不信者 The Giaour バイロン ジョージ・ゴードン George Gordon, Lord Byron 小日向定次郎訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)生《よ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一層|和《なご》やかに [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)[#地付き] /\:二倍の踊り字(「く」を縱に長くしたような形の繰り返し記号) (例)輝々《てら/\》と -------------------------------------------------------   土耳古の物語りの一斷片 一つの宿命的な思ひ出──我等の歡喜にも我等の苦惱にも等しく寥しい陰影を投げる一つの悲哀── それへは人の生《よ》はより暗らい或はより明るい何物も齎らし得ないし それには歡喜も慰安にならず、苦惱も刺戟にもなりはしない。 [#地から4字上げ]ムウーア   サミュエル・ロウジャース殿に寄せて  彼の天才に對する讃美、彼の人格に對する尊敬、しかしてまた彼の友情に對する感謝の、微少なれども、極めて誠意を籠めたる、その表象《しるし》として   此の制作に書を書き止めたるは  彼に恩を感じ、深き愛情を持てる從僕 [#地から4字上げ]バイロン     千八百十三年五月  ロンドン。 [#改ページ]   公告  これらの筋道の通らない斷片が示す物語は今は昔程に東洋では普通ではなくなつた事情にもとづいたものである。と言ふのは婦人達が「往昔」より用心深くなつてゐる爲めか、或は基督教者が昔より幸運《しあはせ》になつてるのか、或は冐險心が乏しくなつたが爲めかなのである。  此物語は完結すると、一人の女の奴隸が貞操を汚したといふので、回教徒の風習に依つて、海中に投げ込まれ、彼女の愛人だつた若いヴエニス人がその復讐をしたといふ異状な事件を含んでゐた。その頃彼七島をヴエニス共和國が所有してゐて、ロシア人の侵略の後暫時はアルバニア人が掠奪を恣にしてゐたモレアから彼等が間もなく撃退された時だつた。ミシトラの掠奪が拒まれたのでマイナの住民が脱走した結果、その計畫を放棄することになり、モレアは荒廢するに到つた。その間到る處に行はれた殘虐は回教信者の記録にすら比類のないものだつた。 [#改ページ]   不信者 [#ここから1字下げ]  彼のアテネ人テミトクレスの墓の下に打ち寄せる、 その浪を割る風は、そよりとも吹かない。 その墓は斷崖の上に白く光つて 救ひ効のなかつた國土の上に高く立つて 家路に向ひ漕ぎ行く輕舟を最先《まつさき》に迎へてゐる。 こんな英雄は何時また生れることだらう。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] 清和《さやか》な風土ではある、惠まれた島々をいつくしむで 季節《とき》といふ季節をいつも微笑むでゐる 遠いかなたのコロナの丘から見ると それらの島を迎へ見る人の心を樂しませ そして孤獨に歡喜を與へる。 海の頬は和やかに笑くぼをたたんで 東洋の樂土である、その島々の岸を 洗つて笑ふ潮に映つる 山々峯々の色を照り返してゐる。 一時の折節の微《そよ》風が 眞澄みの青海の面を亂《さわ》がし 一花でも木から吹き散らしでもすれば、 そこに香が覺め、香が浮ぶ、 穩やかな風はおのもおのも嬉しいかぎりである。 何故かと言へば、崖の上に或は豁の上に そこに薔薇の花──夜鶯の妃と言はうか、 夜鶯の歌の調べの百千の歌節が 高い處で歌はれて、聽き手の處女の薔薇の花は 顏を赤めて愛人の話に聽き入つて咲いてゐる。 夜鶯の女王──花園の女王の薔薇の花は 風にも撓まず、雪にも凍えず 西の國の冬の寒さを遠く離れて 穩やかな風に、和やかな季節に惠まれていつも 自然の神の賜はり物の返禮に心を籠めて、 比類のない美しい色と、薫り高い吐息を 似るものもない尊き※[#「火+主」、第3水準1-87-40、&#[28855;]香として天に贈り 微笑みつつそれを受納される空に報ゐてゐる。 其處には數々の夏咲く花が開いてゐて、 愛人が戀を語り合ひさうな樹蔭の數々があり、 數々の洞窟もあつて、休息の場處になる筈のものが 客人《まろびと》として海賊が這入り込んでゐる。 海賊の小艇は隱[#「隱」は底本では「穩」]れるに都合のよい、下方の小灣に潜んで、 通つて行く平和な船舶を窺つてゐると、 やがて呑氣な水夫のギタの音が聞えて 夕星《ゆふつつ》の影が見え出す。 すると海賊は漕ぐ艇の櫂の音を消して 岩だらけの海岸を遠くまでのびる岩の影に隱[#「隱」は底本では「穩」]れて 夜歩るきの狼が餌食に襲ひかかり 水夫の愉しい謠を唸り聲に變へてしまふ。 不思議なことだ―場處を撰んで あらゆる色香と優美を混ぜて、恰も神の住家にと 自然が定めて置いた樂園の中に そこに人間が、苦惱に愛着して それを傷つけて荒野に變へて了ふなんて。そうして、 人間に一時間でも骨は折らせず、 培養の手數をかけさせず、 此の仙境の到るところに花は咲き匂つて 人間の配慮を締め出しておきながら、初々しく口説くのは ただ痛めないで欲しいとだけなのに、その花を 人間が野獸のやうに踏み躙るなんて。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] 不思議なことだ、一方では凡て平和を保つてゐるのに 激情は昂ぶるままに荒れ狂い、 色欲と掠奪とが猛威を逞しくして この美しい國土《くに》に暗い影を投げるなんて。 宛然《まるで》天人達を攻撃して、惡魔どもが勝を制《し》め、 解放された地獄の相續者が 天國の玉座を占めて居坐はるやうなものだ。 かうして歡喜の爲に造られたかうしたいみじき處場を 滅ぼす亂暴者こそ罰あたりと言ふべきである。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] 死の音訪れの最初の日の過ぎないうちに、 危險と苦悶の最後であつて 悲しい空無の最初の日が過ぎないうちに、 (衰退の抹殺の指が美貌の名殘りを 猶とどめてゐる筋々を消しきらないうちに) 死人のむくろに身を屈めて そうして温和な天使のやうな樣子《すがた》を 安らかに眠る憩ひの欣喜を 穩やかな頬の無氣力の痕を殘して 固まりながらも物軟らかな面影に 目を止めて見た人は 悲しい被物をした眼がなかつたら、  もう燃えもせず、誘ひもせず、涙も流さない  眼がなかつたら――冷たい變化しない額がなかつたら、 その額の生活機能終息の無感覺を見守る追悼者は その運命を頒けられでもするやうに、 怖ろしがりながらも、眼を外らさずに見まもる。 さうなんだ、是等のことさへなかつたら、 少時は、さうだ、頼みにならないが一時は 彼はまだ死の力を疑ふかも知れない。 死によつて示された最初の、そして最後の顏付きは 斯くも清らに、斯くも靜に、斯くも輕く封印を押される。 此の海岸の樣相はさういふものなのだ。 希臘には相違ないが生きてる希臘ではもうないのだ。 かうも冷たく匂はしく、かうも怖ろしく麗しい。 私達が吃驚するのは、其處には魂がないからだ。 別れの息と一緒に別れきつては終はない 死んだ女の美しさなのだ。 怖ろしい程の艶《にほ》ひを持つた美しさ、 墓場まで附きまとふあの色の美しさ、 表情の最後の褪せて行く光りなのだ。 腐朽を周つて去りやらぬ暈の金色、 過去の感情の告別の輝きなのだ。 輝いてもその光りが育んだ大地に もう熱は與えない天來の火群の火花なのだ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ]  忘れられてはゐないあの勇士の住んだ國土よ! 平野から山の洞穴へかけて、その國土一帶は 自由の民の故郷であり、榮譽ある人の墓所であり、 偉大なる者の神社であつたのだ。 希臘の遺物がただこれだけの筈はないのだ。 近づいて見るがよい、卑怯卑屈な奴隸よ、  どうだ、此處がセルモピレエではないか、 周圍を洗ふ青い浪は昔ながらの青さだ。  噫、彼の自由の民の奴隸根性の、子孫達よ、 此處は何と云ふ海なのだ、何と云ふ海岸なのだ? サラミスの灣、サラミスの岩だらう。 是等の風景も、その物語も知らない人はないのだ。 起て、起つて再びお前の物にするのだ。 お前達の祖先達の死灰から 祖先の熱情の火の燃え屑を攫み取るがよい。 そしてその戰ひに戰ひ死ぬものは お前達の壓制者が聞いて身震ひをする 一つの怖ろしい名を祖先のそれに附け加へて 息子達に一つの希望、一つの名聲を殘すだらうし、 息子達もまた耻辱より寧ろ死を欲すだらう。 何故なら、自由の戰ひは一度やりだしたら最後、 血を流す父《おや》から子へ遺し傳へて 縱令屡[#「尸+婁」、第3水準1-47-64、屢]々敗れても、いつかは勝つものだから。 希臘よ、お前の現在の記録に證據をとどめて、 數百年の永き時代に證明するがよいのだ。 塵挨だらけの暗に隱[#「隱」は底本では「穩」]されて王者達が 無名の金字塔を殘してゐる間に お前の英雄達は、縱令その墓が支柱さへも 失つて終つてるのが一般の運命ではあるけれど、 その墓より遙かに偉大な記念碑とも云ふべき 祖國の山々を自分の物だと主張する權利を持つてゐる。 お前の國の詩の神は他國人の眼に 亡ぼすことの出來ない人達の墓をそこに指し示すのだ。 