増すを得ん。現在の死の世界は、汝と汝の子孫に由りて、稠密たるべき將來に比ぶる時は、人口實に稀薄なり。  カイン 雲は益々廣く開き、輾轉しつゝ輪を爲せり。  ルシファー 進め。  カイン 汝も亦。  ルシファー 恐るゝ勿れ―我と共に非るよりは、汝の世界を超越して、決して行くこと得ざりしなり。進め。 [#地付き]〔彼等雲に入りて見えずなれり。   第二塲―陰府 [#ここから5字下げ] ルシファー及びカイン登塲 [#ここで字下げ終わり]  カイン 是等|闇《やみ》なる世界、あゝ闃として靜かに、夫れ廣大なるかな。是等は一たるよりも、多きが如く、且つかの數滋く上天にかゝりて、光輝燦たる巨大なる數多の、天体よりも、住者多く存する如し。我れ始め、かの天上の星辰は、住むべきものと考ふるよりも、寧ろ一種天界の、全く想像すべからざる、光輝を放つ民衆なりと思ひしが、接近するに從つて、我れ其觸知すべき物質の、無量大のものにして、塊然として隆起して、生物其ものたるよりも、生物の住むべきものとなれるを見る。夫れに反して今此世界は、全く暗き影にして、黄昏の色充ち滿ちて、日の暮れたるを示めすなり。  ルシファー これ死の國なり―汝これに至らんことを欲するか。  カイン 我れ其眞に存在せるを知るまでは、答ふることを得ざるなり。されど若し是れ、父の爲したる長き談議に、聽きし如きものとせば、あゝ我が敢て、考ふることを欲せざる所のものなり。抑もかの、死に終るべき生命《いのち》をば、創めし者は咀はるべし。又たかの生命《いのち》の鈍き塊團は、即ち是れよく生命《いのち》を保持する能はずして、遂には又た身を、沒收さるゝに止まらず―罪もあらざる小兒をすらも、しか爲す生命《いのち》を創めし者は咀はるべし。  ルシファー 汝は父を咀へるか。  カイン 父が生命を與へしは、これ先づ已に、我を咀ひしにはあらざるか。我が生るゝの其前に、我父敢て禁制の、樹の實を摘み取りたりしことは、これ先づ我を咀ひしにはあらざるか。  ルシファー 汝は善くも言へるかな。咀は父と汝の間、互に然るものたるなり―然りと雖汝の子等と、兄弟等の間は如何ん。  カイン 彼等も亦、父たり兄弟たる我と共に、其咀を分つべし。其他父の遺産として、何物か我に與へられたる。我れ是等を遺産として、子孫に遺こさん。汝或は十分に現はされ、或は又た明かならざるも、而も凡て堂々として、且つ憂鬱なる浮べる所の多くの陰影、恐ろしき形状の數々の、際《は》てしもあらぬ陰鬱なる國―汝、果して何者ぞ。汝生けるか、はた又た嘗て生命のありしものなるか。  ルシファー 幾分か兩者なり。  カイン 然らば死とは如何なるものぞ。  ルシファー 如何に。汝を造りし彼れ、汝に告ぐるに、死は他の生活なるを以つてすることなかりしか。  カイン 今に至るまで、人は凡て死すべきものなるを言ひしの外、彼れ他に、何事をも言はざりき。  ルシファー 蓋、彼れ、他日、一層進みし秘密を、汝に示めすことあらん。  カイン さば、其日は幸福なるかな。  ルシファー 然り幸福なるかな―言ひ難きの苦悶を經由し、永久の苦悶に制縛せられ、未だ生れ出でざる所の、千万無量の無意識の、極微分子に示めさるゝ時は幸福なるかな。万人たゞこれが爲めに生かされ居るなり。  カイン 今汝が周圍に浮べる所の、堂々たる其等の幻影《まぼろし》は何者ぞや。彼等は我れが遺憾となし、而も入ること得ざるエデンの四邊に見たるが如き、睿智の容貌これ有るなく―アダム、アベル、我れ、及び我妻たる妹、或は又た我子等に見るが如きの形状にてもあらざるなり。されども、假令、人間或は天使の容貌これなしとも、若し天使の容貌に非ずとするも、人間よりは丈高く、尊大にして、氣高《けだか》く、且つ美にして、力に充滿せりと雖、而も説明し難き形状《かたち》のものにして、吾れは、未だ此くの如きものを見しことなし。凡て是等の幻影は、天使の羽根も、人間の容貌も、強力なる獸類の形体も、又たは現在生き居る者の形状《かたち》も、一つだにあることなし。されども其堂々たり尚ほ又た美なるは、現在生ける者の中、最も堂々たり、又た最も美なるものと謂ふべきなり。然るに是等に似もやらねば、我れは殆ど彼等を以つて、生けるものと呼ぶことを得爲さぬなり。  ルシファー されども彼等は生きにしものなり。  カイン 何處にて。  ルシファー 汝の生活爲せし處にて。  カイン 何れの時に。  ルシファー 汝が地球と稱するものに、彼等は住居し居たりしなり。  カイン アダムは地球第一の住人なり。  ルシファー 第一とは、汝のやからの第一なるは、我れ之れを容《ゆ》るすと雖、後者〔前世界の人間〕の最終たらんには、又た餘りに劣等に過ぐるなり。  カイン 然らば彼等は何者ぞ。  ルシファー 汝の然あるべき所の者なり。  カイン されど彼等は、前には如何なる者なりしぞ。  ルシファー 生命あり、高尚、睿智、善良、偉大、且つ光輝ある清輕のものにして、凡て汝の父なるアダムが、エデンに於ける時よりも、大に優れる者なりき。宛も之れ、今後の第六萬世を以つて、汝及び汝の子に比ぶる時は、全く之れ光彩なき、陰鬱なる墮落たるが如きなり。其汝のやからの弱きことは、汝自己の、肉体にても之れを知れ。  カイン あゝ。彼等〔前世界の住人〕は滅びしか。  ルシファー 然り、彼等が彼等の地球上より消滅せしは、汝が汝の地球より、消滅せんが如きなり。  カイン 然りと雖吾地球は、前に彼等のものなりしか。  ルシファー 然り。  カイン されども今の如きに非ず。地球は彼等の如き生物を維持せん事は、餘りに小且つ下等なり。  ルシファー 眞に然り、此地球は前には一層光榮ありき。  カイン 然るに此地球の墮落したるは何故ぞ。  ルシファー かの是れを打倒したる者〔神〕に問へ。  カイン 如何にして打倒されしぞ。  ルシファー 乃ち宇宙五行の突激壓韲の大破壞と、禦ぐべからざる大擾亂とを以つて、世界を打撃して混沌に歸へしたること、混沌鎭靜して又た世界を鎔出したるが如きなり。此くの如きの事變は時の中には稀なれども、永遠中には數々之れ有り―尚ほ進みて、過去を觀よ。  カイン あゝ之れ恐るべきかな。  ルシファー 眞に然り。是等の幻影を見よ。彼等は前には汝の如く物質たりき。  カイン 我れも亦彼等の如く、ならで叶はぬことなるか。  ルシファー かの汝を造りし者に、其事を答へしめよ。我れは汝に示めすに、汝以前に、此地球に住せし者の、果して如何なる者なるか、又た彼等を以つて汝等に比ぶる時は、汝等感情微少にして、高き知性の不朽の部分も、又た肉體上の勢力も、甚だ少きことを以つてせん。彼等の有したりしと同じきものは生命《いのち》にして、又た有せざるを得ざるものは死たるなり。其の他の汝の屬性は、大宇宙の破壞して、僅かに遊星の形となりしものゝ、沈澱したる粘土より、發生なせる爬虫類に、相應したるものたるなり。此遊星はこれぞこれ、盲目の喜悦を事とせる者等の住する所にして―其無知の樂園には、智慧は毒物として禁遏せらる。されども觀よ、是等の高き生物の、果して如何なるものなるか、又た如何なるものなりしかを。汝若し之れを厭はゞ、汝は直に是より歸りて、土地を耕えし勞働せよ。我れ安全に汝を大空に浮き揚がらせん。  カイン 否我れこゝに留まらん。  ルシファー[#「ルシファー」は底本では「ルシフー」] 何れの時まで。  カイン 永久に。そは我れは、早晩再び地球より、此處に來らで叶はねば、寧ろ此處に、留まることを願ふなり。我れは凡て、塵《ちり》なるものが示しゝ所を厭へるなり。願くは陰影《かげ》の世界に住ましめよ。  ルシファー 其は能はず。汝は今ま、實なるものを、幻像として之れを見しのみ。汝若し此の住處に適するものとならんとせば、今しも汝が見たる如く、諸物が通過したる所を、通過せざるを得ざるなり―死の門即ち之れなるたり。  カイン 今ま我が入りしは果して如何なる門なりしぞ。  ルシファー 我が門なりき。されども、歸らんことを、汝に約束したるを以つて、我れの靈は、汝を浮び揚らせて、汝一人を除くの外は、呼吸あらざる、世界の空氣に浴せしめん。注視せよ。然りと雖汝の時の來るまでは、此處に住まんと思ふべからず。  カイン 是等も亦其門を通過したるものなるか―彼等其門をくゞり返へし、及び地球に歸ることを得爲さぬか。  ルシファー 彼等の地球は永久に亡びたり―其收縮起伏の變化の爲めに、彼等は、新に漸く凝固したる、地球の表に、現在の一點の塲所をだに、決して知ることなかるべし―以前の世界は、あゝ實に美なりけり。  カイン 現在の世界も尚ほ美なり。我れたとひ耕えすことを要するとも、我が爭ひを感ずるは、土地に對して然るものには非ずして、たゞかの、働くことなくして、美麗なる實を結ぶとも、其れに由つて、何等益する所なく、むらがり起る數千の思想は、知識を以つて滿足せしむることもなく、又たは死生に關する數千の恐懼を、解くこと得ざるものに對して然るなり。  ルシファー 汝の世界の如何なるやは、汝已に之れを知れり。されども、過去の幻影は、汝未だ了解し得ざるなり。  カイン かの巨大なる動物の幻像《まぼろし》―其智性は吾等が今ましも見來りし者に劣り―少なくとも劣れる如く―地球の鬱蒼たる樹木の中に生活し、夜な/\森林中に咆哮せる獸類の、最大なるものに酷似し、而も其巨大なると、其恐ろしさとは、是等にも十倍し、丈《たけ》は天使の警衞せる、エデンの壁よりもいや高く、目は天使等が、其壁を警護せんとて、振りかざせる、炎《ほのほ》の劍の如くにて、爛々として輝やきつ、牙《きば》は樹木を皮剥ぎて、技打ち拂ひしものゝ如く、突き出で居るなり―是等果して何物ぞや。  ルシファー 之れ汝の世界のマンモスなる巨象なり―されども是等の數萬は、皆地球の表面以下に在るものなり。  カイン 表面上には一も有ることあらざるか。  ルシファー あることなし。これ若し汝のか弱き種族等が、彼等と戰爭するときは、其れを咀ふも何等益なく、汝の種族は餘りに早く絶滅せらるべければなり。  カイン 然りと雖も、何故我等、戰爭爲ざる可からざる。  ルシファー 汝の種族を、エデンの園より放逐爲せし宣告は、汝之れを忘れしか。其宣告に曰ひけらく、―萬物と戰ひ、萬物に死あり、多くの者に疾病あり、苦痛と不幸と又たありと。實に之れ禁制の樹の生ぜし結果なりとす。  カイン 然りと雖、動物も、亦其樹の實を食して、死すことゝなりたるか。  ルシファー 汝の造物者は、言ひけらく、是等凡ての動物は汝等の爲めに造られたること、猶ほ汝等は彼れ〔神〕の爲めに造られたるが如きなりと。汝等、彼等動物を、己に優れる者たらしむるを、決して許ることなからん。若しアダムにして、墮落せざりしならんには、萬物皆な其所を得て立ちしなり。  カイン あゝ彼等は、希望なき憐れむべき者なるかな。彼等〔動物〕も亦、アダムの子等の如く、林檎の樹の實を食ふことなく、又た此くも高價に買ひし知識をも、決して之れを獲ることなく、同じく共に我父の、不運を分つを要するか。かの樹は虚欺の樹―我等何物をも知らざれば。少なくとも死の價もて、此樹は知識を約束したるなり―然りと雖、尚ほ之れ知識。―されども、人は果して何をか知れる。  ルシファー こは之れ至高の知識に導く所の、死なるべきかも。且つ是れ萬物中の、最も確實唯一のものにして、又た少くとも、最も確實なる、知識に導くものとせば、たとひ此樹は恐るべき、致死のものにてありと云へ、尚ほ之れ眞實の樹たるなり。  カイン あゝ、是等朦朧たる世界―我れ之れを見ると雖、我れ之れを知らざるなり。  ルシファー 之れ、汝の時の尚ほ遙かにて、又た物質なるものは、靈なるものを十分に、了解するを得ざるに由るなり。然りと雖此くの如きの、世界あるを知り得しは、全く無益に非ざるべし。  カイン 死なるものあることは、吾等既に知り居たり。  ルシファー 然りと雖も死の彼方《かなた》に、何物あるかは未だ之れを知らざりき。  カイン 今と雖我れ知らず。  ルシファー 汝は其處には一の存在の状態あり、又た汝の存在の状態以外に、多くの状態あるを知り得たり―之れ今朝までは、未だ汝の知らざる所。  カイン されども凡て、皆な之れ朦朧として、且つ影の如きなり。  ルシファー 是れを以つて滿足せよ。