艷美の悲劇詩パリシナ BYRON'S PARISINA Parisina バイロン ジョージ・ゴードン George Gordon, Lord Byron 木村鷹太郎訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)調《しらべ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)其|眼瞼《まぶた》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (數字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行數) (例)※[#「やまいだれ+同」、痌] ------------------------------------------------------- 一夏余※[#「やまいだれ+同」、痌]を養ひて病床にあり、發熱疼痛已に去れるも、体力未だ回復せず、爲めに尚ほ病床を離るること能はず、無聊の餘り、バイロン中の短詩の飜譯を試みんと、横臥のまゝ、枕頭に硯を置き、左手に紙を持ち、右手を空に浮かして書き綴りたるは乃ち本書なり、始め雜誌「白虹」に掲載し、後小冊子となして出版す。(三十六年三月) バイロンの此詩は其友スクローブ・バードモーア・デヰ゛ース氏に捧呈したるものにして、一千八百十六年一月の出版にかゝる。本篇はバイロン家の財政の最も困難にして、殆ど極度の貧窮に陷れる時に成りしものなり。書肆マーレー、バイロンの窮状を聞知し、金を送りて急を救はんとせしも、バイロン辭して之を受けず、又た原稿料は受取ることを潔とせず、以前書肆に預け置けり。而して前年中にバイロンの受けたる債務上の執行は、殆ど八九回よりも少なからざりき。之れに加ふるに會々バイロン夫人、父家に至り、歸り來らずして離婚を請求し來る、あゝ夫人も親戚等も、皆なバイロンの偉大なる人物を見るの明なかりしなり。 「パリシナ」は此くの如きバイロン極度の困難中の作なり。されどもバイロン胸中の餘裕は、こゝにバイロン的人生觀、及び其れより派生する所の倫理觀の非難にあり。夫れ然り。然りと雖、之れ彼れの「觀」にして「主義」には非ざるなり。遮莫、此詩の繪如たる叙景、艷麗にして、而も淒愴なる叙情の美と、玲瓏たる音樂的價値とは、何人と雖否む者あらざるなり。  * * * * * * 本篇に於けるバイロンの例言の大要に曰く此詩はギボンの「ブルンスウイツク家の古代」と云へる文中の事實に基きたるものなり。其書に曰く「ニッコロ(Niccolo―Este―Azo)三世(バイロン之れをアゾと改む)の治世には、フエラゝは家庭の紊乱に由つて汚がされたり。エステ侯其侍者の證言及び自己の實檢[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94、撿]に由つて、其妻パリシナ(パリシーナ Parisina)と、自己の私生兒たる美にして勇あるヒユーゴー(ウーゴ Ugo)との不義の關係を知り、之れを其城内に死刑に所す。父たり夫たる人自ら其耻辱を公表して生存せり…………」と。 されど尚ほフリッチの「フエラゝ史」(Frizzi―History of Ferrara)に據りて聊か此事實を委しく記るさんに、一千四百五年、ニツコロ侯、ウーゴ(ヒユーゴー Hugo)なる子を有せり、美麗にして且つ怜悧なり。後妻パリシナ・マレテスタを娶る、繼母の常として前妻の子を酷待するより、侯常に之れを憂ふ。時にパリシナ旅行の許可を侯に請ふや、侯之れを許るす。されども其子ウーゴを伴ひ行くべきを命ぜり。之れ旅行中。常に同居するに於ては、或はウーゴを惡むの情を去ることを得んとの意に出づるなり。然り。侯の希望は達せられたり。然りと雖其希望は餘りに達し過ごされ。旅行より歸りて後は、パリシナは常にウーゴを憎まざるのみならずして、却つて反對の極端にまで奔れり。