隆んであつた名聲が耻辱に墮ちて行つたその一歩一歩を 尋ねることは悲しく、話したら長いことであらう。 お前の魂が自分で墮落したまでは──もう云ふまい── どんな外敵もそれを抑へることは出來なかつたのだ。 さうだとも、自己抛棄がやすやすと惡者の束縛と 專制者の支配を受けるに至らしめたのだ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] お前の國の海岸を踏む人は何を語り得ようか。  お前のいにしへの古い譚もなければ、 お前の國のをとこたちがお前の國を辱めなかつた時の 遠い昔のお前の詩の神のやうに高く、  詩の神が翼を張つて、翔けり得る話題もない。 お前の豁々の間《うち》に育まれた人達の その火のやうな魂が息子達を導いて  崇高な行爲をさせたかも知れないのに、 搖籃から墓へ這つて行く。 彼等は奴隸なのだ、奴隸のまた奴隸なのだ、 ただ罪惡へ動くばかりの、一切無感覺の奴隸なのだ。 人類を汚す邪惡と言ふ邪惡の色に染まつて 野獸を殆んど撰ぶところがないのだ。 野蠻な徳すら身につけてはゐず 自由な或は雄々しい度胸のある人間なんて一人もないくせに 隣國の港港へ持つて行くものと云へば 名代の手管と昔しながらの術策なのだ。 油斷のならない希臘の現状は是なのだ。 世に知られてるのは此の爲めだ、この爲めばかりだ。 奴役に馴致された精神を 軛を求めて低げるその首を起さうとして 自由が活《かつ》を入れてみたつて無駄なことだ。 希臘の悲哀を私はもう慨歎かない、 でもとの物語りは悼ましい物語であらう。 で此物語を聽く人は信じてよいのだ、 最初にそれを聽いた男は歎く理由があつたのだと。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ]  遠々と、暗らく、青海原を掠めて 延びてゆく岩々の影々が まいのおと[#「まいのおと」に傍点]と呼ばれる海賊の 小艇のやうに漁夫の眼に顯つ。 その海賊の輕舟を怖れて 漁夫は道は近いのだが、怪訝[#「訝」の「言」に代えて「りっしんべん」]《いぶ》しい入江を避ける。 仕事で疲れきつては居たし、 捕つて積んだ魚が邪魔にはなつたが のろのろと、それでもぐひぐひ櫂を漕ぐ。 やがて、もう心配の要らないレオン港の海岸の 東洋の一夜に最も適はしい 美しい灯がその漁夫を迎へる。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ]  馬衡《はみ》と弛め、馬蹄《つめ》を速めて 眞黒な馬をとどろとどろと飛ばせるのは誰だ? 疾驅する馬の蹄鐵の下に 打てば鞭の、躍れば蹄の音に應へて 洞穴に潜める反響《こだま》が周圍に起る。 駒の側腹に條《すじ》を引く汗泡《あせ》は 大洋《うみ》の潮《うしほ》の凝れるかと怪しまれる。 疲れた浪は今は靜まつて立たないが、 馬上の人の胸の中は少しも休まつてはゐない。 そして明日の日の暴風《あらし》雨が脅かさうとも 若き不信者よ、お前の心に較べたらずつと穩やかなのだ。 私はお前を知らないし、お前の民族は嫌ひだ、 だが、お前の顏には、時が強めもこそすれ 消すことのないものを私は認める。 若い蒼白い顏だが、その土氣色の前額は 火のやうな情熱の鉾先に損はれてゐる。 流れ星のやうにお前が走せ去つて行くとき その凶眼は地に向けられてゐるけれども、 つらつらに觀て、お前は土耳古人達が避けるか 殺すかどつちかしなければすまない人間だと思ふのだ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ]  眞《ひた》急ぎに彼が逃げて行つたとき 私は怪しむで彼を見詰たのだ。 夜行の惡鬼のやうに通り過ぎ見えなくなつたが 彼の容貌とその風彩が私の胸の上に 何やら不氣味な記憶を刻みつけたし、 いつまでも彼の黒馬の怖ろしい蹄の音が 愕然と駭かされた私の耳に鳴つて殘つた。 彼は馬に拍車をかける。あの絶壁──出つ張つて その影が海上を隈取つてゐる絶壁に近づく。 まわり、廻つて、急いで通つて行く。 岩の爲めに私に見えなくなつて彼は助かるのだ、 何故つて、逃亡者に眼を離さない人間なんて 頼しくない存在なのだから。 斯うした際限もない逃亡を續ける人には 輝《て》らす星屑の一つでも明る過ぎるのだ。 廻り廻つて急いだが、通つて行つて終はぬうちに 見納め心か、一瞥を彼は偸んだ。 ほんの瞬時《ひととき》だつたが、疾走する馬を控へて 速力の爲めの息切れの氣息を休めて 鐙を踏張つて彼は立ちあがつた。―― 何故彼は橄欖の樹の森を見渡すのか? かの小丘の上に三日月の影が仄かに輝いて居る。 回教の寺院の高いところの灯はまだ震えてゐる。 餘り距離が遠過ぎて、撃つてゐる 小銃の音の反響《こだま》も聞えないけれども、 それが樂しく鳴るたんびに銃火の閃光が見えて、 回教信者の熱狂振りを證據立ててゐる。 らあまざに[#「らあまざに」に傍点]祭の日の太陽は落ちて 此の夜ばいらむ[#「ばいらむ」に傍点]祭の祝宴が始まつてゐるのだ、 此の夜を──だが、お前は誰なのだ、何者なのだ。 見慣れない服裝をして、怖しい顏をしてゐるのは? お前やお前の一族に此の祝祭がどんな關係があつて 止まつて見たり、逃げたりしなければならないのか? [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ]  彼は鐙を踏んで立つた──顏には何か恐怖の色が見えた。 恐怖の色は間もなく憎惡の色に變つた。 氣味の惡い程白いのが憂欝をそへる 墓の上の大理石のその蒼白な色だつた。 眉は顰められ、眼は底光りがしてゐた。 彼は腕を差し上げた、猛烈にさし上げた。 そして嚴しく手を高く振つた。 引き返さうか、逃げ終さうかと迷つてゐるかのやうに。 遁走が延引《おく》れたのをもどかしがつて ぬば玉の彼の黒馬は高く嘶いた―― 差し上げた手をさつと引いて、むづと劍を握つた。 握つたその音が彼の現《うつゝ》の夢を破つた、 梟の叫びを聽いて、愕然と眠りから覺める人のやうに。 拍車は彼の馬の腹部《はら》を刺して 高く投げられた槍のやうに迅速に 驅り去るや、まつしぐら。 蹴られて愕き、馬は躍る。 岩角を廻つて最早海岸は戞然と鳴る その蹄の昔に震へることもない。 目ざした斷崖に行き着いて、彼の基督教徒の 被り物の飾りも傲然たる風貌も見えなくなつた。 ぐいと嚴しく、手綱を絞つて、悍しいあの馬を 抑《と》止めたのはほんの瞬間《ひととき》に過ぎなかつたし 彼が馬上に立つたのも、ほんの一瞬間であつて 死靈に追はれてゐるかのやうに、急いで行つて終つた。 だが、その束の間を彼の魂の上に 思ひ出の幾歳の浪が打ち寄せて 月日《とき》のそのただ一滴に苦惱のながき一生と 罪惡の一時代が集まるやうに思はれた。 愛したり、憎んだり、怖れたりする人の上に 斯うした瞬間が、幾歳の悲歎を濺ぎ懸けるものなのだ。 いとも強く胸を攪き亂す、あらゆるものの同時の 壓迫を受けてその時彼は何を感じたのか? 熟々に彼の運命に考へ及ばせたその合間《ぼうず》、 ああ、その一時の、寂しくも長い月日の 日附けを記くものがあるであらうか。 時の記録からすれば、殆んど無に等しいものではあつたが、 思想に取つては、それは永遠であつたのだ。 名も、望も、終りもない苦惱を それ自身に含むことの出來る思想は 良心をかならず抱えてゐるもので 無邊の空間のやうに無限だからである。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] あの時は過ぎた、あの不信者は居なくなつた。 彼は逃げたか、或は獨り戰ひ死んだか? 彼が來た時、或は去つた時、その時が禍なのだ。 ハツサンの罪の爲に宮殿を墓に變へるべく 呪詛が送られたのであつた。 沙漠の熱風のやうに彼はやつて來て、去つて終つたのだ、 破滅と憂欝の先驅《さきぶれ》者とも言ふべく、 荒らし卷くるその風に吹かれては 絲繪の木だつて萎れて枯れて了ふ── 無氣味な木だが、他のものが悲しみを忘れても いつも偸らず俛首れて、墓の主を悼むのは此木だけだ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ]  厩舍の馬は消えてなくなつてゐる。 ハツサン[#「ハツサン」は底本では「ハツオン」]の邸宅には農奴一人ゐない。 壁の上を擴がつて徐に浪をうたせてゐるのは 孤獨な蜘蛛が懸けた灰色の帷帳だ。 妾妻を置いてゐた部屋の中は蝙蝠が巣を食つて 彼の威力を誇つた城砦では 梟が烽火塔を横領してゐる。 渇いても、餓えても、飮めもせず、食へもしないで 獰猛になつた野犬が、噴泉の縁を咆え歩るくのは 大理石の床に湛へた水は涸れて、一面に 雜草や塵挨に荒はててゐるからだ。 その昔、水が高く跳つて、銀の露の玉は 氣紛れに渦を卷いて飛び散り あたりの空氣を冷えびえとここちよく冷えさせ 地面を青々と草に生氣をもたせて 噴き出して、蒸し暑い晝日中の熱氣を 追ひ拂ふのは見るからに愉しいものだつた。 雲のない空に星屑が明るく輝く時、 蒼白く光るその水の浪を見、そしてまた 夜の泉の旋律《しらべ》を聽くのは樂しかつたものだ。 ハツサンが幼少の時分たびたび その小瀧の縁を廻つて遊んだものだつたし、 母親の胸に抱かれて、その音をききながら よい氣持に眠つたこともしばしばだつた。 ハツサンが青年になつてからその泉の岸沿ひに 美女の歌謠に慰められたことも度々あつた。 そしてその泉の音に溶け合つて流るるやうな 音樂の音色が一つ一つ一層|和《なご》[#「なご」は底本では「 ご」]やかに思はれたのだつた。 