汝の不死の部分には、やがていや明かに見らるべし。   カイン 遙か彼方に浮べる所の、光輝ありて蒼々たる[#「たる」は底本では「るた」]、宏大無邊の流動体の空間は、其状宛も水の如し。意ふに是れ源を樂園に發して、我れの住居《すまゐ》の近くを經て、流れ來れる河なるか。されども此河堤もあらず、岸もなく、薄き氣体の色を爲せり―此れ果して何ものぞ。  ルシファー 其大さは之れに劣るも、汝が地球にも、亦此れに似たるものありて、汝の子等は其れの近くに住ふべし―是は大洋の幻像《まぼろし》なり。  カイン 之れ實に他の世界の如く、宛然液体なせる太陽なるかな―又た非常に大なる動物は、其燦々たる表面に戲れ遊べり―是れ果して何物ぞ。  ルシファー 是等動物は其住者にして―過去のレヴィ[#「ヴィ」は底本では「ヰ゛」]ヤタンの鯨なり。  カイン 又た彼處に、驚べき大蛇の、無間の深さより、矯々たる松の樹よりも十倍も高く、潮《うしほ》の滴る鬣《たてがみ》振ひ、巨大なる頭を擧げ、以つて、吾等が今ま觀し所の諸世界を、取り繞き得んとの慨ある如し―是れ亦エデンの樹蔭に、踞まり居し種類のものには非ざるか。  ルシファー 汝の母エバは、如何なる形の蛇に惑はされしかを熟知せん。  カイン 今此大蛇は、餘りに猛烈《はげ》しき如しと雖、エデンの蛇には美ありしことは疑ひなし。  ルシファー 未だ汝は其蛇を、見たりしことはあらざるか。  カイン 同種類、(少なくともしか稱さるゝ)多數のものは、我れ之れを見たりと雖、正しく不運の原因なる、果實《このみ》を取るを口説きし者、或は同じ形の其蛇は未だ之れを見ざるなり。  ルシファー 汝の父は、又た其蛇を見ざりしか。  カイン 否な。父を誘惑《まどわ》したるは母にして、―蛇に誘惑《まどわ》されたるは母たるなり。  ルシファー 好人物よ。若し聊か、新奇の物に關はりて、汝の妻或は汝の子等の其妻が、汝及び汝の子等を、誘惑するに當つてや、汝必ず、先づ何者が、汝の妻等を惑はしたるかを見定めよ。  カイン 汝の格言既に晩し。今や蛇が女を誘惑せんが爲めの料は有らざれば。  ルシファー されども尚ほ、女が男を誘惑し、男が女を誘惑するを得る物は、決して今も少なからず―其を汝の子等に注意せしめよ。我忠告は親切なるものたるなり。我れは專ら、自己の損耗を省みずして之れを爲せり。我が言ふ所、或は履行されざるべし。之れが爲めに聊か損あり。  カイン 我れ此言を了解せず。  ルシファー 汝は實に幸福なるかな―汝の世界も亦汝も、共に何れも餘りに若かし。汝は自ら最も不良、且つ不幸の者と思へるなり―然らずや。  カイン 犯罪に對しては、我れは之れを知らずと雖、苦痛に就いては、我れは多くを感ずるなり。  ルシファー 第一の人間の第一に生れし子よ。汝の罪及び[#「び」は底本では「ひ」]汝の惡なる[#(*1)]こと、汝の悲哀及び汝の苦しむ所の、現在の状態も―凡て其無邪氣なる、之を今後久しからずして、汝が遭遇する所に比ぶる時は、是等は實にエデンなり。又た今後遭遇する所の状態は、假令不幸を重ぬとも、之れを汝の子孫の子孫の子孫等が、數代の間、塵の如く(たゞ積み重ぬるのみに)積み重ねて、之れに堪え、之れを爲すに比ぶる時は、之れ尚ほ樂園と云ふべきなり―我等今や地球に歸らん。  カイン さらば此く汝が我を導きて、たゞ此事を知らするのみとは、果して何の爲めなるぞ。  ルシファー 汝の要めし所は知識にては非ざりしか。  カイン 然り、幸福に至らん道として。  ルシファー 若し眞理にして然らんには、汝はそれを有せるなり。  カイン 然らば父の神が、かの不運の樹を禁ぜしは、最も善き仕方と謂ふべきなり。  ルシファー 若し植えざりしならんには、又た一層に宜しかりしに。されども惡を知らざることも、亦決して惡より救ふことはなく、又た同じく回轉し進むなり。これ萬物の一部なれば。  カイン 萬物の一部に非ず。否、我れ信せず―我れ善を渇望すればなり。  ルシファー 誰れか、又た何物か、善を欲せざる者やある。誰れか自家の苦痛の爲めにとて、惡を欲する者やある─誰もあるなく─何物もなし。げに之れ一切有生無生の醗酵素《もやし》なり、又た無生たることたるなり。  カイン 我等がこの、幻影世界に、降り來るの前に見たる、かの遙かに、眼ばゆく輝やきて、其數、かぞふべからざる、其等天体の範圍には、不幸は決して到り能はじ。彼等は實に美なるかな。  ルシファー 遙かより、汝はそれを見たるなり。  カイン 然らば何ぞや。距離はたゞ其光彩を減ずるのみ―今若し之れに近かば、是等は必ず、一層に美なるべし。  ルシファー 地球上最美のものに近づきて、以つて近きの美を判斷せよ。  カイン 我れ之れを爲せり―我が知れる所の最も愛すべきものは、最も近くの、最も愛すべきものなることを。  ルシファー さらば必ずこゝに迷あらん。かの汝の目に最も近きものにして、尚ほ、遠隔なる最美のものより美なる物とは、其は果して何物ぞや。  カイン 妹アダなり―燦々たる天上一切の星も、中夜森々として、精靈なるか、或は精靈の世界なるかの如く見ゆる所の、星辰を以つて閃めける天も、あかねさす朝《あした》の色も、豊榮登る太陽も、其形容すべからざる入日―我れ之れを眺めて、眼には樂しき涙を湛え、心は共に漂搖として、雲ゐの西の樂しき園生、森の樹蔭《こかげ》、緑の枝技《こ江だ》、鳥の鳴音と共に浮べるも、エデンの墻《かき》に日は入りて、夕暮告ぐる鳥の音の、愛を歌へる如きものゝ、ケラブの天使の歌に和せるものも―凡て是等は何かあらん。我れ地球に背向《そむ》き、天に背向き、たゞアダをこそ眺むなれ。  ルシファー 天地創造尚ほ若く、曉《あかつき》始めてあけそめつ、花の如く咲き笑みて、地上の父母の、初めて愛して相|擁《いだ》き、子女を生み得る其時は、か弱き人類に取つては、そは實に美なるべし。されども、尚ほ、そは迷ひなり。  カイン 汝は彼女の兄弟に非ざるより、其如く考ふるなり。  ルシファー 人よ、我兄弟たるものは、かの、子孫等を有せざる所のものなり。  カイン 然らば汝は、我等と共に與《とも》なる能はず。  ルシファー 或は汝自身の兄弟の交りは、之れを我に得べきなり。然りと雖若し、汝の眼中、凡ての美なる者以上の、美なる者を有すとせば、何故汝不幸なる。  カイン 我が存在爲せるは何故ぞ。汝の不幸は何故ぞ。萬物亦然るは何故ぞ。かの我等の造物主も、不幸なる物の創造者として、亦不幸ならざる可からず。破滅なるものを造ることは、必ずや、喜ばしき事業には非ざるべし。然るに、父は曰く、神は全能なりと。然らば、善なる彼れに―何故に惡ありや。我れ之れを父に問へり。父は曰く、之れ此惡なるものは、善に行くの道たるなりと。かの極端に、反對なる事物より、發生するを要する善とは、實に不思議の善なるかな。過日我れ、蛇に咬まれし子羊を見き。憐れむべき此|乳兒《ちのみご》は、苦しみつゝ地に倒れ、母なる羊は、哀れげに、たゞ徨々として驚き居たり。時に我父何草かの葉を摘み來り、其をもみて、子羊の傷に塗り付けしかば、子羊漸く生氣を復し、母の乳を飮まんとして起き上り、母は喜ばしげに、其子の回復したる四肢を甜めつゝ立ち居たり。父我に謂うて曰く、見よ我子よ、惡より善の生ずることをと。  ルシファー 其時汝は何と答へし。  カイン 何をも答えず―彼れは我父なればなり。されども我れ心に謂へらく、かの非常なる苦痛《くるしみ》を消毒物もて僅に除き、その細《さゝ》やかなる生命を、辛くも回復せしめんよりも、いや始めより、刺さるゝことなかりしこそ、其動物の、幸福たりしならんものをと。  ルシファー 然りと雖、汝の言ひし所に據れば、その愛する凡ての内、最も彼女を愛せりと―彼女は同じくこれ、汝の母の乳を吸ひ、又た其身の乳を、汝の子等に與ふる所の彼女を愛せりと。  カイン 然り、確かに然り。彼女あらずして、我はた何者たるべきぞ。  ルシファー 我は如何ん。  カイン 汝何者をも愛せざるか。  ルシファー 汝の神は何をか愛する。  カイン 我父曰く、神は萬物を愛すと。然りと雖我れは自白す。こはこれ實際萬物の得らるべき所に非ずと。  ルシファー 是れを以つて、我れ假令愛するとも、愛せざるとも、汝は之れを見ること能はず、たゞ宏大なる、總体の目的ありて、其れに對して個々の諸物は、雪の如く溶解して、流れ入るを見るのみならん。  カイン 雪とか、そは如何なるものぞ。  ルシファー こは汝の遠き後代の子孫等が、遭遇すべき物たるなり。其を知らずして、冬を知らざる温暖なる日光に浴するとは、あゝ汝は幸福なるかな。  カイン されど汝は、何物をか、自身の如く愛するなきか。  ルシファー 汝は、自身を愛するか。  カイン 然り愛す。然りと雖我感覺を、一層に、堪え得べからしむるものは、自身以上に之れを愛し、又た自身以上のものとなす、そは我れ之れを愛せばなり。  ルシファー 汝の之れる愛するは、其美なるに由れること、汝の母の林檎に於けるが如きなるべく、若し其美の消ゆる時は、汝の愛の消ゆること、猶ほ他の慾情の如けんかも。  カイン 美は消ゆることありとか。如何にして其事あるべき。  ルシファー 年月を經るにつれて。  カイン されども時は經來れり。今に至るも、アダムもエバも、尚ほ美なり。素よりアダの如く、天使の如くは、美に非ざれども、尚ほ甚だ美麗なり。  ルシファー 彼等の美も彼女の美も、凡て皆な、消褪《うつろ》はざるを得ざるなり。  カイン 我れは甚だ其を悲しむ。然りと雖之れが爲めに、アダに對する我愛の、減ずべしとは、決して考へ得ざるなり。意ふに、若しアダの美が消ゆる時は、凡ての美を造りし彼れ〔神〕が、此くの如きの美の消ゆるを見るは、我れよりも尚ほ一層の損失ならん。  ルシファー 我れはかの、遂には消えて滅ぶる物を、愛する汝を憫れむものなり。  カイン 我れ亦汝が何者をも、愛せざることを憫れむものなり。  ルシファー 汝の弟―これ汝が胸中の、最も近きものにあらずや。  カイン 何ぞ然らざらんや。  ルシファー 汝の父は最も彼れを鍾愛し、神も亦彼れを愛せり。  カイン その如く我れ亦彼れを愛するなり。  ルシファー 大に善し、又た柔和に。  カイン 然り、柔和に。  ルシファー 彼れは肉より生れし第二のものにて、其母の愛子なり。  カイン 彼れ母の愛を得るに一任せん。蛇は母の愛を得たる第一のものなりき。  ルシファー 父の愛は如何ん。  カイン そは我に於て何ぞ關せん。凡ての愛する者、我れ亦焉んぞ愛せざらんや。  ルシファー かの專横なる君主―閉塞したる樂園の、仁慈なる栽培者たるエホバも亦、アベルに笑顏《ゑがほ》を爲せるなり。  カイン 未だ甞て、我はエホバを觀しことなし。其果して笑《ゑ》めるや否やは、我れ之れを知らざるなり。  ルシファー されども汝は、彼れの天使は見たりしならん。  カイン 稀には之れを見たることあり。  ルシファー されど彼等が、汝の弟を愛することは、十分之れを見るに足る―乃ち汝の弟の供へし物は、彼れ歡びて之れを享《う》くるを以つて知るべし。  カイン 彼等然らば然るべし。何の爲めに汝これを我に語るぞ。  ルシファー 是より以前、此事汝は考へしにはあらざるか。  カイン 若し我れ其れを考へたりとも、何の爲めに此思想を我に回想せしむるぞも。(彼れ神氣昂騰して、暫く言を中止し)[#「()」は底本では「〔〕」]精靈よ。我等今は汝の世界に在る者なり、我世界の事は、之れを語るを止めよ。汝我に示すに、種々の不思議を以つてせり―我に示めすに、甞て地上に歩みたる、アダム前の堂々たる住人を以つて、又た我現在の此世界は、前世界の破壞より、成り出《で》しこと以つてせり―我れに示めすに、燦たる星辰千萬無數の世界を以つてし、我等の世界は、無限の生命の中にありて、光輝あらざる隔てし友《とも》なる[#(*1)]ことを以つてせり―汝我に示めすに、恐ろしき、「死」なる名稱を有せる所の、種々の陰影《かげ》を以つてせり。此死はこれ、我父の持來たしなる所なり―汝我れに示めすに甚だ多くの事を以つてしたりと雖、其全くは、未だ之を教へしには非ざるなり―願くば、エホバの住所を我に教へよ。彼れの特殊の樂園なるか、はた又た汝の夫れなるか、果して何處ぞ。  ルシファー 此處にも、又た全空間至る所に。  カイン されども、汝は或る領有せる住所あること、萬物の然るが如きことなきか。たとへば泥土《つち》なるものには地球あり、他の世界には各其住者あり、凡て一時地上に呼吸するもの、各皆特殊の分子あり、又た久しく息絶えし人間には、其住所あるは汝の言へる所なり。然らば、エホバも汝も亦其所あるべきなり―汝はエホバと共住せるにはあらざるか。  ルシファー 否。我等共に統治せるなり。然りと雖我住所は別に之れあり。  カイン あゝ若し汝等の中、何れか、其の一《ひとり》にてあらましものを。若し然りしならんには、庶幾くは目的の統一は、今や暴風の如き、不和亂調の觀ある諸分子は、之を和合一致せしめ得たりしものを。如何なれば汝は精靈たり、知識あり且つ無限なるにも係はらず、互に分離するに至りしぞ。汝〔とエホバと〕は其實体に於て、其性質に於て、又た其光榮に於て、共に兄弟の如きものには非ざるか。  ルシファー 汝はアベルの兄弟ならずや。  カイン 我等兄弟なり、故に相和せり。若し我等相和することなしとするも、靈たる者が、肉たる者と同じくして可ならんや。靈たる者が爭ひ得べきか。無限のものが、不死のものと不和亂離して、全空間を不幸ならしむるが如き―果して何の爲めなり。  ルシファー 統御せんが爲めなり。  カイン 汝我れに語るに、汝等兩者、共に永遠なることを以つてせしにあらざるか。  ルシファー 然り。  カイン 我が見る所を以つてすれば、かの蒼々たる天は、之れ無限のものにはあらざるか。  ルシファー 然り。  カイン 然らば汝等兩者、共に統治し得るにあらずや。無限の空間は、足れるに非らずや―何ぞ爭ふことを要せんや。  ルシファー 吾等兩者統御せんとすればなり。  カイン ざれど汝等の一《ひとり》、惡を爲せり。  ルシファー 何れぞ。  カイン 汝なり。そは汝若し人を善たらしめ能ふとせば、汝何故其を爲さゞる。  ルシファー かの、人間を造りたる、彼れは何故然らざる。我れは汝を造りし者に非ざるなり。汝は彼れ〔神〕の造りし所の者にして、我れの造りし者に非ず。  カイン 若し汝の言へるが如く、吾等は彼れに造られたる者なりせば、さば汝、彼れの造りし者たる我れは、これを見棄てゝ置き去るべし。さなくば汝の住所、或は彼れの住所を我れに示めせ。  ルシファー 我れ、兩者何れも之れを示めすを得ん。然りと雖時來らば、汝は永久兩者中の一を見るべし。  カイン 何故に今に非ざる。  ルシファー 汝《な》が人間としての心は、我が汝の、靜平明晰なる思想に教へし少部分を、僅かに拾ひて、會得せるに過ぎざるなり。尚ほ汝進みて、大神秘たる二原主義の理を求めて、其の秘密の玉座に於ける、是等を視んと欲するなるべし。塵《ちり》なる者よ、汝の欲望を制限せよ、是等二原理の、其何れかを視ることは、汝に在つては死たるなり。  カイン 是等を見得る其爲めには、我れは死をだも憚らず。  ルシファー かの、林檎を取りたる女より生れし子、殊勝にも言ひたるかな。されど汝は、たゞ死するのみにして、是等を視ることあらざるべし、其能く之れを視るを得るは、他の状態に於てするなり。  カイン 死の状態は夫れなるか。  ルシファー 之れ其前序なり。  カイン 然らば我れ死の畏れを少くせり。今我れ悟りぬ、死は何等か明確なる所に導くことを。  ルシファー 今まや我れ汝の世界に汝を送り歸へすべし。歸へりてこゝにアダムの種族を繁殖し、飮食し、勞働し、恐懼し、歡笑し、泣啼[#「さんずい+帝」、第4水準2-78-80、渧]し、睡眠し、扨て其後に死すべきなり。  カイン 汝の我に示めしゝ事物は、何の目的を以つてして、我れは之れを見しものぞ。  ルシファー 汝は知識を求めしならずや。我れ其の示めしゝ物をもて、汝に自己《おのれ》を、知るべきことを、教へたるにはあらざるか。  カイン あゝ何物をも、我れ得る所あらざりき。  ルシファー 之れ、人間の知識の總和にして、人性の空なることを悟るにあり。此知識は、之れを汝の子孫に遺せ、必ずや、多くの勞苦を省くを得んか。  カイン 尊大なる精靈よ、汝傲然として此くの如きの言を爲せり。假令汝尊大なりとも、尚ほ汝の上《かみ》なる者あるに非すや。  ルシファー 否な。彼れ〔神〕の有に屬せる天も、我が彼れと共有せる無間虚空の深淵も、無數無量の世界も生命も、凡て是等に誓て『否』と言はん。我に勝ちたるものあるは事實なり。然りと雖|上《かみ》なる者は之れ無きなり。彼れ凡ての者の讃媚を得ん、されども、たゞ我のみよりは一も之れを得ること無けん。之れに關して、我れ萬物に於いて彼れと戰ふこと、尚ほ天上に戰ひしが如し。全永遠に、陰府無間の深淵に廣大無邊の空間に、無終無限の年代に、徹頭徹尾我れは彼れと戰はん、全世界も、全星辰も、全宇宙も、此大戰爭の止むに非ざるよりは、其衡平を得んとして震動すべし。此戰爭果して止むか。否彼れと、我れと何れか消滅するに非ざるよりは、此戰爭は決して止まじ。何者か吾等不死なるものを滅ぼし得ん、何者か、互に消すこと得ざる怨恨《うらみ》を消すを得ん。彼れ勝てり、而して敗者を呼びて「惡」と謂へども、彼れの與ふる善とは果して如何ん。若し我れ勝利者たらんには、彼れの事業は却つて惡と呼ばるべきのみ。汝等、新に、生れしばかりの人間等よ、汝の小き世界に在つて、從來受けし彼れの賚《たまもの》果して如何ん。  カイン 其は甚だ輕少なるのみ。且つ其或物は甚だ苦《にが》きものなりき。  ルシファー さらば是より、我れと共に、汝の地球に立ち歸へり、汝及び汝の種族に、與へられたる、其他の彼れの恩賜なるものを吟味せん。惡と云ひ善と云ひ、其物自身の實質に、存するものにて、之れを與ふる者に由り、善となり、惡となるには非ざるなり。されど彼れ若し、汝に善を與へなば―彼れを呼びて善と謂へ。若し、惡、彼より出でにせば、其眞正の源因を、熟知する時までは、決して我を、惡なりと稱する勿れ。假令諸精靈の言なりとも、其言を楯とし判斷するなく、たゞ汝の存在上の結果として、必ず其、然らざる可からざる所に據り、其判斷を下すべし。かの一の善恩賜なるものは、死の林檎を與へたり―汝の道理は―凡て外部の感覺と、内心の感情とに逆らひ、強暴なる威迫に由りて、決して之れが信仰を強ふべからず。思考し、耐忍し―若し外界に敗るゝ時は、汝が胸中に内界を構成せよ。さらば汝は愈々、靈性に近づきつ、能く自性と戰ひて、勝利を博し得べきなり。 [#地付き]〔兩人消え去る。 [#改ページ]  第三段   第一塲―地球上、第一段と同じくエデンの近傍 [#ここから5字下げ] カイン及びアダ登塲 [#ここで字下げ終わり]  アダ 靜かに、カイン靜かに。  カイン 然り。されども何故ぞ。  アダ 小きエノクは、彼處の檜《ひ》の木《き》の下に、樹の葉の床に寢れるなり。  カイン 檜《ひ》の木《き》とか。あゝ陰鬱なる樹。さも之れ其下蔭に蔽へるものを、吊ふものゝ如きかな。如何なれば、おん身は我兒の天葢にと、かゝる樹をば擇びたる。  アダ 其枝は能く日の光を遮りて夜《よる》の如く暗くせば、眠りを蔽ふに適せる如く見ゆればなり。  カイン 然り、最後の―且つ永眠の。―されども、そは兎も角も、吾子の方に連れ到れ。 [#地付き]〔兩人小兒の眠れる所に至る。 げにも可愛き面もちかな。其等の小き兩の頬は、無垢の肉色《にくいろ》美しく、下《した》に敷きたる薔薇の葉の、色の緑とうつり合へり。  アダ 又た其唇、げに美しく開けるよ。あゝ否。おん身はエノクを接吻し玉ふな―兎に角今は。やがて目をばさますべし。此兒のま晝の眠の時も殆ど終りに近づきぬ。さあれ、目さむる時までは、ねむりを起こすはいぢらしゝ。  カイン おん身の言葉は理《ことわり》なり。其時までは我れは思ひをさしひかへん。我兒は微笑《ゑ》みつゝ眠れるよ。眠りて笑《ゑ》めよ。僅かに長《た》けし此世界の、汝、小き相續者、眠りて笑《ゑ》めよ。汝の時も汝の日も、共に樂しく凡て無邪氣のものぞかし。汝は樹の實を摘み取らず―又た裸《はだか》なるを知りもせず、されども他日、知らざる罪に、苦しめらるゝ時は來ん。其罪我れのものにも非ず、又たは汝のものにも非ず。されども今は眠れかし。其頬今や紅を帶びて、笑《ゑ》みを含み來り、輝く瞼《まぶた》は、其目を蔽ひてふり動ける檜の木の如く、黒き長き睫[#「目+建」、http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=41004590&VOL_NUM=00000&KOMA=92&ITYPE=0の23行]毛《まつげ》の上にふるへるなり。たとひ眠れるとはいへど、半ば開ける瞼の下より、澄みたる青き色は見ゆ。我兒よ、夢みよ、何をか果して夢むべき。樂園をよ。然り樂園をこそ夢みかし―相續し得ざる樂園を、あゝ我兒。こはこれ眞に夢なるのみ。そは、汝を始め汝の子等、又た其父等も凡て皆、此禁制の喜びの、塲所に決して、踏み入ることを得ざればなり。  アダ 愛するカインよ。過去を懷《しの》べるかゝる不平を、我子の上につぶやき玉ふな。如何なれば、おん身は不斷樂園の事を悔やみ玉ふぞ。我等は別に、樂しき園を造り得ざるか。  カイン 何處に。  アダ 此處たれ或は何處たれ、おん身の好み玉ふ所に。おん身の居ます其時は、此くまで惜しむエデンの園も、妾は欲しと思ふなく。こゝには、おん身も我子も我父も、我弟も妾の愛する妹チラも、又た我等を生みし其外の恩ある母も居まさずや。  カイン 然り、母の恩の其中には、死も亦我等受け得たり。  アダ カインよ、おん身を此處より連れ行きし、かの尊大なる精靈は、おん身の心を、一層悲哀となしたりけり。望を屬しておん身の見たる不思議の事物、おん身の謂へる、過去、現在の世界の幻像《まぼろし》、是等は必ず安心知足の知識もて、おん身の心を靜むべしと、妾は希望を置きたりしも、おん身の導者は、却つておん身を惡くせり。されど尚ほ、妾は彼れに感謝して、凡て彼を免るすべし。そは彼れは、此くも早く、おん身をこゝに、妾に返へしたればなり。  カイン 左まで速かなりしにや。  アダ おん身の出立したるより、未だ二時間にも足らざるなり。妾に取つては長き二時間とは云へど、これたゞ僅かの時間のみ。  カイン されども我は、かの太陽に近きて、一と度太陽之に照りしも、此後照らすことなき諸世界、未だ甞て照りしことなき諸世界等を暦覽せり。されば我れの不在中、多くの年を經たりと思はる。  アダ 僅かに數時に過ぎざるなり。  カイン 然らば、心は時間の能力ありて、其見し所の愉快なる物苦痛なるもの、小なるもの或は全能なるものに由て之れを度《はか》る。我れ無終なる存在者等の、宏大無限の事業を見、死滅の世界を疾走し、又た永遠なる物を見て其時我は謂へらく、時代の僅かに、二三滴を以つてして、一層多くを無限無量より借り得たりと。されども今や再び我が微小なるを感ずるなり。かの精靈が我を謂ひて何物にも非ずと言ひしは、實に之れ名言なるかな。  アダ 何故に彼れ、其如きの言を爲せしぞ。エホバは其事を言はざりき。  カイン 然り言ふことあらざりき。彼れ〔エホバ〕、何物にも非ざる我等を作りて滿足し、塵なる人間を瞞着するに、エデン及び不死の一閃を以つてし、再び之れを分解して塵に歸へす―之れ何の爲めなるぞ。  アダ おん身はよく之れを知り、父母の過失なりとまで言へるなり。  カイン 父母の過失、我等に於て何ぞ關せん。父母罪を犯さば、父母をして死せしめよ。  アダ おん身の言葉は穩當ならず、又た其思想はおん身のものにも非ずして、おん身と共に在りし所の、かの精靈の思想なるべし。若しそれ能くし得べくんば、父母の生存《ながら》へ得ん爲めに、妾は身代りともならまほし。  カイン 此く我が云ふの理由たるや、一の犧牲を供して以て、此生命の不滿足を滿足せしめ、薔薇の花の夫れの如く、彼處に眠れる、小き我等の嬰兒《みどりご》が、死も人生の苦痛をも、決して味ふ[#(*1)]ことなきやう、又た我子より出でし者等に、決して之れを傳へしめぬを希《ねが》へばなり。  アダ 他日或は、此くの如き罪を贖ふ者ありて、我人類の犯しゝ罪を、贖ふことなしとも限らず。  カイン 罪なき者を、罪有る者の其爲めに、犧牲に供して之れを爲すか。