だが、老樂のハツサンがその泉の縁沿ひに 日が暮れてから休息することは決してあるまい。 その泉を滿した流れは涸れて 彼の心を温めた血は流されてゐるのだ。 そして此處では怒り、悔ひ、興じ悦ぶ 人間の聲は最早聽かれはしなからう。 風が孕《はら》んで傳へた最後の悲しい響は 女の狂はしい、最《いと》も悲しい泣き聲だつた。 その聲が靜寂に消えて、風の亂《さわ》ぐ時 はたはたと格子窓が鳴るばかり、 大風が吹かうとも、大雨が降らうとも その窓の釦金をかけるものもないであらう。 砂漠の砂の上の足跡、たとひそれが野蠻人の足跡であらうとも 同胞《にんげん》の足跡だと判つたら嬉しからう。 だから、此處では悲哀の聲そのものであつてすら 慰安に似た一つの反響を覺ましもしよう―― 少くともその聲は言ふだらう「誰も居ないのではない。 一人だけでも生命が殘つてゐる」と―― 何故と言ふと、孤獨の立ち入ることを許さない、 金色に光り輝く室が數々あるし 丸屋根の内部の腐蝕の進みは遲く その痕跡もまだ著しく現はれてはゐないからだ。 だが門の上には陰氣の影が覆つてゐて、 乞食だつてそこへ來て待つこともしない。 遍路の托鉢僧も足を留めないのは 足をとめて見ても施物を貰へないからだ。 旅に疲れた他國人も神聖な「麺麭と鹽」を祝福し、主人と 食卓を共にするために逗留しようともしないのだ。 富裕《とめる》も貧困《まずしき》も一樣に注意もしなければ、 注意もされずに通《とほ》つて終はなければならないのだ。 と云ふのは、禮儀も憐憫もハツサンと共に 山の斜面で死|滅《ぼろ》びてしまつたからだ。 人間に取つての隱[#「隱」は底本では「穩」]れ場處だつた、ハツサンの屋敷の屋根も 荒廢ががつがつと飢えて住む洞窟のやうなものなのだ。 [#ここで字下げ終わり] ハツサンの土耳古帽が異教者の軍刀で割られてからは 客人はその邸を逃げ去り、農奴は勞役を脱れてゐるのだ。 [#ここから1字下げ]  來る人の足音が、聽へはするけれども 人聲は一つも私の耳に入つては來ない。 だんだん近付くと、頭巾が一つ一つ見えるし 銀鞘無鍔の長釼が眼につく。 その一隊の最先に居る人の着てゐる服裝が 緑《みどり》色なので君侯であることが判る。 「おい誰だ貴樣は」「此の低い辭儀が 私は回教を信仰するものだとのお答になりまする」 あなた樣がしづかに持たれて行くお荷物は 餘程大事に扱はなければならない物でせうし、 疑ひもなく何か大切なものが入つてゐるのでせう。  汚《むさ》い小舟《ふね》ですが喜んでお待ち申します」 「尤もな言分。その輕舟の繋留《ともづな》を解いて 私達を乘せて、この靜かな岸を離れてくれ。 帆は疊んだままにしておいて 散らばつた手近の櫂を漕いで 岩と岩の間の水が藍に淀むでゐる その岩のなかほどへ行くのだ、 手を休めろ――さうぢや――ようやりおつた、 わしどもは即刻《ぢき》に來て了つた、 だが然し、旅は長い航海《たび》であらう、 あれが、あのものが行く――×  ×  × [#ここで字下げ終わり]  ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  ざふりと物が落ち込んで、徐々に沈んで 靜かな浪は岸まで漣を寄せた。 それが沈んだあいだ私はそれを見守つたが 水流の爲めに生じたある運動《うごき》が、思ひなしか 一層その物を動したやうだつた。──が それは流れ動く水上に市松模樣を疊んだ光線に過ぎなかつた。 熟つと見て居たが遂に視界から消えながら だんだん小さくなつて行く礫《こいし》のやうに退いてしまつた。 潮を鏤めた眞珠の一點とばかり、小さく、小さく、 見えるとも、見えないともわからなくなつた。 そしてそのかくされた秘密は全て眠つてしまつて、 知つてゐるのは海の守神ばかりだが その守り神達も珊瑚の洞穴の中で身震ひをしながら 浪にすら、その秘事《かくしごと》を敢て囁かうともしないのだ。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  東洋の春の昆虫の女王が その紫の翅を擴げて、カシミーアの、 鮮緑《えめらるど》の牧場の上を起ち舞ひながら 年若い追ひ手を誘《おび》き寄せて 花から花へ、伴れ廻り、引つ張り廻はして 無益な時を使はせ疲《くたび》れもうけをさせておいて 心を喘えがせ、目に涙をためさせて 若者を後に殘して、高く飛んで行つてしまふ。 それと同樣な輝しい色と、同樣な氣紛れな翅を備へて、 美女は大人になつた子供を同じやうに誘惑するのだ。 愚行に始まつて、泣きの涙に終つた 無益《いたづら》な希望と恐怖の追物なのだ。 若し捕まれば、等しく不幸に裏切られて、 蝶と處女を待つものは歎きなのだ。 苦痛の一生と平和の損失もその根源は 兒戲からと、それから大人のむら氣からなのだ。 猛烈に求められた綺麗な玩具。 捕へられては、その魅力がなくなつてしまふ。 逃がすまいとする指に觸《さは》られるたんびに 目ざましい鮮やかな色が擦り落されて しまひには魅力も、色も、美しさも失はれて 飛んで逃げるか、さもなくば、獨りで死ぬまで 放つて置かれなければならないのだ。 翅は傷つけられ、胸に血を滲ませながら、 どつちの犧牲者も何處へ行つて休むのだらう。 蝶とても光澤を失つた翅で昔のやうに 薔薇から欝金香へと飛べるであらうか。 美女も一時の間に萎凋《から》されて 破られたその女部屋のうちに歡喜を見出せるだらうか。 そりゃ駄目だ。傍を飛ぶもつとはでやかな蝶々が 死にかけた蝶々の上に翅を垂れて悲しむこともなければ 美女達は自分のものの外は何《どんな》缺點にも 慈悲を示しもし、許しもしたし、 どんな不幸にも一滴の涙を流しもしたが 女の道をはずす姉妹《をんな》の耻辱は例外だ。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ] 犯した罪の歎きを抱いてゐる知性は  火に取り圍まれた蠍《さそり》のやうなものだ。 輪を次第に狹めながら火が光つて、 火群がその火群の捕虜《とりこ》の周圍に迫るとき 無數の痛手の奧深く探りをいれられて  憤りに氣も狂ひながら、悲しい、唯一つしかない 苦痛を輕くする方法《てだて》を捕虜は知つてゐる。 それは敵を刺すために育てておいた針をつき立てることだ。 その針の毒はまだ嘗つて無効に終つたことはなく、 一度は劇しい痛を覺えても、痛みも疼きも皆消して 必死の腦髓に深く突入するものなのだ。 魂に黒い影を持つものは、そんな風に死ぬか、 火に圍まれた蠍のやうに生きてゐるからなのだ。 後悔に裂かれた知性《ところ》はそルな風に苦悶するものだ。 地には不適當《ふむき》で、天には登れないのが運命だ。 上方は暗黒であり、下方は絶望であり、 周回は火焔[#「火+陷のつくり」、第3水準1-87-49、焰]であり、内部は死なのだ。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  色黒いハツサンは妻妾の部屋には寄りつかず 女には眼を向けもしない。 爲慣れない狩りに時を使つてゐながらも 狩り人のその歡喜を頒《わか》つこともない。 彼の宮殿にレイラが住まつてゐた時は ハツサンは斯んなに家に居つかないことはなかつた。 レイラはもう邸宅《やしき》には居ないのか? その話しならハツサン丈しか話せないのだ。 私達の市では妙な噂が飛んでゐる、 ラマザンの祭りの日の陽が落沈んで そこかしこの寺院《てら》寺院の長尖塔から閃めく 無數の灯火《らんぷ》が廣大な東洋の國トルコの中に バイラムの祭を告らせた時の その夕暮に、[#「夕暮に、」は底本では「夕暮、に」]レイラは出奔《にげ》てしまつたのだ。 その晩、彼女は風呂場に行く風をして出てしまつたのだ。 怒に燃えて、ハツサンは風呂場を探したが居なかつた。 ジオジア人の小姓風に姿を扮《やつ》して彼女は、 主人《あるじ》の激怒を脱れたのだつた。 回教の君主ハツサンといえどもどうしようもない あの不信の異教者と共に彼に耻を與へたのだつた。 そのことをハツサンは考えて見ないこともなかつた だが、レイラがいつも可愛《らうた》く、いつも美しく思はれて、 レイラをすつかり信頼しきつてゐたのを 裏切つたのだから殺されても仕方がなかつたのだ。 その夕ハツサンは寺院に出向いて そこから自分の凉亭での食宴に出かけたのだつたとは、 預かつておきながら、その預かりものの監視をおこたつた ぬびあ[#「ぬびあ」に傍点]人の女どもの言ふところなのだつたが、 他の人達の話しでは、その夜、 青白く照らす月の震へる光で 眞黒な馬に跨つた異教《じやわあ》人が見られたが 血塗れの拍車をかけて海岸沿ひを 獨り馬を急がして行つただけで 處女《をんな》も小姓も、馬の後には乘せてはゐなかつた。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  レイラの眼の黒い魅力を話しても効はあるまい。 だが、羚羊の眼をじつくり眺めて見たら それがお前の想像の助けになるだらう。 その羚羊のやうな大きな眼、惱ましくも暗い眼、 だが、じやむしつど[#「じやむしつど」に傍点]の名高い寶石のやうに 眼瞼の下から射出する火花にきらきらと 魂がきらめいて出て來たのである。 さうだ、魂だ。教主が言ふやうに、形骸はただ 息の通《かよ》つてゐる土塊に過ぎないのであつたら、 斷じてさうではないと私は言はう。 