こは果して如何なる犧牲ぞ。吾等は全く罪なきなり。吾等の未だ、生れぬ前の行爲に對して、犧牲たらざる可からざる、如何なる行爲を、吾等果して爲したるか。若し此神秘無名の罪とは、たゞ知識を求むる罪なりせば、此くの如きの、罪を贖ふ其爲めに、犧牲は果して必要なるか。  アダ あゝ今、おん身は罪を犯したり。愛すカインよ。おん身の言葉は、妾の耳には不信神にひゞくなり。  カイン さらば、我を置き去りて彼方《かなた》に行け。  アダ 否とよ、神はたとひ、おん身を見棄つる[#(*1)]ことありとも、妾は決しておん身を棄てじ。  カイン 此處にあるは何物ぞや。  アダ これ二つの祭檀にして、おん身の不在の其中に、弟アベルが、おん身のこゝに歸るを待ちて、神に供物をさゝげんとて、造り置きしものたるなり。  カイン 彼れアベル、如何にして我れが直に、燔《や》きたる犧牲を備へ能ふと知りしたるか。彼れアベルは、日々温柔なる容貌にて、神に犧牲を捧ぐと雖、其卑しむべき謙遜は、崇拜よりも恐懼に出で、神に對して、寧ろ賄賂たるを示めせるなり。  アダ 彼れは必ず善く爲したらん。  カイン 祭檀一にて足れり、我れに供ふべき物あらず。  アダ 土地の生物《なりもの》、尚ほうら若き美しき、小枝の花に其蕾、野にさく花に果實《くだもの》など―柔和に痛める心もて、捧ぐる時は、是等は神にいと善き供物となるべきなり。  カイン 我れ既に〔神の〕咀に從つて、日に曝されて勞働し、地を耕して、汗流がせり―尚ほ此上に我れは爲さゞる可からざるか。何の爲めに我れ柔和ならざる可からざるか。我れ食物を得る爲めに、萬物と戰はざるを得ざるなり。其れが爲めに、我れは柔和なるの要あるか、我れ何の爲めに、恩謝するを要するか。我れは塵の身、再び塵に歸へるまで、塵に匍匐する故なるか。若し我れ何物にてもあらずとせば―何物にてもあらざる爲め、僞善者となりはてゝ、苦痛を樂しむ其|樣《さま》を、裝ふべきか。我れ何の爲めに悔悟せざる可からざる―父の罪に關しては、吾等凡ての、既に遭遇したる所もて、十分之れを贖ひつ、且つ吾等子孫に就いて、預言されたる後代は、贖以上の事を爲すなり。其を聊も知ることなく、花の如く眠れる我子―此内已に、永遠なる不幸の、數万の萠芽は存在せり。されば此兒の、苦しむ爲めに生きんよりも、寧ろ、眠れる内に攫み來り、岩角に打ち付けて、碎き殺すは、彼の爲めに優《ま》しならめ。  アダ あゝ子供に觸れ玉ふな―妾の子に、おん身の子に、あゝカイン。  カイン 恐るゝ要なし。我れ全星辰、及び其等を支配する全勢力に誓つて、粗暴の擧動もて、我兒に近づくことあらじ、たゞ父としての接吻をのみ。  アダ さらば何故、此く恐ろしきおん身の言葉ぞも。  カイン 我が言ひし意味たるや、我子は悲哀の數々を、堪えざる可からざる爲め―又た一層の苦患をば、子孫に遺こさん爲めに生きんよりも、寧ろ死したるこそ、宜しけれと言ひしなり。されども我れの言ひし所、おん身を恐れしめしとせば、言を換へば―我子は寧ろ、生れざりせば可《よ》かりしものをと言ふにあり。  アダ あゝ、其の如き事言ひ玉ふな。若し果して然らんには樂しみ何處にあるべきぞ。其を見守り、其を育《そだ》て、又た其を愛する樂は、何處に之れを得べきぞや。靜かにし玉へ。子供は目覺めぬ。可愛きエノクよ。 [#地付き]〔アダ子供の方に行く。 あゝ、カイン、この子を見玉へ、げに元氣に充ちて力あり。花の如くうつくしく、又た喜びに充てるなり。其のよく妾に似通ひつ―おん身の温和《やさし》き其時の、おん身に似れるは如何にぞや―げにや吾等は皆なよく似たるものなれば、カインよ、さ思ひ玉はずや。母と父と子と共に、我等の姿は、互々《たがひ/\》に映《うつ》り合ふ。さもこれ澄みたる水の靜かにして、おん身のやさしき時のその如し。さればカインよ、我等を愛し、我等の爲めに自愛し玉へ、我等はおん身を愛すればよ。視玉へ、エノクは打笑みつゝ、可愛き其手をさし伸べつ、青き眼を廣く開きて父なるおん身を視せるよ、小き其身を、喜びもて、羽根の如くに動かせり。苦痛の事を語り玉ふな。子供持たざる天使等は、父たる樂しみ有《も》てるなる、おん身を羨やむことなるべし。カインよ、我子を視せよな。エノクは未だ、おん身に謝する言語《ことば》無けれど、心の内には感謝せり。おん身の愛の妾も亦。  カイン 我子よ、我は汝を祝福せん。若し人間の祝福が、汝を蛇の咀より救ふの効力ありとせば。  アダ 必ず効あり、父の祝福、確かに、蛇の狡猾を防ぐを得ん。  カイン 我れは之れを疑へり。されども我れは、大に我子を祝福せん。  アダ 我等の兄弟來れり。  カイン おん身の弟アベルなるか。 [#ここから5字下げ] アベル登塲 [#ここで字下げ終わり]  アベル 兄上を祝す、カインよ。神の平和汝の上にあれ。  カイン アベルよ、汝を祝す。  アベル 姉上の、語り玉ひし所に由れば、兄上は精靈と異常の交際を爲し、我等の常の範圍を超えて、遠く逍遙し居玉ひしと。其精靈とは甞て我等の見たる所、語りし所、又た我が父に似たる所の者なりしか。  カイン 否。  アベル 然らば何故彼れと交はり玉ふ。或は彼はいと高き者〔神〕とは、敵たるやも計る可からず。  カイン 又た人間に友たるやも。汝若し彼れをしか名付くる上は―いと高き者は然りしか。  アベル 彼れをしか名付くとかや。兄上の言語《ことば》、今日は異樣の趣あり。姉上アダ、暫く彼方へ行き玉へ、我等供物を神に献ぐべければなり。  アダ カイン、さらばよ。されど先づおん身の愛兒を懷き玉へ、願くば柔和なる我子の氣と、敬虔なるアベルの取りなしとは、おん身を平和と神聖とに歸へせよかし。 [#地付き]〔アダ小兒を懷きて彼方へ去る。  アベル 兄上今まで、何處に行きて居玉ひしぞ。  カイン 知らざるなり。  アベル 又た如何なる物を見玉ひしぞ。  カイン 死者、不死者、無限の物、全能者、虚空の驚くべき秘密―過去にありき、現在にある無數の世界―數多の太陽、數多の月、數多の地球等の、吾等を威壓する物の渦旋《うずま》く大風は、各其聲高き球面上、我周圍に雷の如く鳴吟し、人間の談話に、我を適せぬものとなせり。アベルよ、我れを置きて彼方に去れ。  アベル 兄上の目は、自然ならざる光を以つて輝やき―頬は自然ならざる紅《くれなゐ》を注ぎ―言語は自然ならざる音調に充てり―是は之れ果して何の意味ぞや。  カイン 其意味たる―願くば、彼方に去れ。  アベル 否とよ。吾等共に祈祷し、供物を献ぐるまでは去らざるべし。  カイン アベルよ、願くば汝一人之れを爲せ―エホバは汝を愛せるなり。  アベル 神は同じく我等二人を愛せるなり―我れ之れを希望す。  カイン されども特に汝を愛せるなり。我れ之れを、意に介するなしと雖、我れよりも汝は能く神を禮拜するに適するなり。故に神を崇敬せよ。されども一人之れを爲せ―少なくとも我れを除きて。  アベル 兄上よ、我れ若し兄上を、長上として尊敬せず、神を禮拜する時に、我れと共にせんが爲めに、兄上に頼むことなく、又兄上の、當然の位置たる祭司として、我れに先き立ち玉ふに非ずば、我れは偉大なる父の子たるの名稱を、辱かしむる者たるなり。  カイン されども我れ、未だ其を主張せしことあるなし。  アベル さらば我れは益々悲む。願くば今は其如く爲し玉へ。兄上の精神は、一種の強き誘惑の爲め、働きつゝあるものなる如し。庶幾くば、神の禮拜は其心を靜むべし。  カイン 否。何物も此上我を靜め得るなし。我れ焉んぞ靜平を謂はん。假令世界の諸元素の、靜平に歸せるを見しことありとも、果して如何なる靜平、我精神に存せしやは、未だ嘗て之れを知らず。弟アベルよ、願くは去れ。然らずんば汝一人を、禮拜に殘して我れは彼方に去り行かん。  アベル 否、我等の共に、爲すべきことは爲さゞる可からず。我を擯斥し玉ふな。  カイン 若し強ひて、其を爲す必要ありとせば、然らば我は何を爲すべき。  アベル こゝなる二つの祭壇、好む所、何れなりとも取り玉へ。  カイン 我れの爲めに、汝之れを擇ぶべし、是等は我に取つては餘りに芝と石と多し。  アベル 兄上擇び玉へ。  カイン 我れ擇べり。  アベル 其高き方。之れ長上として兄上に相應はしゝ。さらば供物を準備し玉へ。  カイン 汝の供物は何處にありや。  アベル 見玉へ、是等は初めて生れし子羊、又た其最も肥えたる者にて―牧羊者の謙遜《へりくだ》りたる供物なり。  カイン 我れには羊なし。我れは土地を耕へす者にて、勞働より生ずる所の―其實のりを以つてせざるを得ざるなり。 [#地付き]〔カイン果實を取り聚む。 是等種々の花やかなる色、又た其熟せる艶《つや》を見よ。 [#地付き]〔兩人祭壇に供へ、其上に火を燃やす。  アベル 兄上は長上なれば、先づ供物と共に、祈祷と感謝を献《さゝ》げ玉へ。  カイン 其如き事、我れ甚だ不案内なり。請ふ汝先達せよ、我れは汝に倣ふべし。  アベル (膝づきて)あゝ神よ。爾は我等鼻の内に、生命《いのち》を呼吸する者を造り、我等を惠み、我父の犯しゝ罪は若し爾の正義にして、爾の喜び玉ふ所の惠《めぐみ》を以つて、調和さるゝに非ざりせば、父の子たる我等凡ては、全く亡ぼさる可かりしを、我等を助け玉へり。爾の罪の赦免《ゆるし》は、之を我等の大罪に比ぶる時は、實に樂園を與へられしに等しきかな。光明と、善と、榮光と、永遠の唯一の神よ。若し爾なき時は萬物皆惡なりと雖、爾に在つては一事の誤ることなく、必ず爾の全能なる恩惠の、或善の目的に達するなり―之れ測り知るを得ざれども、必ず實行さるゝなり。願くば、爾の卑しき最初の牧羊者の、初生の羊の初物《はつもの》を嘉納せよ。供物自身は何の價値も之れあるなし―何物の供物か、爾に取つて價値あるを得べけんや―されども其供物を、爾が高天の大前《おほまへ》に廣げ備へ、塵より成れる己が身と、同じき塵に額《ぬか》つきて、幾久しく、爾及び爾の名を、敬する、我れの感謝に面じて、此供物を愛納し玉へ。  カイン (此間直立して)精靈よ。爾は何たり、又た何者たるか兎に角に、或は全能者たるやも知る可からず。又た若し善なりとせば、惡を取り除きたる爾の行は或は然らん。地上のエホバ、天上の神。尚ほ其他の名稱あらん。そは爾の事業の多きが如く、爾の屬性も亦多ければなり。爾若し祈祷を以つて宥められざる可からずとせば、是等の供物を取り玉へ。爾若し、祭壇を以つて招かれざる可からず、犧牲を以つて柔げられざる可からずとせば、是等の物を受け玉へ。吾等二人はこゝに爾の爲めに祭壇を設けたり。爾若し血を好み玉はゞ、牧羊者の神机は、吾|右方《めで》に煙りつゝあり。之れ爾に仕へんが爲めに、羊の初生を屠りて其血を濺ぎしものにして、其四肢は今ま血なまぐさき臭氣を放つて爾の天に向つて蒸し騰れり。或は爾、若し地上のやさしき氣候に、美しく花咲き、其を熟せしめたる廣き太陽の大前に、汚れなき芝生の上に并べ供へしものを嘉《よ》しと視玉はゞ、之を取り玉へ。且つ是等は、身体及び生命を苦しむる[#(*1)]ことなく、吾等を顧み玉へとの哀願よりも、寧ろ爾の事業《みわざ》の、見本と謂ふべし。若し犧牲なき神机、鮮血なき祭檀は、爾の愛を得ば、願くば之れを顧み、又た其之れを供へし所の彼れをも、併せて顧み玉へ。彼れは―爾の造り玉ひしまゝの者にして、膝を屈し哀願して得る物は、一も之れを求めざる者。若し彼れ惡ならば、彼れに打撃を與へ玉へ、爾は全能たり、又た全能たり得ん―如何んぞ彼れ反抗するを得ん。彼れ若し善ならば、或は撃ち、或は助けよ、只だ爾の意のまゝのみ。そは、凡て爾の力に有ればなり。善も惡も其れ自身には何の力も有ることなく、たゞ爾の意志に由るのみ。その善たり惡たるは、吾れの知らざる所なり。吾れ全能者に非ざれば、能く全能者を判斷し得ず、たゞ/\其命令を忍ぶあるのみ。之れ我が從來堪え來し所なり。 [#ここから7字下げ] 〔アベルの祭檀の火は輝く火炎の柱となりて天に上りしと雖、カインの祭檀は旋風吹き來りて果實等盡くを地上に撒き散らせり。 [#ここで字下げ終わり]  アベル (膝き)あゝ兄上祷り玉へ、エホバは汝を怒り玉へり。  カイン 何故に。  アベル 果實は地上に撒かれし故。  カイン 是等は地より出でし物なれば、又地に歸るは自然のみ。其種子はよく夏に前《さき》だち、新に實をば結ぶべし。汝が燔肉の供へ物は、實に成功したるものにして、其の血の濃きときに登る火炎《ほのほ》は、天之れを甞め盡くせるを見よ。  アベル 我れの供物《くもつ》の神の受納を思ふことなく、晩くならざる其前に、今一度び別に供物をさゝげ玉へ。  カイン 我れは再び、祭檀を設くることなく、又た何物をも耐ゆるなけん。  アベル (起ち上りつゝ)カインよ、其は何を意味せるぞ。  カイン かの卑むべき、雲の諛ひ者たる、汝が愚《おろか》しき鈍き祈祷の、煙の爲せる先驅《さきぶれ》を打崩ずさんと欲するなり。羊及び其乳飮み子の、血に塗るゝ祭檀は、我れ之れを血の中に破壞せんとす。  アベル (カイン逆ひつゝ)此くの如き事爲し玉ふな。不敬神の言語に加へて、又不敬神の行爲を以つてし玉ふな。此祭檀は願くば其儘に爲し置き玉へ。今や之れ、エホバが犧牲《そなへもの》を嘉納して、不朽の喜悦もて、神聖と爲しゝものなり。  カイン 彼れのなりとか、彼れの喜悦なりとか。此の、肉は焦げ血は煙りて蒸し上り、母なる羊は悲しみて、今尚ほ死しゝ其子を慕ひ、又た汝の信神なる小刀の下に斃れたる、憐れむべき事譯《ことわけ》知らざる、犧牲に供へられたる者の、甚しき苦痛の内に、エホバの大喜悦とは何事ぞや。去れ、汝、此血なまぐさき殘忍なる記録は、天が下にあらしむべからず、實に之れ天地創造を辱かしむるものたるなり。  アベル 兄上、彼方に行き玉へ。亂暴を以つて、我が祭檀に觸れ玉ふな。若し他の犧牲を供へん爲め、之れを用ゐんとし玉はゞ、こは兄上に參らすべし。  カイン 他の犧牲なりとか。汝去れ。若し去らずんば其犧牲は或は―  アベル 其は何を意味し玉ふぞ。  カイン 去れ、去れ、汝の神は血を好めり。やがて其れを見よ。去れ、神が尚ほ此の上に、血を得ざる前に去れ。  アベル 神の大なる名を以つて、我れは兄上と祭檀との間に立つ。此祭檀は之れ神の嘉納し玉ひしものたるなり。  カイン 汝若し其身を愛せば、我が此芝草を、生《は》へし所に、散らし歸へす其時まで、汝後に退《さが》り居れ―若し夫れ然らざらんには―  アベル (反抗して)我れ生命よりも神を愛す。  カイン (祭檀上に有りし棒を取りアベルの顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6、顬]《こめかみ》を打撲し)さらば汝の生命《いのち》を神に持ち行け、神は生命《いのち》を好めるなり。  アベル あゝ神よ、願くは爾の僕《しもべ》を受け、又た其を殺しゝ者を赦るし玉へ、そは彼れ其爲す所の如何を知らざればなり。カイン、おん身の手を握らしめよ、又た憐れなる妹チラに此事を告げ知らせよ。  カイン (暫時亡然自失したる後)我手は全く紅《あけ》に染みたり。これ何― [#地付き]〔長く無言にて―靜かに四邊を見回はし。 我れ何處にありや―たゞ一人。アベル何處にありや。カインは何處にありや。あゝ我れカインなるか。愛する弟覺《さ》めよ。如何なれば汝此く緑の地上に臥せるぞも。未だ眠りの時には非ず―汝何故に蒼白き。何事かありし―今朝しも汝は元氣に充ち居たり。アベルよ、願くは我を弄《もてあそ》ぶ勿れ。我れ汝を烈しく撲ちしも、致命にはあらざりき。何故に汝我に反抗したるぞ。あゝ之れ戲れならん。たゞ我れを驚かさんとするものなるべし。我れたゞ撲ちしに止まるのみ。起き上れ、起き上れ、たゞ起き上れ。何故に然るか―善し―汝|息《いき》つけり。我に向つて息吹けよ。あゝ神、あゝ神。  アベル (聲甚だかすかに)こゝに神を呼ぶは何者ぞ。  カイン 汝を殺しゝ者ぞ。  アベル さらば。神よ彼を赦るし玉へ。カインよ、願くば憫れなるチラを慰藉《なぐさ》めよ、彼女は唯一人の兄弟あるのみ。 [#地付き]〔アベル死す。  カイン 我には一人もなし。我れに兄弟無からしめしば誰なるぞ。アベルの目は開き居るなり。さらば彼れ尚ほ未だ死せざるべし。死は眠りの如く、眠りは眼瞼《まぶた》を閉ざすなり。彼れの唇また開けり、さらば彼れ尚ほ息《いき》あらん。されども我れ其呼吸を感ぜず―あゝ然り、心臟、―心臟―我之れを檢《あらた》めん、果して尚ほ鼓動せるか。否―否。意ふに之れ皆な幻像《まぼろし》に過ぎざるべし。若し夫れ然らざらんには、我は惡しき他の世界の人となりしものならん。地は我周圍に回ぐり浮べり―此は何ぞや―濡へり。 [#地付き]〔額に手を當て、其手を見て。 されども此は露にはあらず。是は血なり―我血なり―弟の血と我血とにして、我濺ぎし所なり。我れは我肉身より、生命《いのち》を取れり、さらば此上、我れは生命を如何にすべき。されども彼は未だ死せし筈はなし―靜默、豈之れ死ならんや。否、彼れ目さむなるべし。我れ其傍に看守せん。彼れ今まで談話せり―生命とは、此くも容易に滅ぼさるべきか弱きものに非ざらん。我れ如何に彼れに語らん―弟よ─否、彼れ、此名に答ふる勿らん。そは兄弟たる者は、互に相|撲《う》つべきに非ざれば。されど─されど言語《ことば》かはせ。あゝ今|一言《ひとこと》かのやさしき聲を―さらば我れは再び愛する弟の言語を聽くを、堪ゆることもあるべきを。 [#ここから5字下げ] チラ登塲 [#ここで字下げ終わり]  チラ 妾は重き音を聽きぬ。其は果して何ならん。夫《おつと》の側に看守せるはカインなり。兄上よ、おん身は何をし玉ひしぞ。アベルは眠れるか。あゝ其蒼白きは何事ぞ。又た其の處に流れ居るは果して何ぞや―否、否、是れ血には非ざるべし―誰しも血をば流すべき者あらざれば。アベルよ、此は何事ぞや。誰か是れを爲したるぞ。彼れ動かず、又た呼吸せず、其手を取れば垂れ下りて、石の如く、又た生命《いのち》なきものゝ如し。あゝ、殘忍なるカイン、何故に此亂暴よりアベルを救はん爲めにと、早く此處に來玉はざりしぞ。何者來り襲ふとも、兄上は力甚だ強ければ、其者の間に立ち塞がり得たるべきに。父上、母上、アダ、此處に來ませ。死は世界に之れ有るなり。 [#地付き]〔チラ、兩親を呼びつゝ去る。  カイン(獨語) 誰か、彼れ〔死〕を此處に連れて來りしぞ。我れなり─死の名を嫌ふの甚しき、未だ其相貌をだに知らざる前、其思想は遂に凡て、我が一生を毒せしなり。我れは彼〔死〕をこゝに連れ來て、寒き寂莫《さび》しき其抱擁に、我弟を與へたり。宛も我れの援助なき爲め、曲ぐべからざる彼れの權利を、全く主張せざりしものゝ如し。かの我を狂せしめたる暗憺たる其夢より─我は遂にさめたれども―彼は決し覺めざるべし。 [#ここから5字下げ] アダム、エバ、アダ及びチラ登塲 [#ここで字下げ終わり]  アダム[#「アダム」は底本では「アベル」] チラの悲しき聲に由り、我れ今まこゝに來りぬ。我が見る所、あゝ何ぞや─眞にこれ─我子なり―我子なり。婦《をんな》よ。蛇とおん身との業《わざ》を見よ。〔婦に對して言ふ〕  エバ あゝ、其事を語り玉ふな。蛇の毒は我胸にあり。最も愛する我子アベル。エホバよ、我より彼を取り去るとは、母の犯しゝ、罪以上の罰たるなり。  アダム 此れを爲せしは誰れなるぞ。又た何物なるぞ。カイン、汝は此塲に在りき、委細に之れを語るべし。或は之れエホバと與に非る所の、敵對の天使なりしか、はた又た森より出で來し野獸なりしか。  エバ あゝ青黒き光は、雷含む雲より出でし者の如く、祭檀より取りし所の、かの煙にくすぶり、紅《あけ》に染みたる、彼方の太き、血にまみれたる燒けし棒に光れるなり。  アダム 事情を語れ、我子よ、語りて我等に其事を明かにせよ。我等は既に不幸なり。尚ほ此上に不幸を増すこと勿らしめよ。  アダ 語り玉へ、カイン。語りておん身が其を爲しゝに非ざることを明かし玉へ。  エバ 我れ今視たり、是れを爲しゝは彼れなり。―彼れ其罪ある頭を垂れて、紅に染まりし手を以つて、其恐ろしき目を蔽へり。  アダ 母上よ、おん身は彼れを疑ひ玉へり。カインよ、此恐ろしき嫌疑を明かし、無實の罪を雪ぎ玉へ。母上は、此悲しみに心を痛め玉へるなり。  エバ エホバよ聽き玉へ、蛇の永遠の咀は、願くば彼れの上にあれかし。彼れは我等の後裔《す江》たるよりも、寧ろ蛇の後裔に適せるなり。彼れの一生、願くは寂漠たれ。願くば―  アダ 止《や》め玉へ。母上彼れを咀ひ玉ふな。彼れはおん身の子ならずや。母上彼れを咀ひ玉ふな。彼れは妾の兄弟たり、又た許婚《いひなづけ》の夫なり。  エバ 彼れはおん身を兄弟なく─チラを夫なく─我を子なくなし去れり。是故に我れ眼前より、永久に彼れを咀ふ。吾等の間の凡ての縁は、我れ之れを破らんこと、彼が彼處《かしこ》に、自然の縁を破りたる如く爲さん―あゝ死よ、死よ、何故に我を取り去り爲さゞりしぞ。最も初めに、汝《な》を招きしは我れなるに。何故汝、今其如く爲さゞるぞ。  アダム エバよ、おん身の悲哀を此く放縱して、知らず識らず、不敬神に陷ることを愼しみね。重き運命、長き前に、既に我等に宣告されありて、今や其物來れるなり。吾等之れを堪え忍び、神に對して、尊き彼れの意志《みこゝろ》に、柔順なる僕婢《しもべ》たるを示めすべし。  エバ (カインを指して)彼れの意志とか。此處なる死の化身たる精靈の意志にとか、―此は之れ、妾が死を撒き散らさん其爲めに、地上に持ち來たしたる所のものにか。願くは生命に關する凡ての咀は、盡く彼れの上にあれ。又た彼れの種々の苦痛は、彼れを荒野に放逐すること、宛も我等がエデンの園より放逐されしが如く、又た其子等は、彼れに放逐さるゝこと、宛も彼れが、兄弟の爲め、放逐さるゝ如くあれ。願くば、火炎《ほのほ》の天使の劍と翼は、夜となく晝となく、絶えず彼れを逐ひ廻はし―其行く途には、蛇|躍《と》び上がり―地に生《な》る果實は、彼れの口にて灰となり―彼れ、寢らん爲めに、頭に敷かん樹の葉には、蝎《さそり》集まり充てよかし。彼れの夢は、彼れの犧牲の夫れなれかし。彼れの目覺むる間は、死の不斷の恐れたれ。清けき河は、彼れ若し俯して、其怒れる唇もて水飮まんとするときは、忽ぢ血潮の流れとなれかし。凡ての原素は、彼れを避け、或は彼れの前に變化せよ。他人は苦痛に由つて死すべきも、彼れに在つては苦痛ありとも死するを得ざれ。始めて人に死を紹介したる彼れに在つては、死其の物は、死よりも一層惡しきものたれ。今後一切無數の人類には、汝は假令父たりとも、彼等皆汝を憎み、以後、「兄弟殺」は、「カイン」なる言語《ことば》たれ。願くば、草は汝の足の下に凋み、森は其宿りを拒み、地は家を拒み、泥[#「土へん+尼」、坭]土《つち》は墓を拒み、太陽は光を拒み、天は其神を拒めかし、 [#地付き]〔エバ去る。  アダム カインよ、此の處より出立せよ。我等汝と共に住むを好まず。出立せよ。死にたる者は之れを我れに殘し置け。我れは今より獨《ひとり》なるべく―再び會うことあらざるべし。  アダ あゝ父上、此くてカインと別れ玉ふな。彼れの頭に、母の咀に加ふるに、又たもや重き、咀を以つてし玉ふな。  アダム 我れはカインを咀はざれども、彼れと與《とも》なる精靈は、其咀となるならん。チラ來れ。  チラ 妾は夫の屍骸を看護《みまも》らん。  アダム 吾等に課するに、此恐るべき役目を以つてしたる彼れ、こゝ去り行かば、我等再び此處に來らん。チラ來れ。  チラ[#「チラ」は底本では「テラ」] されど今|一度《ひとたび》、其蒼白き泥[#「土へん+尼」、坭]土《つち》、前《さき》には温かなりし其唇を接吻せん―あゝ我愛―我愛。 [#地付き]〔アダムとチラと泣きつゝ行く。  アダ カイン、おん身聽き玉ひしか。我等は此處を立出でざるを得ざるなり。妾は已に覺悟せり。子供等も亦然るべし。妾はエノクは抱くべければ、おん身は妹の方を抱き玉へ。日の未だ、入らざる前に出立せん。時遲るれば、暗夜に荒野を行かざるべからず―物言ひ玉へ、妾に―おん身の愛する妾によ。  カイン 我をこゝに置去れよ。  アダ 何ぞや。皆々おん身を置き去れり。  カイン 何故尚ほも躊躇《ためら》ふぞ。此|行《おこなひ》を爲したる者と、共に住《すま》ふを、おん身は恐るゝことなきか。  アダ 妾はおん身を見棄つる外は、何も恐るゝ所なく、又たおん身を、兄弟なきの人となす、其行も恐れざるに非ざれども、妾は之れを語る可からず―こは是れおん身と大なる神との間の事なり。  内よりの聲叫ぶ カイン、カイン。  アダ おん身かの聲を聽き玉ひしか。  