極樂の淨土をすぐ眼の前にひかへてその 淨土の女菩薩が擧つて手招ぎをしてゐて 下方は火の海、上方にゆらゆら搖れる アルシラツトの橋の上に私が立つたにしてもだ。 噫 若いレイラの眼を讀むことが出來て それでも女といふものが土塊に過ぎず、 暴君の色欲の爲めの魂のない玩具だと言ふ その信仰箇條のその部分をなほ信じるものがあるだらうか? 回教の法典を説く人達が熟く彼女に目を止めて見たなら 彼女の眼から不滅の神の光が輝いたと云つたかも知れない。 清らかに褪せることのない彼女の頬の上に 柘榴の若花が、いつも瑞々しく 赤く燃えて匂を散らしていた。 彼女の髮の毛はヒヤシンスの紫色《むらさき》に流れて とりあげずに疊んでおかれたとき、 廣間の侍女達の中に立つて、 そのだれにも立ち優つて見られて、 その長い髮が拂つた大理石の床《ゆか》の上に 輝々《てら/\》と光つた彼女の足は 高山の雲から落ちて來て 地上の汚れに染む前の霰よりも白かつた。 若鳥の白鳥が氣高く水を泳ぐ。 その白鳥のやうにさあかしあ[#「さあかしあ」に傍点]の女は地を歩むだのだ。 さあかしあ[#「さあかしあ」に傍点]の美しい鳥の中の鳥の白鳥、 その白鳥の居る水をかぎる堤を  見知らぬ男が歩るいて通ると 羽毛を逆立てて、白鳥は首を持ち上げて 矜持《ほこり》の翼を張つて、浪を蹴る。 その白鳥にも優つて持ちあげたレイラの首は白く清《すが》しかつたのだ。 斯う美しさを身につけて無遠慮に見る人の目を 抑えるのだつた。愚者《うつけ》の熟視もついには 讃めるつもりだつた、その魅力に避易《ひるむ》でしまふ。 彼女の歩態もそういふ風に高雅で上品だつた。 被女の情愛も配偶《つれあひ》者に甚だ優しいものだつた。 彼女の配偶者嚴格なハツサン、彼は何者だつたのだ。 嗟かはしくも、その名はお前には不釣合だつた。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  嚴格なハツサンは二十人の家來を伴ひ 一路の旅に出て、家來はそれぞれに 火繩銃と、無鍔の長劍を携へて 壯士に最も似つかはしい武裝をしてゐた。 先を行く首領もまた武裝をして 劒帶に偃月刀を帶に釣つてゐる。 その刀は叛逆者達が峽路を阨した時 その逆賊の頭目を切つて、その血を吸はせたものであつて パルネの谷で起つた慘澹たる事件を 歸つて話したものは殆んどなかつたのだ。 ハツサンの腰帶に佩びた拳銃は その昔、士耳古の高官ぱしや[#「ぱしや」に傍点]が身につけたもので 寶石を鏤め、黄金の飾りに盛り上つてゐたけれども 盜賊でさへ、見ると怖氣を震ふものだつた。 ハツサンはその身邊を離れていつた女よりも實意のある 花嫁に逢つて縁談をすすめに行くといふ噂があるのだ。 姦夫を室に引き入れるなんて、不貞な女ではないか、 不貞よりも惡いのだ、異教者と通じるなんて! [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  夕陽は山上にその名殘をとめて 谿川にきらきらと輝《ひか》つて、 透き通つて、冷たいその快い水を 杣人は祝福して飮む。 のろくさと道を行く希臘人の商人も此處へ來ては その主人の餘り身近に宿を取つて 内密の蓄財を氣にして震えながら、市街の中では 求めても得られない安眠が出來もしやうし、 群衆の中では奴隸でも、無人の境では自由であつて、 人目のない此處では休息も取れやうし 回教徒として飮んでならない、大杯をなみなみと 禁止の赤葡萄酒で染めることも出來もしやう。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  黄色の頭巾が際立つて見える。 最先を行く韃靼人は山峽に入つてゐる。 殘餘の騎馬は長蛇の列をなしてあとに續いて 長い峽道を徐かに廻つて行く。 頭上高く一峰聳え立つて、そこに 兀鷹が血に渇いて嘴を研いでゐるが、 明日の朝の陽が射さないうちに、山を降りて來るだらう、 鷹の馳走が今夜あるかも知れないのだから。 足下の一河は冬こそ流れもしたが、 夏の陽射しに涸れてしまつてゐて そこに生えてそこに枯れる灌木の叢の外には 何にもない物淋しい水道が殘つてゐるばかりだ。 中程の道の右にも左にも轉つてゐるのは 灰色の御影石の小さく碎けた巖だが 天の霧の衣を着た山頂から 時の力か若くは山の電光に割かれて落ちたのである。 といふのは、リアクラの山の嶺の霧が晴れたのを 見た人は何處にも居ないのだから。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  その一行は遂に松林のあるところへ着く。 「びすみら! もうだいじやうぶ、危險はないぞ。 廣々とあすこに平野が見えるではないか、 拍車をかけて、大急ぎにいそがうよ」 軍曹はそう言つたが、と同時に  一彈がひうと、彼の頭上に鳴つて 最先をかけた韃靼人が落馬する。  彼等は手綱を控えるいとまもなく ひらりひらりと乘手は馬を跳び降りる。  だが三人はもう馬上の人となることはあるまい。 手傷を蒙らせた敵の姿は見えない  死にかけてゐる人が復讐を求めてもその効はないのだ。 劍の鞘を拂ひ、騎銃を構えて  馬を楯に、半は身を隱[#「隱」は底本では「穩」]し 馬具に寄りかかつたものもあつたし、 手のとどくばかりの近い岩の後へ逃げて 來るべき衝突を、待ちかまへたものもあつたが 岩の屏風を敢えて棄てようともせず 姿を見せない敵の箭に射すくめられて、 傷つく爲めにむざむざ立つてゐるものはなかつた。 だが嚴格なハツサンは下馬を輕蔑して 一人だけ路を乘りすすめて行く。 ぱつぱつと先頭に銃火が閃いて、 見込んだ餌食の利益に今はなつてゐる。 一つだけの道を盜賊の一族か 確實に占據してゐることを明らかに告げる。 するとあの怖ろしい髯を怒にうねらせ もつと怖ろしい火に眼を燃えたたせて 「どこから彈丸が飛んで來やうと、それがなんだ、 もつと血みどろの危機を脱して來てゐる俺だ。」 すると隱[#「隱」は底本では「穩」]れ場處を棄てて出て來た敵が 彼の家來達に屈服を呼びかける。 だが敵の劍よりも怖れられてるのは ハツサンの澁面と怒りの聲なのだ。 彼の隊の人數こそ少なかつたけれど 騎銃を捨てゝ劍を抛つものは一人もなかつたし 降參《まいつた》といふ卑怯な聲を立てるものもなかつた。 次第次第に近くなつて、今まで埋伏してゐた敵が はつきりとまともに見えて來る。 そして松林を出外れて進みくる一人が 軍馬に跨がつて躍つてゐる。 血みどろの右の手に遠くまで閃らめいて見える 見慣れぬ劍を振つて、一隊を率いる者は誰だ。 「彼奴だ。彼奴だ。もう判つたぞ、 蒼白い彼奴の額《ひたい》に見覺えがある。 嫉ましい裏切の、助けになつた 忌はしい眼付に見覺えがある。 乘つてゐる黒馬で彼奴だと判る。 おのれの忌はしい信仰を捨てて 山賊の服裝をして居たつても それで命が助かりつこはないのだ。 彼奴だ、いつなんどきでも遭ひ効のある奴、 死んだレイラの情人《をとこ》、罰當りの異教者だ。」 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ] 一潟千里の勢いで川が眞黒くなつて 直押しに大洋へ流れ込んで行くやうに  それに對抗して、潮が動いて 昂然と青柱を立てて、光つて 川の流れを撃ち返すこと數十尺、 泡を捲き沫を疊んで、水と水とが混る。 旋る渦卷と割れて碎ける浪は 冬の疾風に醒めて、怒號して荒れ狂ふ。 火花と散る飛沫を貫いて、鳴りはためいて 水の稻妻は海岸の上を閃めいて照らす。 その白きこと言ふばかりもなく その轟く音の下に岸は煌然と震え搖く。 斯んな風なのだ、──遭ひつつも浪は狂氣して 川と大洋《うみ》が迎へ合ふやうに 相互の非行と、憤激と、宿命に驅られる 一隊と一隊は斯んな風に落ち合ふのだ。 啀《く》ひ合つて震へる軍刀の鳴る音。  遠くにとどろき、或は近くに鳴つて  飛び來る遠彈丸が耳を掠めて どきどきする耳にその響を殘す。 衝突と叫喚と戰ひの唸きが  牧羊者の物語りに寧ろ似つかはしい  その山峽に反響《こだま》する。 縱令人數は多くなくつても彼等の戰鬪は 助命もしなければ助命も求めない烈しいものなのだ。 嗟、若い愛人同志が愛撫を頒け合ふために しつかり胸を抱き合せもしやう、 だがしかし美が溜息をついて、許さうとする全てを求めて 愛そのものが喘ぎに喘いでみたところで 敵同志の最後の抱擁── 戰つて、取つ組んで、絡み合つたが最後 斷じて絡めた互ひの腕を弛めないその抱擁に 憎惡が加へる熱の半分にも及ぶまい。 友達は別れるために逢ひ、愛は誠實を嘲笑ふ。 眞實の敵は遭つたが最後死ぬまでは離れないのだ。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  軍刀は柄元まで碎かれてはゐるが 彼が流した血に滴りながら 不忠な刄を周つてぴくぴく動いて その切り離された手にしつかりと握られてゐる。 遙か後方に彼の頭巾は轉がつてゐて 最も堅固なとぐろ卷きの天邊を二つに割られてゐる。 寛やかに長々と着こなされた外衣は 偃月刀に切り裂かれて、その日が暴風に終る その前兆のどす黒い縞目を引く 曙の雲のやうに眞紅の色に染まつてゐた。 彼の更紗木綿の斷片が引つかかつてゐた どの林叢にも生々しい血糊がついてゐた。 胸は無數の刀瘡で引き割かれて 背を地につけ、顏を天に向けて、 死んだハツサンは横はつてゐる――開けたままの眼は まだ怒氣を含んで敵を睨むでゐるさまはさながら、 彼の運命を定めた時が過ぎたあとまで 消すことの出來ない憎惡を殘してゐるやうだつた。 そして死躰を屈み腰にみてゐるその敵の額は 血まみれて死んでゐる人の額と同じやうに怖ろしかつた。―― [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ] 「さうだ、レイラは浪の下に眠つてゐるのだ。 が、彼奴の墓はもつと赤いものにしてやるのだ。 レイラの精神が刄先を充分に尖らせて、 あの殘忍な心に思ひ知らせたのだ。 彼奴はまほめつと[#「まほめつと」に傍点]に呼びかけたが、まほめつと[#「まほめつと」に傍点]の力は 復讐に燃える不信者には効目はなかつた。 彼奴は神《あら》の助けを求めた、だがその言葉は 神には聞えなかつたし、注意もされなかつたのだ。 愚昧な回教徒め、貴樣《きさま》の祈祷[#「示+壽」、第3水準1-89-35、禱]が神意に適つて レイラの祈祷[#「示+壽」、第3水準1-89-35、禱]が容れられない筈があるものか。 時機の來るのを私は見守つてゐた、此度は彼奴の番だ。 彼奴を捕へる爲に私は山賊と結托したのだ。 憤怒は晴れた、やつつけて了つたのだ。 ではもう私は出掛けるが、獨りぼつちで行くのだ。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  ×    ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  草を食む幾頭の駱駝の鈴が鳴つてゐる。 ハツサンの母は高い格子窓から眺めて  眼下の青々とした牧場に撒かれたやうに 夕の露が置かれてゐるのを彼女は見たし  微かに瞬いてゐる星屑も見た。 「もうたそがれ──彼の行列も近づいてゐるにちがひない。」 彼女は庭の亭に休息を取ることも出來ずに 一番高い塔の窓格子からぢつと外を眺めたのだつた。  「何故彼は來ないのだらう、馬は駿足ではあるし、 暑さに避易《ひるみ》はしない筈。 約束の進物を花嫁に何故送つては來ないのだ。 彼の心が割合に冷たく、馬が餘り速くないのか、 ああ、この非難は間違つてゐる、あしこに見える韃靼人は 間近くの山の上端に到達してゐて、 用心深く險路を降りはじめ もう谿のうちへ向つて來るが 鞍に前穹に進物をつけてゐる。 馬が遲いなぞ考えるのではなかつた。 はるばる急いで來て呉れた 返禮に贈り物を充分にしてやりませう。」 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ] 山を降りて來た韃靼人は門で馬を下りたが、 疲れきつてゐて、立つてはゐられないやうだつた。 黝ずんだ彼の顏が苦惱を語つてゐた。 だがそれは疲勞の爲めかも知れなかつた。 彼の衣服に斑々と血の汚點がついてゐたが、 その血は馬の腹からの血であるかも知れなかつた。 彼の肌衣から取り出した記念の品品── や、や、これは! ハツサンの割られた兜のはちまん座、 裂れた土耳古帽と血染めの肌衣《かふたん》だつた。 「奧方、怖ろしい花嫁を主公は迎えられたのです。 敵の慈悲《なさけ》で私は助けられたのではありませぬ。 血に染まつた抵當《かたみ》物を携えて來る爲めなのです。 血をこぼされた勇者に平和がありますように、 血をこぼした不信者に禍がありますように」 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  極めて粗末な石に土耳古帽が刻まれて、 故人を追悼する古蘭の詩句も 今は殆んど讀まれなくなつてゐる 雜草の生ひ茂つた一柱の墓石は あの淋しい谿の犧牲者の一人として ハツサンが戰ひ死んだ場所を指し示してゐる。 めつか[#「めつか」に傍点]に跪き禮をした回教徒 禁ぜられた葡萄酒を口にしなかつた回教徒 あら[#「あら」に傍点]、ひゆう[#「ひゆう」に傍点]といふ嚴肅な聲を聽いて、 更に新しく唱へ始める祈祷[#「示+壽」、第3水準1-89-35、禱]の時 かの靈廟の方に顏を向けて祈つた回教徒の 誰にも勝つて誠實な回教徒がそこに眠つてゐるのだ。 でも彼の故國にあつては知る人もない 一人の他國人の手にかかつて死んだのだ。 だが、彼は武器を手にして戰ひ死んでその恨みは 少くも相手を殺して、晴らしてはもらへないのだ。 でも極樂の美女達はその部屋部屋で、  彼が行くのを待ちあぐんでゐるのだし、 その女菩薩達の美しい黒い眼は  いつも輝いて彼を迎へ見るだらう。 その極樂の麗人達が來る──緑色の頭巾を振ながら それそれに勇者を迎へて接唇を一つ與へるのだ。 不信者を敵として戰死する勇者こそ 極樂の女部屋に入る最適人者なのだ。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  因果を思ひ知らせる、地獄の鬼の大鎌に刈られて 間違つた不信者はのたうたなければならないのだ。 その鎌の呵責を脱れて淋びしく獨り 閻魔の王座のあたりをうろつかなければならないのだ。 いつも燃え熾つて、消すことの出來ない地獄の劫火に お前の心は迫められ、燒かれて居なければならないものだ。 内心の地獄の拷問呵責はとても 聽くにも耐えず語ることも出來ないものだ。 だが、先づ最初に吸血鬼として送られ お前の死骸は墓から割き離されねばならないのだ。 それからお前の故郷に氣味の惡るい出沒をして 妻子眷族の血を吸はなければならないのだ。 お前の娘の、お前の妹の、お前の妻の 生命の流れを眞夜中に吸ひ干さなければならないのだ。 是が非でも生きてるお前の青ざめた死骸に 食べさせる馳走に嫌な思ひをしなければならないのだ。 お前の爲に死ぬものがまだ息のあるうちに その惡鬼が自分達の父《おや》だと知るだらう。 呪ひつ呪はれつ涜[#「さんずい+賣」]神の言葉を取り交はしながら お前の家族の美しい花は、いづれも立ち枯れに枯れるのだ。 だがお前の犯す罪惡の爲めに、死なねばならないものの一人、 わけてももつとも年の少ない、もつとも可愛い娘がお前を 父と呼んでお前を祝福するだらう── その言葉が、お前の心を火炎に包むだらう。 でもお前は爲事を遂げて、娘の頬の最後《なごり》の色を 娘の眼の最後《なごり》の閃らめきを、目に止めねばならないのだし、 生命を失つた碧《あを》色を冷え冷えと包む、 とろりとした最後の眼つきを、見なければならないのだ。 それから、その金色の頭髮の捲き毛を 穢れたお前の手で毟[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77、挘]らなければならないのだ。 その髮の一房を生あるうちに剪むだなら、 深い愛情の抵當として身につけられゐるものを、 今はお前の苦悶の記念物にお前は持つていつてしまふのだ。 お前の血を分けた一番可愛いものの血で濡れてお前の 齒ぎしる齒から、凄じい唇から、血が滴り落るだらう。 それからこつそり、陰氣なお前の墓へ歩いて行つて── 惡鬼羅刹と一緒になつて、亂舞するのだが、 惡鬼だつて羅刹だつて、もつともつと罰當りの 幽靈《おばけ》に避易して逃げてしまふだらう。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ] 彼處にゐる孤獨な希臘僧《かろやあ》はどう言ふ名前の男なのだ。  彼の顏を私自身の國で前に見たことがある。 それは大分むかしのことだが、あんな勢ひで  馬を飛ばす騎手を私はいまだ嘗つて 見たことがない程、まつしぐらに淋しい海岸を 馬を驅つて行くあの男を私は見たのだ。 一度丈見た顏だがでもその時分の その顏には内心の苦悶の色がありありと表はれてゐて 二度と看過すことの出來ないものだつたが 死の刻印を捺したやうに彼の額には それと同じ恐ろしい精神が今も示されてゐるのだ。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  「私達の僧侶の仲間入りをしてから、 それは六年前の夏のことだ。 彼が言はうとはしない何か怖ろしい行爲の爲めに  この僧院に居るのが彼の慰めになるのだ[#「なるのだ」は底本では「なるだ」]。 だが、私達と夕方の祈祷[#「示+壽」、第3水準1-89-35、禱]を共にしないし 懺悔の椅子の前に跪つきもしなければ、 香の煙が立ち昇らうと、唱歌の聲が響かうと 一向に彼は頓着しないで 僧房の中に獨りで考え込んでゐるばかり、 その宗教も民族も等しく不明なのだ。 回教の土地から海を越えて來て 沿岸から此處へ上陸して來たのだ。 だが土耳古民族らしくはないし 顏を見るとどうしても基督教徒に違ひないのだ。 その變節を後悔してゐる 迷つた背教者だと私は判《おも》ひたいのだが、 合點のいかないのは、私達の聖廟に參詣もしないし 神聖な麺麭と葡萄酒の食事も攝らないことだ。 莫大な進物をこの修道院に持つて來たので 院長殿のご機嫌はよかつたのだが 私が院長だつたら、もう一日だつて あんな見知らない男を滯在《とめ》ては置かないし 停めておくにしろ、懺悔室に押し込めて 永久にそこに住むやうにしてやるんだがな。 彼の男の夢まぼろしの呟きといへば 海の底に深く沈められた女 鏘然と鳴る軍刀の音、敗走する敵の兵士 復讐《かたき》をとげた意恨、死にかけてゐる回教徒のことなのだ。 彼はよく崖の上に立つことがあるんだ、 そして腕から切り落されたばかりの 血だらけの手首を見てゐるやうに譫言を言ふのだ、 彼の外には誰にも見えないのだが、 その手首が墓へ彼を招いて、 海の中へ跳び込めと誘ふんだ。」 