内よりの聲 カイン、カイン。  アダ こは之れ天使の聲のひゞきなり。 [#ここから5字下げ] 神の使登塲 [#ここで字下げ終わり]  天使 汝の弟は何處にありや。  カイン 我れ豈弟の番人ならんや。  天使 カイン、汝は何を爲したるぞ。殺されたる汝の弟の血は、地より神に叫[#「口+斗」、呌]びたり―今や汝は地より咀はる。此地は之れ、汝の凶《あ》しき行の爲め、弟の血を飮まんとして、其口を開きしなり。是より後は、汝たとひ地を耕えすも、地は其力を、汝に致すことなけん。今日以後、汝は落人《おちうど》、又た地上の、さすらひ人にてありぬべし。  アダ 是はこれ、彼れの堪え得る以上の罰なり。已[#「已」は底本では「己」]に彼を、地上より放逐し、神の面《おもて》に、隱れざるを得ざらしめたり。此くて、世のおちうどたり、地上の流離人《さすらひびと》たる者は、人之れを見出さば、直ちに之れを殺すに至らん。  カイン 若し彼等、能くせば或は之れを爲さん。然りと雖、我を殺す彼等とは、果して誰れのことなるぞ。地球は未だ、人民なくして淋しきに、是等の人は何處にありや。  天使 汝既に其兄弟を殺したり。誰か汝の子に對して、汝を保護するものなるぞ。  アダ 光の御使《みつかひ》、願くは惠みあれ。又た此、あはれなる痛める胸は、今や我子に於て、殺人者、而も父を殺す殺人者を、はぐゝみ育つとの玉ふな。  天使 さらば小兒は、父が然りしき如き、ものたる外はあらざらん。汝の母エバの乳は、今汝が見る如き、血に染まれる彼れを育て爲さゞりしか。兄弟殺は、やがて又た、父殺を生ずることもあり得べし―されども其事無かるべし―汝及び我の神は、其印章を、カインに印すべきことを、我に命令し玉へり。之れカインを安全に、行かしめ得んが爲たるなり。故に若し、カインを殺す者あらば、其人の頭の上には、其七倍の復讐あらん。カイン、此方に來れ。  カイン 汝は我に、何を爲さんとし玉ふぞ。  天使 汝の爲したる、かゝる行爲の除外として、汝の額に、印判を押さんとするなり。  カイン 否、我れ死すとも可なり。  天使 否、其は許さず。 [#地付き]〔天使、カインの額に燒印を押す。  カイン 我額は燒けたり。されども、内なるものは何事もなし。若し尚ほあらば、幾何なりとも我れ受けん。  天使 汝は、胎内に在りし時より、峻刻剛情なりし[#(*1)]こと、此後汝の、耕えす土地の如くにありき。されども汝の殺しゝ彼れの、柔和の性にてありしことは、彼れが守りし羊の群《むれ》の如くにありき。  カイン 我れは、失落の後甚だ早く、母は尚ほ、蛇の誘惑に氣を降さず、父は尚ほ、エデンを悲しみ悔まざる、其以前に生れたり。生れながらに、然るがまゝは之れ我なり。我れは生命《いのち》を求めず、又た自ら求めしめず。されば若し、我れの死をもて、塵土《つち》たることより我弟を、贖ひ得るものならんには―何故に然らざる―彼れを此世の人となし、我れは色蒼ざめて横はり、神のたへなる力に由り、生命《いのち》を愛する弟に、其生命を回復し、敢て保つを希はざる我此身は、これを我より取り去れかし。  天使 殺しゝ者を、誰かは治療するを得ん。既徃の事は悔ゆとも益なし。行け、汝の一生を送り、又た此最近の、如き行ひあること勿れ。 [#地付き]〔天使退塲。  アダ 天使は去れり、いざ吾等行かん。幼きエノクは住居《すまゐ》の内に泣き出だせり。  カイン あゝ此兒、何を泣くやは知ることなし。血をそゝぎたる我れはしも、涙をそゝぎ得ざるなり。然りと雖四つの河は、我れの精神《こゝろ》を清め能はず。我子は我れを見るに堪ゆると、おん身は思ふか。  アダ 妾若し、我子は堪えざるべしと考へなば、妾は―  カイン (言葉を遮りて)否。威迫《おどし》はこゝに之れを止《や》めん。已[#「已」は底本では「己」]に數々之れを爲せり。いざ我子の方に至れ、我もおん身に從ひ行かん。  アダ 妾はおん身を只一人、死人と共に棄て置かじ、我等共々出立せん。  カイン あゝ汝、死したる永遠の證人よ、汝の沈み去らざる血は、天をも地を暗くせり。汝の如何なる者なるやは、今我れ之れを死らざれども、若し我が現状を見る時は、意ふに、神及彼自身の精神は、決して赦るすことなきも汝は必ず我を赦るさん―さらばよ、我が此く爲しゝおん身には、我れ觸るべからず、又た我れ敢て、觸るゝを得せず。汝と共に同じ胎より生れ出で、同じ乳を飮みたる我れは、相愛して、兄弟らしく、又た小兒らしく、數々おん身を胸に擁きぬ。今や我れ、再びおん身に逢ふこと能はず、又たおん身が、我に行ふならん其如く、我れ此く、おん身に行ひ得ず。おん身の四体《むくろ》を墓にやすめよ。此墓は之れ人間の爲め、最も始めに掘られしものなり。然りと雖其墓を堀りたる者は誰なるぞ。あゝ地よ、あゝ地よ、汝が我れに致したる、凡ての實のりの禮として、我れは汝に是れを與へん―我等今まや荒野に至らん。 [#地付き]〔アダ俯してアベルの屍體を接吻す。  アダ 兄弟よ。はかなき而も、いとも短き運命は、げにこれ汝《おんみ》の定めなりしか。おん身を悲しむ凡ての内、妾|一人《ひとり》は泣くこと得ざる者にこそ。妾の務は、今より全く涙を乾かし、決して之れを濺がぬことぞ。然りと雖、凡てのなげく者の内、妾の如く、歎かんものはまたあらじ。たゞ之れおん身の爲めのみならず、おん身を殺しゝ彼れの爲めにも然ればなり。カインよ今や、おん身の負はん其重荷は、妾も共に分つべし。  カイン エデンより東の方に、我等は途を取り行かん、之れ最も荒れし土地、我れの歩みに相應はしゝ。  アダ 先き立ち玉へ、おん身は我の道案内。我等の神は、又たおん身の神にてあれ。我等子供を負ひ行かん。  カイン 此處に死したる彼には子なし。彼れの新婚の惠みとして、生るべかりし柔和なる、其種族の源泉《みなもと》は、我れ之を涸らしたり。若し彼れに子あらんには、我等の子等とアベルの子等とは和合して、能く我峻酷なる血を調和するを得たりしものを。あゝ悲しいかな―弟アベル。  アダ 願くば彼れの上に平和あれ。  カイン されど我には― [#地付き]〔退塲。 [#改ページ]   附録  人道と耶蘇教との衝突 [#ここから1字下げ] 此一篇は『バイロン文界の大魔王』中の第十章なり。バイロンの宗教思想を知るには、一の光明を投ずるものあるべきを以つて、拔萃して左に出だす。 [#ここで字下げ終わり] 善を好むは大に善しと雖、惡を惡みて惡人の不幸に陷るを見て之を喜ぶは人情に非ざるなり。人情は道徳界に於ては正義よりも高尚なる權威を有す。故に正義を完ふするも人情を破りたる者は決して道徳界の人に非ざるなり。宗教家が宗教に熱心なるは可なりと雖も、單に自家の信ぜる誤謬の信仰を以て、道徳唯一の標準となし、狹隘にも他を以て外道となし惡人となし、以て其信ずる所の神罸を受くるを見てこれを喜ぶは、これ全く吾人の道徳とせざる所にして、吾人の攻撃せざる能はざる所なり。詩人バイロンの耶蘇教及び耶蘇教徒を攻撃するや、先づ其神學の淺薄なるを笑ふに初まり、而て該教徒の不人情を鳴らすものなり。 バイロンの『カイン』は(Cain: a Mistery)は、英國哲學詩の至高至美なるものにして、人生、善惡、生死及び世界觀等を有し、荘嚴なるあり、温和なるあり、高尚なるあり、優美なるあり。其深玄透徹的の見識に至てはミルトンの『失樂園』等の決して及ぶ能はざる所なり。ゲーテ之を評して空前絶後の大文學と云ひ、其友をして此詩を讀ましめんが爲めに、英語を學ぶことを勸めたりと謂ふ。バイロン又『天地』篇の詩あり(Heaven and Earth)。これ宗教家の不人情を鳴らす慷慨の詩なり。其攻撃する所は大抵舊約書の信仰にありと雖、亦耶蘇教徒の徳義上の反省を促がすに足るものなからざるなり。 神は果して存在せるやと云はゞ、バイロンは耶蘇教徒の謂ふか如き人間樣の神なしと云はん、何となれは、バイロンは凡神論者なり、物質論者なり、或は唯心論者なり、觀念論者なればなり。然りと雖、彼れ耶蘇教を攻撃するに當て、暫く神の存在を許し、而て之を嘲笑愚弄す。バイロンの始めに攻撃の鋒を向けたる所は主として該教の淺薄なる樂天主義にあり。バイロン攻撃の材料を舊約書に取り、以て耶蘇教及び耶蘇教徒を其内に偶言す。人祖アダム、其家族を集めて神を讃美して曰く [#ここから1字下げ] 『嗚呼神よ、永遠無限の全知なる神よ。』 『永久なる神よ、汝は萬物の父にして一切の善と美とを作れり。』 『神よ、汝は萬物を惠めり。』(カイン一) [#ここで字下げ終わり] と。これ即該教徒の淺薄なる樂天主義なり。一方のみを見て他を見ざるの信仰なり。若し果して彼等の言へる如く、神は全知全能仁愛ならんには、洪水、地震、雷霆、火山の破裂等、一切の苦痛害毒も亦これ神の仁慈なりと云はざる可からず、故に苟も全般の事實を觀察せる者には、該教の云ふ所の眞に非ざることは一目甚だ瞭然たり。之を以てアダムの長子にして惡人の開祖たるカインは父母弟妹等の神を讃美し祈祷せるにも係はらず、獨平然として佇立せり。父母其故を問ふ、カイン答へて曰く [#ここから1字下げ] カイン『我れ神に求むる所有らざればなり。 アダム『又感謝する所もあらざるか。 カイン『無し。 アダム『汝は神に由て生けるに非ずや。 カイン『我れ又死せざる可からざるに非ずや。』(カイン一) [#ここで字下げ終わり] と。カインは智言を爲せり、誰れか其論法を破るものぞ。神は萬物を造れりと謂ふ、然りと雖カインは [#ここから1字下げ] 『人生は勞苦なり。』(カイン一) [#ここで字下げ終わり] となす、何となれば人は始めエデンの樂園にありし時は幸福のみなりしと雖、今や [#ここから1字下げ] 『エデンの樂園より放逐せられ、萬物とは戰爭し、萬物には死來り、萬物には疾病あり、苦痛あり、煩悶有る。』(カイン二) [#ここで字下げ終わり] を以てなり。果してこれ何の原因する所ぞ。耶蘇教徒が人生の苦痛及び害惡の原因を説明するや、至て簡單なるものにして、只神に禁ぜられたる果實を食したる結果となす。若し眞に然りとせば果實を食ひたる者こそ咀はるべきものなり。カイン其父を咀ひて曰く [#ここから1字下げ] 『我父エデン[#「エデン」は底本では「エデ」]の樂園に在りし時、神の命令を守らざりしより世上一切の害惡生ず、父の罪行我關する所に非ず。何となれば、其時我れ未だ生れず、又生れん[#(*1)]ことを求めず、又生れ來りし所の状情をも求めざりしを以てなり。如何なれば父は女(エバ)に惑はされたるか』 [#ここで字下げ終わり] 父は最初に誤れり、之を怨みざるを得す、 [#ここから1字下げ] 『父の愚昧と母の無思慮』 [#ここで字下げ終わり] これ罪惡苦痛の大原因なり。只アダムとエバとの失行に由て神意に違ひ宇宙の大和を破り苦痛罪惡は人世に入り來り、生活には勞力を要し、尚ほ此に止まらずして、遂には不死なりし身にも死亡來るに至れり。嗚呼これ何たる怪事ぞ。カイン怒て曰く [#ここから1字下げ] 『父母の罪我に於て何かあらん、若父母罪を犯さば父母をして死せしむべし、我れ固より罪無し。我れ他人の罪科の犧牲に供せらるべき如何なる事を生前に爲したるか』 [#ここで字下げ終わり] 且父母は其色情に由て、願はざるに我を生み、而て我に勞苦を感ぜしむ、甚だ以て迷惑となす。これカインの其父母を咀ふものなり。然りと雖疾病及び不良なる身心を遺傳したる所の父母は、皆此怨咀を受けさぜざる可からざるなり。子之を怨咀するは決して子の不孝なるに非ずして父母の不慈たるなり。故にカイン曰く [#ここから1字下げ] 『父は我を生みて先づ我を咀へるに非ずや、我を生むの前、神の禁じたる果實を食ひて我を咀ひたるに非ずや』(カイン二) [#ここで字下げ終わり] 父母は一時の色慾より我れは人となりたるものにして、謂はば『誤りて人生に置かれたるなり』。我此く偶然に人生を禀けて世間無限の苦痛を受く。加之、人生の終る所を尋ぬるに、唯だ一ツ死するあるのみ。これ人生の盡く趨向する所。一念此に至らば吾人豈人生の空なることを感ぜざるを得んや。 [#ここから1字下げ] 『人は只死せんが爲めに生けるなり』(カイン一) [#ここで字下げ終わり] 然りと雖死とは何ぞや。聖書に記せるが如き太初の經驗なき人間等は、未だ死の何たるを知らざるなり。