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  ×    ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  薄黒い彼の僧衣の頭巾の下にぎろりと光る 眉を寄せた彼のしかめ顏は此の世のものではない。 見開いたあの眼の閃光りを見ると 過ぎ去つた年月がどんなに苦しかつたものかが判る。 その眼の色は變化があつて、はつきりしたものではないけれども、 その眼を見た人は見なければよかつたと思ふことがよくある。 といふのは無名の何とも言へない魔力が潜んでゐて それ自體名状しがたいものだが、優越を請求め、優越を保つてゐる 高いそしていまだに抑え切れずにゐる、精神を語つてゐるからだ。 翼を震はしながらも見据えてゐる蛇を 逃げることの出來ない鳥と同じに 此の男に見られた人は身慄ひはするけれど 耐えられないその視線をはづせないやうなものなのだ。 伴れがなく、ひよくり遭ひでもした僧は 生怖ろしくなつて、その瞥見と微苦笑から 奸智と恐怖を傳染されでもしたやうに 喜んで身を退きたいと思ふのであつた。 愛想笑ひをすることも、そう度々ではなかつたが、 笑へばそれは彼自身の不幸を嘲けるに 過ぎないので、見るも慘めなものだつた。 蒼ざめたあの唇は、卷いて、ぴくぴく震へて、それから 永久に笑はないといふやうに締まつて終ふ。 まるで彼の悲哀或は輕蔑がもう二度と笑ふまいぞと 彼に命令を下したやうなものだつた。 その方が餘つ程よいのだ──斯んな薄氣味の惡い笑ひは 歡喜からは決して生れては來るものではないのだ。 だがその顏に嘗つてどんな感情が動いたか その跡を覓ねたらなほなほ悲しいものであつたらう 歳月がまだその顏を固定したものにしてはゐないのだ。 邪惡とまぢつてより明《あか》るい痕跡が殘つてゐるのだ。 必しも褪めはててはゐない顏の色が 知性に動いて犯した數々の罪惡によつてですら 墮落しきつてはゐないその知性を語つてゐる。 一般の世の人達は氣紛れな行動とそれに適はしい 破滅の暗らい影を見るばかりだが、 近く寄つて能く見る人の目につく筈の 高貴の血統と崇高な精神が表はれてゐるのだ。 ああ、そのどつちも悲哀で變へられ、犯罪で汚されて 授かり効はなかつたけれども さうした高貴な贈り物附きの貸家は 平凡なありふれた貸家ではなかつたのだ。 それでもやつぱり殆んど恐怖と變らない感じを以つて さうしたものを視る眼はそれに惹きつけられるものだ。 行きずりの人逹は朽ち、廢れ、崩れ破れた  屋根のない小舍に足を停めはしないのが常だが、 戰爭であるひは暴風で傾いた城の櫓は 一つでもまだ鋸壁が殘つてゐる間は  異國人《えとらんじえ》の眼を要求めもし威嚇《をど》しもする。 蔦の這ひ纒つた門と寂しく立つた柱がそれぞれに 過去の榮華を傲然と辯護をしてゐる。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ] 地を引きずる長衣を身の廻りに褶《たく》しあげて  圓柱の立ち並んだ側廊下を彼は歩るいて行く、 他人からは恐怖の目で見られ、自分は憂欝な眼で  此僧院を神聖にする諸々の儀式を見ながら。 だが聖歌が唱歌隊をゆさぶるとき、 そして僧侶達が跪く時になると、彼は席を外して引き退つて行く。 向ふの淋しく搖れる松明の灯に照されて 玄關の中に彼の容貌が明るく浮ぶ。 式がすつかり濟んでしまふまでそこに足を停めてゐて 祈祷[#「示+壽」、第3水準1-89-35、禱]は聽きはするが一言も口にはしないのだ。 ごらんなさい──ぼんやり輝された壁際で 彼の僧衣の頭巾が跳ねられて垂れ下る黒い頭髮が 蒼白の額にもぢやもぢやに絡みついて 宛然ごおごん[#「ごおごん」に傍点]がその怖しい前額に によろによろと動く眞黒な蛇の打紐を そこへ縛りつけてでもおいたやうだ。 といふのは修道院の掟に彼は從はないで 穢れたままに頭髮を延ばしておくからだが、 その他の服裝は皆修道僧の服裝を身につけてゐるのだ。 そして彼の神聖な誓願の言葉を聽いたことのない 僧院に莫大な寄附をするのだが それは自尊心の爲めで、信仰からではないのだ。 ほら、ごらんなさい、樂器に調和する 讃美歌が次第に高く響きわたるときの あの鉛のやうな蒼白の頬を、反抗と絶望の 混り合つた石のやうに無表情の樣子を。 聖フランシス、神廟に彼の男を近づけないでください。 でないと、神の怒りの畏ろしいしるしが 明らかにされる心配があるかも知れません。 若し惡の天使が人間の形をしてゐたら 彼の男の姿はそれなのでした。 安樂往生の契りにかけて、斷じて あんな顏なんて天にも地にもあるものではないのです。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  にやけた柔弱な男は戀愛に走り勝ちである、 だがそんなのは皆戀愛の數には入らないのだ。 戀愛の苦難を共にするには餘りに臆病だし 絶望と取り組み或は無視するには温順過ぎる。 月日が經つても癒やすことの出來ない痛手を 感じうるのは毅然とした男だけだ。 鑛山に採るざらざらした金屬の表面が 光る前には燒かれなければならない。 だが鎔鑛爐の火の中に跳り込んで 質には變りはないが曲りもし溶けもする それから必要に應じ、意志に應じ、鍛はれて 身を護り、或は人を殺す役にも立つのだ。 必要な時のための胸當ともなり、 敵に血を流させる刄ともなるのだ。 だが匕首の形をそれが取れば その刃を身につけるものは用心をすることだ。 斯うして情熱の火と、女性の術が 男の心を變へもし、馴らしも出來るのだ。 火や、術から男の心の形も調子も造られて、 造られたままの姿で殘るけれども、 曲げ返さないうちに折れてしまふのだ。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  悲哀の後に孤獨が續いて來たなら 痛みが取れた位は一寸とした氣安めなのだ。 空虚な胸の寂しさはその寂しさを減らした劇痛に感謝してよいのだ。 共にするものが一人も居ないのが嫌なのだ。 幸福ですらそれを擔ぐ合棒がなければ悲哀だらう。 斯うして一度寂しく殘された心は 結局は安心の道を求めて憎惡に走るに相違ないのだ。 丁度あの死人がその身の周圍に集《よ》つて來て 腐つて行く肉體の上をうようよと這ひまわり 熾んにその肉を食ひ荒らす蛆虫を 冷え冷えと感じて竦然としながらも 嚇して追ひ拂ふ力がないやうなものなのだ。  例えばまたあの沙漠に巣を營む鳥が  腹を空かしてゐる雛の叫[#「口+斗」、呌]き聲を鎭めようとして  嘴で胸を突いて出した血を雛に飮ませて 巣鳥に讓り渡した生命を悲しまず 子の可愛さで一杯の胸を輕卒に破つて見ても 雛は逃げて終つて巣が空なやうなものなのだ。 慘めな不幸な人間が見出す猛烈極まる苦痛も  索寞と寂しい心の空虚に取つては 一草一木の青もない心の沙漠に取つては  使はない感情の荒蕪地に取つてはそれは無上の歡びなのだ。 一片の雲もない陽の光も射さない蒼空をいつまでもいつまでも 見詰めてゐなければならない運命を誰が喜ぶだらう。 再《また》と巨浪を冐すことが無くなるよりも 暴風の怒號の方が恐ろしさは遙かに輕いのだ。 風の戰ひが濟んで終つたとき 運の岸邊に淋しい難破船となつて打ち上げられ 陰欝な凪のうちに、沈默の灣の中で 人眼に觸れずに腐るともなく腐つて終ふよりも 岩の上でぼつぼつ朽ち崩れて行くよりも 浪に衝突《ぶつか》つて一思ひに沈む方がましなのだ。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ] 「神父樣、あなたは平和な生涯を過されて來られた、  珠數を爪繰りながら日日夜夜祈祷[#「示+壽」、第3水準1-89-35、禱]を捧げて、 若い頃から年寄りになるまでに、誰だつて  罹らずにはすまない一時の病苦を除いては 何の心配もなければ、虫一つ殺さないで 再び罪を犯すなとひとを戒める さういふのがあなたの引き當てた籤でした。 あなたの懺悔者があなたに告白するやうな あの奔放な強烈な情熱の狂暴を 免かれたあなたは有難いこととご自身思し召すでせう。 その懺悔者の祕れた罪と悲しみの數々は あなたの淨い慈愛の胸に納まつてゐるのです。 私が此世で送つて月日の數は少ないものですが、 樂しい思ひも隨分しましたが悲しい思ひが多いのです。 でもいつも戀とか鬪ひとかに時を過して 人生の退屈を脱れて來たのです。 友達と盟を結んだり、さうかと思ふと敵に圍まれたりして だらけた休息を私は嫌つたのでした。 もう愛したり惱んだりするものが何にも殘つてはゐず 希望に或は誇りに意氣の昂がることもなくなつては 熟つと睨むで考え込んでゐなければならない斷罪を蒙つて だらだらと變化のない月日を送るよりも その土牢の壁を這ふ恐ろしい毒を持つ 毒虫になつた方がましだと思ふのです。 でもやつぱり私の胸の中には休息を得たいと言ふ 念願が潜んで殘つてゐるのですけれども それを休息だと感じたくないのです。 ぢきにその念願を私の運命が遂げさせてくれるでせう。 私の行爲はあなたには空怖ろしいものに思はれませうが、 私がどんな人間だつたか、どうなるのだか、 夢にも見ないで私は眠るでせう。 私の思ひ出はとつくに死んでしまつた歡びの墓に過ぎず その歡びの破滅が私の希望なのです。 いつまでも去らない悲しみを擔つて生きてゐるよりも 歡びと一緒に死んでゐた方がよいのですけれど。 不斷の痛みの傷に探りをかける劇しい苦痛を 私の精神は平氣で忍ぶことが出來たのでした。 むかしの痴人と近頃の惡漢《わるもの》が自分で自分に掘る 墓穴を私の精神は求めませんでした。 でも死ぬのが恐ろしかつたのではないのです。 戀愛の奴隸ではなく、榮譽の奴隸として 戰場で働くやうに危險に口説かれでもしたら それは愉快なことであつたでせう。 私が危險を冐したのは名譽の誇りの爲ではなかつたのです。 手に入らうが入るまいが月桂冠など微笑つて見るものなのです。 名を揚げる爲に或は金儲けをするために やりたい人にはやらせるがよいのです。 ですが戰ひ取つて取り効ひのあるもの── 愛する女なり、憎む男なり何なりと もう一度それが私の眼前に置かれたら、 碎ける刄の中を渦卷く火焔[#「火+陷のつくり」、第3水準1-87-49、焰]の中を、通つて 生かすも殺すも時と場合によりますが 運命の足跡を私は逐ひ求めることでせう。 行つて來てゐることをただ爲るだけの人間が言ふ 此の言葉をあなたは疑ふには及びませぬ。 死は唯傲慢不遜の人間が敢然と冐すものなのです。 薄志弱行の徒は辛抱づよく待ち、意氣地なしは無暗に欲しがるのです。 生命を私はそれを賜はつた神にお返しするのです。 幸福で得意だつた時分に危險に晒されて 畏縮《ひる》まなかつたものが今となつて怯むには及ばないでせう? [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  ×    ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  「私は彼女が好きでした、大好きでした。── 好きだとか大好きだとか云ふ言葉しか使へはしませんが、 言葉よりも行爲でその證據を示したのです。 打痕のあるあの刄には血がついてゐます。  あの刄からはとれつこのない血のりなのです。 それは私の爲めに死んだ彼女の爲めに流されたのです。  大嫌いな男の胸をその血は温めたのです。 どうか、吃驚なさらないで──跪つかないで、  そして私の罪の中に記録しないでください。 その人殺しの私の罪をあなたはお宥しくださるでせう。 その男はあなたの教義に敵意を持つたのですから。 基督教徒といふ名を聞いただけでも 回教徒に取つては肝癪の種だつたのです。 恩知らずの馬鹿者奴、回教の極樂への確實な手形とも言ふべき 豪傑の手のうちの手練の劍がなかつたら 基督教徒に負はされた手傷がなかつたら まほめつと[#「まほめつと」に傍点]の門口で極樂の麗人達が今か今かと いつまでも貴樣《きさま》を待ち佗びてゐるかも知れないのだ。 私は彼の女を愛したのです。狼でも恐れて餌を求めに 行かないやうな道をも愛は求めて通つて行くのです。 そして愛が敢然をその恐ろしい道を行くとなると 方法も場處も理由も問題にしないのです。 情熱の報酬が何かなければ慘めなものです。 私は徒らに求めも溜息もしませんでした。 でも時には悔ひられもして、効《かい》のない念願ですが 二度の戀を彼女がしなかつたらと思ふこともあるのです。 彼女は死にました──どんな死に方か話す氣にはなれないのです。 ごらんください、私の額にそれが書いてあります。 年月の力では消されない赤い文字で書かれて カインの呪ひと罪がそこに讀まれるのです。 でも、あなたが私を罪に問ふ前に一寸待つてくださいまし。 私が原因《もと》ではありますが、それを行つたのは私ではないのです。 でも若し彼女が數多の男に操を汚したら 私が行ることを彼が行つたに過ぎないのです。 彼には不忠實であつたから、彼が打撃を與へたのです。 でも私には忠實であつたから彼を私は倒したのです。 彼女の殺されたのは當然だつたかも知れませんが 彼女の不義は私に取つては信義だつたのです。 暴力で抑へても奴隸にすることの出來ないものの總てを── 彼女の情愛を彼女は私に與へたのでした。 念へば思へば救ふ時機がもう遲過ぎたのでした。 でも、その時分私が與れる丈のものは皆與りました。 私達二人の敵に墓を與えたのが幾らかの心遣りでした。 彼の男の死は深く氣にもかかりませんが、彼女の運命が あなたが憎むのも無理のない者に私をしてしまつたのです。 彼の運命は定つてゐました──托鉢僧の警告を聽いて 彼はそれを能く知つてゐたのです。 軍勢がその戰死の場所へぞろぞろと行つたとき 不吉な前兆を知るその托鉢僧の耳の底で 間近の殺傷を告げる死の彈丸が鳴り響いたのでした。 痛いも苦しいも氣にはかけないひと時の 戰ひの騷ぎの中に彼も亦斃れたのでした。 教祖の助力を求めた一叫び 神《あら》に祈つた一祈り、聲をあげたのはそれ丈でした。 亂鬪の中で彼は私を認め立ふさがりました。 彼が横たわつたその場で私は彼を食ひいるやうに視ました そうして彼の氣力の衰へて行くのを目守りしました。 獵刀で刺し貫かれた豹のやうにさし貫《とほ》されながら 私が今感じる半分も彼は感じなかつたのです。 傷ついた知性《こころ》の動く作用を見出さうとして 私は探し求めましたが無効な試みでした。 彼のむつとしたやうな死骸の眼もとにも唇《くち》もとにも 忿怒は顯はれてゐましたが、後悔の影さへなかつたのです。 ああ、死にかけてゐた彼の顏に絶望の痕跡《あと》を 見る爲めに復讐は何物も惜しまなかつた筈なのに。 墓から一つだけでも恐怖を取りのぞく力を 後悔は失してしまつて、慰めにもならなければ 救うこと出來ない、さうなつた時の後悔は もう時遲れで間に合ひはしないのだ。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ] 冷たい風土の人間の血は冷たい そういふ人達の愛は殆んど愛の名を値しないのです。 ですが私の愛はエトナの火山の炎の胸に  沸き立つ熔岩《らば》の洪水のやうでした。 みやびめの情事《いろごと》やたをやめの監禁《おしこめ》などを めそめそ泣くやうな調子で私は喋れないのです。 變つて行く顏色と、燒け焦がす血脈と ねぢ抂げはするけれど、愚痴はこぼさない唇と、それから 裂けさうな心臟と、狂ひさうな頭腦と 斷乎たる行動と、執念深い刄と 私が感じ來てたし、今も感じるその全てが 愛の表現となるのなら、私の愛はそれでしたし いろいろなにがにがしい證據で示されたのでした。 ほんとです、私は啜り泣いたり溜息をすることは出來ないで 手に入れるか死ぬかだけを私は知つてゐたのです。 私は死ぬのです、でも先づ自分のものにしたのです。 どうならうと私は惠まれてゐたのです。 私が求めた運命を私は非難するでせうか? いいえ──殺されたレイラのことを考へなかつたら 何にもかも奪られたつてびくともしないのです。 あの苦しみと一緒にあの愉しみが得られるなら もう一度私は生きて戀をしてみたいのです。 尊い牧師《おぼう》さま、私は歎きも、歎きもしませぬ! 歎くのは死んだ彼女の爲め、死ぬ彼の爲めではないのです。 彼女は立ちめぐる浪の下に眠つてゐます── ああ、せめて彼女が地上の墓に葬られたのでしたら 此の破れさうな心臟と、どきどきうずく頭は 彼女の狹い床を求めて共寢をするのですのに。 彼女は生命と光明の姿でした。 見た以上眼を離れないものになつたのでした。 どこへ眼を遣つても顯ち現はれた私の 思ひ出の曉の明星でした。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ]  「さうです、全く愛は天來の光明です。  人間の卑《ひく》い欲望を地上から除く爲めに 天人達と等分《ひとしなみ》に神《あら》から頒けていただいた  あの不滅の火の火花の一つなのです。 信仰は理知性を天へ吹き送りますが 愛には天そのものが降りてくるのです。 愛は穢ない思想をそれぞれ自己から捨てる爲めに 神から捕へた一つの感情なのです。 全體を形造つた神の一道の光明なのです。 靈魂をまわつて環をかく後光なのです。 人間がその名で呼び違ひをしてゐるもので 私の場合の愛は不完全であることを私は是認します。 ところで私の愛をあなたは邪戀《じゃれん》とも何とでもお考えなさいませ、 でも彼女の愛は有罪《つみ》ではなかつたとお仰つてください。 彼女は私の生涯《いのち》の間違ひもない光明でした。 それが消えてはどんな光明が私の夜闇《やみ》をひらくでせう。 たとえ死へ亦は致命の不幸へ導くものであつても 嗟、私を導く爲めにそれが尚輝いてゐたらと思ふのです。 此の現在の歡喜を、此の未來の希望を 失つては人がもう温和しく從順《すなほ》に悲哀と 抗爭《あらそ》はなくなつても怪しむに足らないのです。 さうなると逆上して人はその運命を非難します。 悲しみに罪を加へるに過ぎないのですが、 發狂してその恐ろしい行爲を人は行るのです。 おお、内に心臟の出血を見る胸は  外からの打撃を恐れ憚かる何物も持たないのです。 あなたの額の上に私は嫌惡を讀みます。が、 嫌はれ惡まれるやうに私は生れついたのです。 なるほど、彼の亢鷹のやうに私の行動には  掠奪屠殺の跡を殘してゐます。 ですが、死んでも二度の愛を知らないといふことは 是をあの鴿が私に教えたのでした。 せせら笑つて、足蹴にもしかねないものに教えられて 男は此の教訓を今もなほ學ぱないのです。 叢林《やぶ》中に囀るあの歌ひ鳥も 湖《みづうみ》の水の上を泳ぐあの白鳥も 一羽の配偶《あいて》を、ただ一羽だけを撰ぶのです。 いつも漁色の道を浮かれ歩いて、生面目な堅氣な男を 誰彼の差別なく嘲弄しがちな莫迦者は 高慢痴氣の若者達と一緒にふざけさせるがよいのです。 