バイロン[#「バイロン」は底本では「バイロ」]の『カイン』篇の趣向に由れば、天上にエホバと戰ひ敗を取りたる惡魔ルシファー、地上に來りて論談す。時にカイン、ルシファーに語て曰く [#ここから1字下げ] 『父は死を以て一種の畏るべきものと云ひ、母は死の名を聞きて啼泣し、弟アベルは天に向て手を揚げ、妹ジラは手を地に突きて祈り、我愛する妹アダは我を見て默然たり、而て我胸中には言ふ可からざる思想群起して燃ゆるが如し。我れ死の名を聞く時は、死は一種の強力を有するものならんと思はる、我れ幼なりし時、獅子と力を角して勝ちし如く、又死に勝つことを得べきか』 [#ここで字下げ終わり] ルシファー答へて曰く [#ここから1字下げ] 『死は形躰を有せずと雖、よく地上の萬物を呑食し盡くすものなり』 [#ここで字下げ終わり] カイン問ふて曰く [#ここから1字下げ] 『能く此くの如きの惡を爲すものは、吾れ一箇の存在者なりと信ず』 [#ここで字下げ終わり] ルシファー曰く [#ここから1字下げ] 『彼れ破壞者なり、又造物者なり、只汝の好む所の名稱を以て之を呼べ。彼は破壞せんが爲めに萬物を造りたり』(カイン一) [#ここで字下げ終わり] と。嗚呼死とは如何なるものぞ。吾人は何れの時か死の眞知識に躰達するを[#「を」は底本では空白、『バイロン文界の大魔王』より補完]得べきものぞ。若其知識を得るの時は吾人は實に幸福なるべし。ルシファー曰く [#ここから1字下げ] 『然り言ふ可からざる苦悶に於て死の啓示せらるゝ時は幸福なるべし』(カイン二) [#ここで字下げ終わり] 萬物此一瞬の爲めに生けり、死はこれ萬物の終歸する所か。神は死するが爲めに萬物を造れり、而て父母は死せしむるが爲めに我を生めり。 [#ここから1字下げ] 『死せざる可からざる生命を發明したるものは咀はるべきかな』(カイン二) [#ここで字下げ終わり] 然りと雖、カインは花の如き我が子の心よげに眠れるを見て。自己の不平を推して其子の將來を思ひ、己れが父を咀ひたる如く、我子も亦我を咀ふべしと思ひ、其既然現在の人生を嘆くの情は、一層重きを加へたり。嗚呼我子、 [#ここから1字下げ] 『花の如き、眠れる我愛子。嗚呼此内已に永遠無限の苦痛存す。寧ろ此く寢れる間、握み取つて岩角に投じ、微塵に碎きて死せしめんこそ、却て其生けるよりも遙かに優れり。若し我子生き居らんには、一人苦痛を受くるのみに非ずして、又其苦痛を後代に遺さゞる可からず。之を以て其生きんよりも死せるを以て優れりとなす。否々、此可愛き我子、如何でか之を殺すを得べき、―生れざりせば幸福なりしならんと云ふのみ。』 [#ここで字下げ終わり] カインの心痛思ふ可きなり。大凡河内躬恒の歌に  今更に何生ひ出づらん竹の子の      憂き節しげき世とは知らずや と云へるは正に此情なるなり。イスラエルの智者曰く『茲に我れ身を轉らして、日の下に行はるゝ諸の虐遇を見たり、嗚呼虐げらるゝの者の涙流る、之を慰むる者あらざるなり。又虐ぐる者の手には權力あり。我は猶生ける生者よりも既に死せる死者を以て幸なりとす。又二者よりも幸なるは未だ世に在らずして日の下に行はるゝ惡事を見ざる者なり』と。人は世に出てゞ種々の苦痛に逢ひ、又空く死に終る。生れざる者の幸なるに若かざるなり。父母が、我を生みたるは第一の誤謬なり、次に我の子を生みたるは又根本的の罪惡なり。而て我尚ほ生存して子を生むとせば、罪惡苦痛止む時無けん。 [#ここから1字下げ] 『我れ死せん、多年苦しみて後死すべき者を生むはこれ死の種子を播くものに外ならず、而て又殺人を増殖する所以なり』(カイン二) [#ここで字下げ終わり] 故に我死せん。されども死する能はず。 [#ここから1字下げ] 『死を厭ふは生命の抵抗す可からざる天性なるらん。我れ死を畏るゝを卑むと雖ども、尚ほ畏死の念に勝つこと能はず、此くて我尚は生存せり』(カイン一) [#ここで字下げ終わり] と。畏死の天性抗す可からす、人間の色慾斷つ可からず、生慾と色慾とは益々人間を増加して苦痛と死とを増殖せり。而て此苦痛の本源に溯れば、耶蘇教の言ふ所に由れば、人間太初の母たるエバがパラダイスに在て惡魔に誘惑せられたるにありとなす。此に於てか罪行の責任問題起らざるを得ざるなり。エバ自己の罪行の責任を遁れんとして罪を誘惑者サタンに歸す。然るに詩人ミルトンは人間の自由意志と云ふものに責任を置けり、即ち『パラダイス、ロスト』中に神をして其責任を論せしめて曰く [#ここから1字下げ] 『其過ちは果して誰の過ぞや。彼れ(人間)の過には非ざるか、我れ(神)人を正しく造れり。或は自由に墮落し得んと雖、又十分直立し得るやうに造りたり。自由に直立し、又自由に墮落す』(パラダイス、ロスト三) [#ここで字下げ終わり] と。人は選擇を爲すの點より見る時は、或は全く絶對的に自由、本源的の意志と云ふものあるが如しと雖、吾人が決意し選擇するは、これ實は自動に非ずして生理的及び心理的の必然にして、實は所動的、即、他より『せしめられたる』なり。『自ら事を爲したりと思ふ時も實は他より爲さしめられたるなり』とはバイロンの所説なり、今若し生理上より云ふ時は、人心は肉躰の情状に由て變化するものにして、之を心理的に云ふ時は、人は動機或は心念來往同伴の状態に由て決意如何を生ずるものにして、或は必然と云ふべく、或は偶然と云ふ可し。自由意志論者は、要するに意志を意志すと云ふものなり。然りと雖これ能はざるの事なり。吾人は未だ心念に浮ばざるものは念ず可からず、意志とならざるものは意志す可からず、「我れ決意せり」と云ふは、既に心理生理の必然に由て決意せしめられたる時なり。自由意志論の如きは未だ以て道徳責任を説明し得ざるなり。[#「。」は底本では欠落] 萬物もし神の力に由て造られたりとせば、人間の意志も亦神の造りたるものにして神の支配に屬し、人の意志する時はこれ神が人をして意志せしめたるものと云ふ可く、或は神が一定の意思を爲すやう人間を造れりと云ふべく、吾人の一切責任は神に歸すべきものなり、而て若し人間の意志が罪惡を行ふ時は、これ神が罪を犯すものと云ふべし。 論此處に至らば耶蘇教は神を以て一切の責任者となし、人間は無責任者となし、遂に道徳上、有害の結果を生ぜん、豈に思はざる可けんや。吾人は他に人間の責任論を有せりと雖、今此に之を述ぶるの塲所を有せざるなり。茲に又他の難問生ず、即ち惡魔の起原これなり。耶蘇教の云ふ所に由れば、惡魔は本來惡なるに非ずして、初め天上に在りし時は、大天使として神の榮光の御坐に親近せり、然るに一旦大望を起し、神に對して反亂を企て、戰敗れて遂に天上より墮落したるものなりとなす。されども惡魔も亦神の創造する所なり、假令彼れ自由意志を有せりとなすも、猶人間の自由意志に於けると同一たるのみ。且罪惡の責任を以て惡魔に歸せしむるとするも神の計畫したる所の創造の事業は、全く之に由て破られたるものと云はざる可からず。意ふに神は必ず至善、至美、至樂なる天地を造らんとせしや明なり、然るに其目的は惡魔の爲めに攪亂せられたりとせば、惡魔も亦大能力を有し、神は全能に非ざることを示めすなり。是を以てカインは此世界に存在せる苦痛と云へる事實を捕へ來り、以て神の全能仁慈ならざるを論じ、ルシファーに語て曰く [#ここから1字下げ] 『何を以て我は存在するか何故に汝、不幸なるか、又萬物盡く不幸なるは何故ぞ。神は不幸の源因として、神自身も亦不幸なりと謂はざるを得ず。此く破滅の不幸を造る者は又決して幸福なる者には非ざるべし。然るに我父アダムは云ふ神は萬能なりと、然らば善たる神は何故に惡たるや。我之を父に問ふ。父答へて曰く「惡は善に行くの道なり」と、恐ろしき反對物より其反對物を生ずるとは、豈奇妙なる善に非ずや。過日我れ子羊の蛇に刺されて轉々苦悶するを見たり、我父一種の草葉を摘み來りて之を揉みて其刺されたる所に塗りたり、之に由て苦痛漸く去り、子羊喜ばしき風情あり。而して父曰く「我子よ、惡より善の生ずるを見よ」と』(カイン二) [#ここで字下げ終わり] 耶蘇教徒の惡を説明すること大抵此くの如し。人を苦しめて後其苦しみを救ひ、人を飢渇せしめて之に食を與へ、而して以て善と稱す。或は天災地變惡疫等(これ神の事業か)に由て人類の害を被ること少しとせず、然るに耶蘇教徒は神意なりとして之を救助すと稱し、而して「神は讃むべきかな」と云ふ。此の如きは宛も子羊が蛇に刺されたるの苦痛を救はれ、而して之を恩とし善と云ふが如し。吾人はカインの鋭利なる眼光を稱せざるを得ず、又バイロンが此く優さしき例を取り來り、可愛く之を云ひ表したるを面白しとなす。 ルシファー、カインが父に向て何と答へたるやを問ふ、カイン曰く [#ここから1字下げ] 『我何事をも言はず、彼れは我父なればなり。されども我思ふ所に由れは、かの中毒の激烈なる苦痛を感じ、消毒藥を以て之を治療し、而して其生命を助けんより、寧ろ初めより刺さるゝの苦みなきに若かずとなす』。(同) [#ここで字下げ終わり] 善と惡、快樂と苦痛、是等は如何にして善と稱する一箇の神に調和するを得るか。如何に物質的に議論的に之を一にするを得るとするも、吾人の感覺に來る時は決して一たること能はざるなり、―苦と樂と。此點に於てペルシヤの二原論は論じて曰く『善性は如何にするとも惡となることなく、惡性は如何にするとも善化することなし』と。又曰く『彼等(耶蘇及びマホメット教徒)に問へ。神もし善ならば惡を許すは何故ぞ神之を知らずとせば、これ全智に非ざるなり。神もし惡を禁ずることを勉めずとせば、神の善果して何れにかある。神もし之を爲す[#(*1)]こと能はずとせば、其全能何處にかある…彼等は惡魔樂園に入れりと云ふ、若し果して然らんには、神は何故に之を拒ぐに堅固なる墻壁を作らざりしか、惡は今も尚ほ盛に行はれ、何れの世にも善に勝てり。これ神は惡魔の己れに反對するを前知せざりしなり、豈之を全能なりと云ふを得んや。もし神にして眞に善のみならんには。素より惡のあるべき理なし。今、世上の事物を大別せば善と惡との二たるべし、此二者神より出でたりとせば、惡も亦神にして、一概に卑しむべきに非ざるなり』と。これペルシヤ教の經典「パレヰ、テキスト」中に存する議論なり、此他尚面白き批評等ありと雖、此處に引用するの紙白なし。されども道徳的に耶蘇教の神を攻撃して曰く『神は誠心より言ふか、或は單に虚言なるか、「我は善の友にして惡の敵なり」と云へり、然るに世上、惡は善より多きに非ずや』と。神は善なるや、智なるや、又全能なるやの點に就て、豈懷疑の念起ることなからんや。否、神は果して存在せるか。 バイロン、『カイン』編に於て無邪氣なる少女(チラ)の祈祷の飾りなき言語中に、ペルシヤ哲學の議論せし如き意味を含めて、耶蘇教の神學―神が惡魔をして樂園に入るを容るしたるを刺しれり。少女祈りて曰く [#ここから1字下げ] 『愛する神よ、汝は萬物を造り之を惠み玉へり。されども只蛇(惡魔)をして樂園に入るを許るし、我父を樂園より追ひ出し玉へり。されども神よ、此他の惡より我等を守り、惡なからし玉へ。讃むべきかな讃むべきかな』(カイン一) [#ここで字下げ終わり] と。惡魔をして樂園に入らしめ、而して人類の父母を追ひ出さゞるを得ざるやう爲せし神は讃むべきかな。彼等實に神を讃美し、「永遠、無限、全知、全能、善美の神」なりと云へり。バイロン之を稱して [#ここから1字下げ] 『奴隸的讃美の歌』(天地篇) [#ここで字下げ終わり] と云ふ。眞に然り。然りと雖此罵詈は、單に宗教家に向けらるゝのみに止まらずして、高遠を以て自認し(人は認めず)宇宙は道徳的理想を有し、道徳的組織に成り、天地は善なりなど云ふ所の、獨逸流の形而上學者等も、亦此の宗教家中に分類せられ、宗教家に向けられたると同一罵詈を受けざる可からざるなり。 又善惡の性質を考へ見よ、神の善なりと稱せらるゝは、其強大なる力を有するが故なるを知らん。彼教徒の云ふ所に由れば、罪惡は禁ぜらたる知識の樹の果實を食ひしにあり。智識を求めたるが罪たりしなり、實に奇妙なる罪と謂ふ可し。神は何故に此美麗なる知識の樹の果實を食ふことを禁じたるか。