移り變る多樣な彼の樂みを私は羨みませぬ。 ですがそんな柔弱な無情な男なんぞ あすこに居る孤獨の白鳥にも劣ると考えるのです。 信じてゐながら男に裏切られた 思想の淺い女よりかずつと價値のない男なのです。 そんな耻辱は少くとも私は知りませんでした── レイラよ、あなたのことを私は思つてばかり居たのです。! 私の善、私の惡、私の福、私の禍 天上の私の希望、──地上の私の總てのものなのです。 あなたに似たものは地上に他にはないのです。 有つたところで私には無益なのです。 あなたに似てゐる貴婦人を、──似ては居ても 同じひとではないのです──斷じて見ようとはしませぬ。 私の青春を傷つける數々の犯罪《つみ》と 此の死の床が私の誠實の證據になつてゐます。 萬事もう遲過ぎました──あなたは私の心が秘藏して居た 狂氣でした、今でもその狂氣なのです。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] 「彼女はなくなつて終つても私は生きて居ました。  が、人間としての生き方ではなかつたのです。 私の心には一疋の蛇が絡みついてゐて、  何かと私の思慮を刺戟して爭鬪に驅りたてたのでした。 いつ何時もひとつこと、何處もかも嫌で嫌で 自然の顏を見ると竦然として怯るむのでした。 昔は綺麗だと思つた色と言ふ色が 私の胸の黒一色に見えるのでした。 殘餘《あと》の事はあなたは既にご承知なのです、 私の犯罪《つみ》の悉皆を、そして私の苦惱《なやみ》の半分を。 だがもう懺悔のことはお話し下さいますな。 間もなく私は此處からお別れするのでせう。 で若しあなたの御聖話が眞實でしたら 行つて終つたことをあなたは取り消せるのですか 感謝を知らぬ男と思し召すな、でも此の悲哀は その救濟を僧職に期待しないのです。 私の魂の状態を秘かにお察しあるのもよいが いよいよ不憫に思ふのでしたら餘り言はないでください。 あなたの指圖でレイラを生かすことが出來る時 その時に私はお宥しをお願するでせう。 その時に購つた彌撒が天惠を提供する あの天の法廷で申開きをするでせう。 獵人の手が悲鳴を揚げる豹の子を 無理やりに森の洞穴から引張し出したときに 淋しげな雌豹を宥めるもよいでせうが 私の苦悶は慰めないでください──嘲弄《なぶら》ないでください。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ]  「今はむかし、もつと靜かだつた時のこと  私の生れ故郷の谷の花咲く木蔭で 心と心が混り合つて愉しかつた頃  一人の友達が有つたのです──今も有りますかしら──。 その友達に送るように是をお預けします。  青年の誓ひの記念物なのです。 私の最期を、死を彼に思ひ出してもらひたいのです。  私のやうな思ひ詰めた人間には 昔の友の契りなど長くは念頭にのぼらないのですが それでも凋落した私の名は彼には親しみある名なのです。 妙なことには、彼は私の運命を豫言したのでした  私は微笑ひました──その時分は私は微笑へたのです。 思慮のある人なら彼の聲を愼重に聽き取つて  用心もしたのに何を莫迦なと聽き流しました。 でも殆んど注意しなかつた言葉の端々が、 今囁くやうに思ひ出となつて聽かれるのです。 さあ、その彼の豫表が起つたのですから。  それが眞信だつたと聽いて彼は吃鷲するでせうし、  その言葉が眞實でなかつたらと思ふでせう。 世間見ずの青春時代はとり分けさうなのですが  泣いたり怒つたり喧嘩口論をしたりしても  一向氣にも止めなかつたのですけれど 苦んで、訥りがちな私の舌で私が死ぬ前に 彼の思ひ出を祝福しようとしたと言つてください。 でも罪の有るものが罪の無いものの爲めに祈つたら 神はひどくお怒りになつてそつぽを向いてしまはれるでせう。 譴めてくれるなとは彼に求めませぬ。 私の名聲を傷けるには餘りにも心の優しい友達です。 ところで私は名聲などに何の關係がありませう。 悼むでくれるなとも彼に求めませぬ。 そんな冷たい要求は輕蔑のやうに聞えるでせう。 親しきものの棺を惠むのに友情の 男らしい涙に勝る何ものがあるでせうか? ですが昔しは彼のものだつた此指輪を持つて行つて 話してください──あなたの見られる通りの状態を── 凋《か》れ萎むだ肢躰《からだ》、荒《すさ》び滅びた知性《ところ》、 激情の浪が打ち上げて後に殘した藻鹽草、 皺苦茶の一|卷《まき》の卷物、落ち散つた木の葉の一葉、 哀愁の秋を吹く疾風《はやち》に枯れて。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  「今更想像の閃《ひら》めきなど言つてくださいますな。 いいえ、牧師さん、いいえ、夢ではなかつたのです。 ああ、夢を見る人は先づ眠らなければならないのに 私は目を開けたぎりした、そして泣きたかつたのです。 でも泣けませんでした、かつかと私の額は燃えて 今のやうに頭腦のしんまでどきどきしたのでした。 新しく、親しい、何か頼もしいもののやうに、 その時はそれが欲しかつたのです今でも欲しいのです。 でも絶望は私の意欲よりも強いのです。 あなたの祈祷[#「示+壽」、第3水準1-89-35、禱]を無駄になさいますな、絶望は あなたの敬虔な祈りよりも力が大きいのです。 祝福されるかも知れませんが、されようとは願はないのです。 天國を私は望まないのです、休みたいばかりです。 その時でした、聽いてください牧師さん、その時に 私は彼女を見たのです、さうです、生き返つたのでした。 彼女は白い寛やかな外衣を着て照々と輝いて 私が今|熟《ぢ》つと見据えてゐる彼處の青白い 灰色の雲を通して光る星かとばり 見れば見るほどその姿は昔にまさる美しさでした。 その星のちらちらする光がぼんやりと見えます。 明日の夜はもつと暗いでせう。 そしてその星の光が現はれないうちに私は 生命《いのち》のあるものの怖れるあの生命のないものになるでせう。 私は譫言をいつてゐるのです、教父樣、私の魂は、 終局の行く先をさして飛んで行つてゐるのですから。 私は彼女を見ました、それで二人の間の 往時の惱みは忘れて、私は起ちあがりました。 さつと寢床を離れて箭のやうに飛んで行つて 私の絶望の胸に彼女を抱き締める── 抱き締めるつて何を抱くのです。 腕の中には息の通つてるものの形は何にもないのです。 私の胸の動悸に應へる胸も何にもないのです。 でも、レイラよ、姿はやつぱりお前の姿なのです。 私の眼には見せがら觸つても觸つた感じをさせない それほどにあなたは變つて終つたのですか。 嗟、あなたの姿がそんな冷たいものだつたら 私の腕に抱きたいと昔しは思つたあなたの總てを さほど私は抱きたいとは思はないのです。 嗟、一つの影を抱き締めた私の双腕は 私の淋しい胸の上に空しく縮む。 でもやつぱり、消えもせず、默つて立つて 切なる心を籠めた手がさし招いてゐる。 頭髮を組みあげて、明るい黒い眼をして 判りました、嘘だつたのです──彼女は死んだ筈はないのです。 でも彼の男は死んだのです。あの峽谷の中の 彼が斃れた場所に葬られたのを私は見ました。 彼は來はしませぬ、地を割つては出られないからです。 ところで、何故あなたは起きてゐられるのです。 私が眺めるその顏の上を、私の好きなその姿の上を 荒浪がうねつたといふのです。 噂にしろ、恐ろしい物語りでした。 話さうたつて私の舌が言ふことをききますまい。 若し眞實なら、そしてもつと靜かな墓を求めて 海の底の洞穴から、あなたが來たのでしたら おお、あなたの濡れた指で此額を撫でてください、 さうしたらもう額は燃えないでせう。 でなければその指を私の絶望のこの胸に載せてください。 だが影だか形だか何であなたがあらうとも どうぞ二度と去んではくださるな、 でなければ一緒に私の魂を伴れて行つてください、 風も浪も持つては行けない遠い遠い涯《はて》の涯まで。 [#ここで字下げ終わり]   ×  ×  ×  ×  ×    ×  ×  ×  ×  × [#ここから1字下げ]  「こう言ふのが私の名であり、こういふのが私の物語です。 御僧よ、聽いた秘密は人には告げぬあなたゆゑ 哭き哀しむ私の歎きの數々をお耳に入れるのです。 どんよりと曇りかかる此の眼が流せなかつた 温情《なさけ》あるあなたの涙を頂いて有難く思ひます。 それから墓の片隅に投げ込み同樣に埋めて 私の頭の上に置く十字架は別として 行きずりの巡禮者の足を停めさせ 穿鑿好《おせつかい》な異國人に讀まれるやうな 名も紋も何んにも標《しるし》はつけないでください。」 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] 彼は死にました、名についても家柄についても 記念物一つ、證跡一つ殘しませんでした。 但し彼が死んで行つた日に彼に贖罪させた 懺悔僧が、話してはならないが、聽いた話は別です。 彼が愛した女に就いて、彼が殺した男に就いて、 知られてゐるのは此斷片的物語りだけなのです。 [#ここで字下げ終わり] 不信者 終 底本:三笠書房「世界文學選書 12 バイロン詩集 第二卷」1950 George Gordon, Lord Byron(1788年〜1824年) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3 小日向定次郎(1873年〜1956年) Ver.20120317