何故に此果實を食はざりしことが善なりしか、其理由如何ん、『何故』に非ずして [#ここから1字下げ] 『神意なるゆえ善』(カイン三) [#ここで字下げ終わり] たるなり。されば神意は常に必ず善なるか、神若し父母兄弟を殺さしめんとせば、我之を殺すを以て善とすべきか。彼等或は然りと答へん、故に神アブラハムに其愛子イサクを犧牲に供せよと命じ、エプタに其女を需めたる時、アブラハム、エプタ共に神意なりとして之に從ひたり。之に由て之を觀れば、神は必ずしも殘忍なることなきを保せざるなり。或は神は吾人の父母を殺せ、或は汝の國に裏切りせよ等と命ぜざること無きにしも限らざるべし、何となれば神意には上に法則あるなく、全く絶對的のものなればなり。彼等もし、神は善のみを意志すとせば、アブラハム、及びエプタの事は果して如何ん。耶蘇教の信仰史上に重きを置きて稱揚する所は、之れ實に神の壓制殘忍と、該教徒の不人情とを世界に廣告するものなり。今若し、神意は善なり、何となれば神は善のみを意志するものなりと云はゞこれ神意外、業已に、善惡の標準あるを許すものにして、神は法則の下にありと云はざる可からず。而して耶蘇教の神學は此思想を取らざるなり。 嗚呼善なるが故に神意たるに非ず、神意たるが故に善たるなり。嗚呼無道、壓制と云ふの外なし。只神が暴力を以て善惡を宣言したるに由て善惡定まる。 [#ここから1字下げ] 『全能なるが故に又善なりと續く者なるや』(カイン) [#ここで字下げ終わり] とは、これカインの心中の疑問なり。吾人は此くの如き暴力主義を嫌ふ、然るに吾人は猶、耶蘇教神學の云ふが如く、強力なる故善なりとの言の眞理なるを認めざるを得ざるを悲しむ。カインよ、あきらめよ、世上の善惡は強者の定むる所たるなり。假令自ら是なりとするも、世は必しも之を是認せざるべし。若し強者の善とする所が我善とする所と衝突せば、今は止むなし、只道徳理想の戰あるのみ。ルシファー(惡魔)とエホバ(神)の戰爭は此理に因れり。カイン、ルシファーに問ふて曰く [#ここから1字下げ] 『剛愎なる靈躰よ、汝此く傲慢なる言語を爲すと雖、汝は尚奉戴すべき上位者を有せるに非ずや』 [#ここで字下げ終わり] と。然り。ルシファーはエホバの爲めに敗られたり、然りと雖彼決してエホバを戴かんとはせざるなり、即ちカインに答へて曰く、 [#ここから1字下げ] 『否、我天地に誓て否と云はん、我は實に我に勝ちたる強者を有せり、然りと雖奉戴すべき上位者は之を有せず。彼れエホバ萬人より讃媚を得ん、されども我のみよりは一語だも之を得ざる可し。我天上に戰ひたる如く、尚何處に於ても戰へり。全永遠に於て、陰府無限の深底に於て、空間無限の際に於て、徹頭徹尾と戰へり、大千世界も、星辰も全宇宙も此戰爭の止まざる以上は、其衡平を得んとして震動すべし……彼は勝利者として、敗北者たる我を惡と云ふと雖、我若し彼に勝ちしならんには、彼れの事業は惡となり、善惡所を代ふべきのみ』(カイン二の二) [#ここで字下げ終わり] と。善をして眞に善たらしめんと欲せば、其後楯として強力を要す、虚名の善惡何かあらん。カイン神に供物を捧げし時の祈祷を聞け、曰く、 [#ここから1字下げ] 『神よ我惡ならば、我を罰せよ、汝は全能なり、誰かよく汝に敵せん、若し我善ならば或は罰し或は愛せよ、只汝の意に任せん。善と云ひ惡と謂ふ、其物自ら力を有せず、只汝(強者)の意志に由て力あるが如し、我全能者に非ず、又全能者を判斷するを得ず、是を以何れか善たり何れか惡たるを知ること能はず、只命ぜられたる所に從ふのみ』(カイン二) [#ここで字下げ終わり] と。ルシファー天上の戰爭に敗られたり、之を以て勝者之を惡魔と呼ぶ。彼れ若し、天上に敗れざりせば、彼は善にしてエホバは惡の名稱を得べく、善惡所を異にすべし。今やエホバは勝てり自ら善と稱し其意志を以て善惡の標準となす。耶蘇の使徒パウロは暴君主義の辯護者にして、『造られたる者は造りし者に向て不平を鳴らすの權利なし』と云へり。 耶蘇教徒は云ふ、神は愛なれば罪を免するものなりと、バイロン之に答へて [#ここから1字下げ] 『神はサタンを赦したるか』(マリーノ、フアリエロ) [#ここで字下げ終わり] と評す彼等は又云ふ神は愛にして仁慈なりと、されども舊約書の神は殘忍にして蔬菜の供物よりも、羊の犧牲を好みたり。カイン野菜を供へ、弟アベル羊を供ふカイン祈て曰く [#ここから1字下げ] 『神よ、此處に兩種の供物あり、汝若鮮血滴たり、苦みて死したる羊の犧牲を好み玉はゞ我弟(アベル)の供物にあり。若し柔しき氣候に花咲く、美麗なる果實を好み玉はゞ、我捧げたる供物を饗けよ、我供物は血を流さず、又生命をも苦しめしものに非ざるなり』(カイン三) [#ここで字下げ終わり] と。然るに神はカインの供へたる美はしき、花咲く野邊の果實を取らずして、羊の犧牲を饗けたり。嗚呼羊の犧牲―小刀を以て刺し殺し、火をもて燒き、母羊をして其子の爲めに悲しましめ而て之を神に捧げ神喜びて之を饗くると稱す、カイン憤て曰く [#ここから1字下げ] 『此く殘忍にして血腥さきことは、實に天地創造を涜がすものなり』(同) [#ここで字下げ終わり] と。 耶蘇教歴史の殘忍なる記事はノアの洪水を以て最と爲す。舊約書の記する所に由れば、神の人類を造りたる以來、種族非常に繁殖し、又甚だ罪惡の性質となれり、茲に於て神は洪水を以て之を滅ぼし人類を新にせんとす。されども唯信神なるノアの一族のみは之を救はんと欲し、箱船を造りて、難を之に避けしむ。實に決心恐ろしと云ふ可し。元來人間が神をして、此く決心せしむるに至りたるは何が爲めぞ、舊約書は、こはアダムの時に蒔かれたる罪業の種子にありとなす。蒔かれたる物は生へざるを得ず。幹枝繁欝して後に之を切斷せんより、其二葉の内に切り去る時は、罪種を斷滅するに容易なりしならん。然るに神は此方法を取らずして、滔々たる洪水を以て罪もなき禽獸虫魚に至るまで之を殲滅せんとし、遁げ叫[#「口+斗」、呌]ぶ老若男女を怒濤の中に溺沒せしむ。 バイロンの『天地』篇の趣向に由れば、時にノアの子にヤペテと云ふ者あり、義侠の性なり、ノアの一族なるを以て救はるべきなり。然るに萬人の死を悲しみて箱船に入らず、獨り父母兄弟等より離れて岩上に坐して此の悲劇を觀て之を悲しむ。時に一人の母あり、嬰兒を携へ來りてヤペテに、其子のみは助けて箱船に乘らしめんことを乞ふて曰く、 [#ここから1字下げ] 『此兒のみは箱船に乘らしめよ、妾に取りては此兒の妾の胸に懷き付き居らんことは幸福たるなり、されども今や胸より離して汝に托して救はんことを願ふ。悲いかな。我子何故生れしならん未だ乳をも離れざるに、エホバの憤怒を起すべき如何なる惡を爲したるならん。妾の乳汁中、我子を破碎せんが爲めに天地を怒らしむるものありしか。汝願くは我兒を救へ、然らざれば汝を造りし神と共に汝は咀はるべきかな。』(天地) [#ここで字下げ終わり] と。ヤペテ『神に祈れ』と云ふ、時に人類の精靈の聲空中にありて曰く、 [#ここから1字下げ] 『祈祷か、嗚呼祈祷か、雲は降り、浪は逆卷き來るの時、嗚呼何處にか祈祷は達せん。汝(ヤペテ)及び汝の父を造りたる者(神)は咀はるべきかな、されども我咀ひは無益なり。我等如何てか此赦さゞる全能者に向て膝を屈して讃美を爲さんや。讃美するも、讃美せざるも、死は一たるものを。神は世界を造れり、これ彼の耻辱たれ、何となれば世界を苦しましむる爲めに造りたるものなればなり。』(天地) [#ここで字下げ終わり] と。これ神性の攻撃なり。バイロン又甞て耶蘇教徒の不人情を鳴らす。即ち一方に悲哀にして愛情に富める者を描きて對照法に由て自然に其意を寓す、ヤペテは其悲哀の人なり。今や洪水臻りて人類滅し、只己等の一族のみ救はるゝ[#(*1)]ことを思念し、心中無量の悲哀に滿ち哭して曰く [#ここから1字下げ] 『嗚呼我同胞たる人々よ、誰か汝等一般の墓上に立ちて汝等を哭するものぞ。我の外、誰か汝等を吊ふ爲めに生殘るものやある。嗚呼我れ生殘りて汝等に何の優る所あらん。』(天地) [#ここで字下げ終わり] と。此く思ひつゝ沈鬱す。時に一種の精靈來る、ヤペテ之と問答す、ヤペテ先づ問ふ [#ここから1字下げ] ヤペテ『汝は何物ぞ。 精靈『ハー、ハー、ハー、〔笑ふなり〕 ヤペテ『語れ……。 精靈『ハー、ハー。 ヤペテ『我聞く、天地今や破滅し、黒雲盡く水となりて地を覆はんとすと、我汝を知らずと雖、恐ろしき影の如き精靈よ、此事に就て語れ、汝何故に此大破滅を笑ふや。 精靈『汝何故に泣くや。 ヤペテ『全地球及び其子供等の爲めに。 精靈『ハー、ハー、ハー。 [#ここで字下げ終わり] 『ハー、ハー、ハー、』靈躰笑ひ去れり。無情なるかな。バイロン之に由て耶蘇教徒の不人情を表はす。吾人宗教家が善を好み惡を惡むを以て至當なることゝなす。然るに惡人假令、相當の罰に由て苦しむとも、其の苦しむを見て之を快として喜ぶは人情に非ざるなり。『喜べ、神命を守らざるものは滅ぶべし』(天地篇)と云ふが如きは吾人之を不人情となす。 宗教家は一方より見る時は、甚だ道徳的にして、又甚だ愛情に富めるが如し雖、他に於ては甚不人情と利己的の側面を有するものなり。彼等は己等の救はるゝを樂しむと雖、不信者は苦しむことを説き、或は之を快となす。耶蘇の如きすらも、不信者は地獄の火に投げ入れられ、其處にて切齒して悔むべしと云へり。これ不知不識の不人情たるなり。宗教的道徳的の下等なるは實に此點に存す。バイロン大に之を攻撃す、即ち諷して曰く [#ここから1字下げ] 『遁れよ、ノアの子遁れよ、汝の箱船に於て安樂に生息し、而して汝の若き時の友たりし、世界人類の死骸の浮べるを眺め、而してエホバに讃美の歌を上げよ』(天地) [#ここで字下げ終わり] と。最も耶蘇教徒を叱呵せしものなり。又滅ぶる人間に同情を有せる精靈の口を借りてノアの一族を詈りて曰く、 [#ここから1字下げ] 『救はれたるものゝ子等よ、汝等獨り逆卷き來る洪水を遁れ、以て幸福なりと思へるか。…汝等苟も生を偸み、飮食男女の慾を逞ふし、世界の大破滅を目撃しつゝ之を憐れむことなく、又勇氣を以て激浪に面し、同胞たる人類と共に其運命を同うすること能はず、父等と共に船に遁れて世界の墓上に都市を建てんとす、汝等之を耻ぢざるか。』(天地) [#ここで字下げ終わり] と。萬人盡く死す何の顏ありてか生き殘りて飮食男女の慾を逞うするを得んや。耶蘇教の云ふ所に由れば、不信者は盡く滅び只信者のみ天國に行かんと。バイロン曰く『さらば我一人天國に匍ひ行かんより人々と共に地獄に行かん』と。此感を有せる者極めて多し。或人の書の記せる所に曰く、一少女の父少女の頭を撫でつゝ曰く、假令余は耶蘇を信じて天國に至るを得るとも、若し我娘にして地獄に吟呻する[#(*1)]ことあらんには、余は寧ろ天國の歡樂を受けんよりも、直に馳せて地獄に降るべしと。ラッドボッドはスカンヂナヴィ[#「ヴィ」は底本では「ヰ゛」]ヤ古代の王にして、久しく耶蘇教に反對したるが、一朝之を信奉して將に洗禮を受けんとし、其左足を水に浸しながら僧に向て問ひて曰く、朕は天に於て朕の皇祖高宗に再會するを得るやと。僧曰く、洗禮を受けざりし異教徒は地獄に於て永遠の苦痛を免る能はずと。王直に足を水中より引き出して曰く。朕は汝等と共に天國に在らんより、寧ろ皇祖高宗と共に地獄に陷落せんと。遂に洗禮を受けざりしと云ふ。宗教家此精神なし、之を以て吾人は根本的に宗教的道徳を卑しみ、宗教家を擯斥して、利己的下等の人物と云ふなり。 底本:二松堂書房 岡崎屋書店「宇宙人生の神秘劇 天魔の怨」1907 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=41004590&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0 George Gordon, Lord Byron(1788年〜1824年) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3 木村鷹太郎(1870年〜1931年) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%B7%B9%E5%A4%AA%E9%83%8E Ver.20120317