一日侯の侍者、パリシナの室の前を過ぐるや、パリシナの一侍女泣きつゝ室を出つるに會ひ、問ふに事情を以てせしかば、其侍女告ぐるにパリシナが些細の事に大に怒りて殴[#區+攴、敺]打したることを以つてし、パリシナとウーゴとの不義の親密の事情を語れり。此に於て侍者之れを侯に告ぐ。侯容易に信ぜざりしも、遂に侍者の言を聽かざるを得ざるに至り、パリシナの室の天井に穴を穿ちて竊かに之れを窺ひ、以つて其實を確かめ、突然室内に闖入して兩人を捕縛し、其他關係者を拘[#「てへん+勾」、第3水準1-84-72、抅]引し、直ちに審問し、判決して兩人に死刑を宣告せり。されども老家宰等は、涙を以つて彼等兩人の赦免を請ひ、又た其名譽上、かゝる耻辱は之れを隱蔽するの得策なるを諫言せり。されども侯は頑として之れを聽かず、直に死刑執行を命令せり。刑塲はジオヱ゛ツカ街の頂上なる「獅子」塔の下なる「オーロラ」と稱する室の下に見へ[#ゆ?]る所の恐ろしき城なりき。 遂に五月二十一日死刑に處せらるゝことゝなり、ウーゴ先づ殺さる。始めにパリシナの不義の事を言ひ傳へたる侍者、パリシナを刑塲に導く。パリシナ必ず窖中に投ぜらるべしと予想し、刑塲に赴くの途すがら、侍者に問うに其事を以つてす。彼れ告ぐるに斷頭の刑なることを以つてし、又たウーゴは已に處刑されしことを以つてす。此に於てパリシナ悲嘆して曰く「然らば妾亦一人生き殘ることを願はず」と。刑塲に至り、自ら其裝飾を取り去り、面を蔽ひて靜かに刑に就く。 ニツコロ侯其夜は終夜煩悶し、彼方に歩み、此方に歩み、靜居するを能はず、守城の士官に問ふにウーゴの已に死せるかを以てす。士官答ふるに已に死せる由を以てするや、こゝに彼れ始めて絶望の悲歎に破烈し、叫[#「口+斗」、呌]びて曰く、「あゝ吾れ亦其時死せば宜しかりしに。我れは愛兒ウーゴに對して餘りに判決を急ぎたり」と。此くて齒を以つて、己が手にせる杖を噛み碎きつゝ、終夜泣啼[#「さんずい+帝」、第4水準2-78-80、渧]慟哭し、數々愛兒ウーゴの名を呼べり、然りと雖翌日に至り、其判決を公示するの必要を想ひ出し、命じて公文を以つて之れをイタリア全國に通告せり。 ニツコロ侯、尚ほ其爲したる所に加ふるに、非常な復讐心を破裂せしめ、既婚婦人にして、パリシナの如く不貞なりと彼れの認知せる者數人は、パリシナと同じく斷頭の刑に處せられたり。其内には宮廷裁判官の妻パルベリーナもありき。  * * * * * * 之れ此詩の基づく所なり。今左に散文に譯し、成らん限り原詩の辞句を保存することを力めたりと雖、余の文辞に嫻はざる到底原詩の美をこゝに移す能はざるは自ら知る、たゞ其大意を知らしむることを得ば余の願足れり。 されども當今の嫉妬深き多くの「文士」輩が、嫉妬黨を組みて、他人の作に惡言し、徒らに鑿穿的批評を事とし、眞面目に文學を助長せんとする盡力を破壞し、以つて日本人の眼界を狹隘にし、以つて徐々に發育せんとせる善良なる萠芽を枯凋せしむる徒輩の、身は怠惰と臆病とに由つて、何等積極的に成すことなきに比する時は、吾人の著譯は如何に完全ならずとするとも、尚ほ文學界に於ては、何等かの功績あるものなることは、吾人の自ら信ずる所たるなり。 明治卅八年四月三日多少の訂正を加へて第三版を出版せんとする時 木村鷹太郎識す   一 ナイチンゲールの高き調《しらべ》の囀《さへづ》りは 今は樹の間にひゞく時なり。 戀人等の交《か》はす言の葉は 其さゝやきの一語一語に樂しき時なり。 そよ吹く風、近き水音 しづけき耳には樂《がく》のしらべと聽ゆなり。 花には露ありて輕くうるほひ、 空には星はかゞやけり。 波には深き緑の色、 木々の葉末は茶色の光、 天にはかの澄みたるおぼろ、 ものなつかしき闇さ、また闇き清さかな。 日は西山に沒して 餘映月に溶け逝くの時。   二 されどパリシナが其室より庭におり立つは 清き水音を聞かんが爲めには非ざりき。 夜の闇《くら》さに此あでなる貴女の歩むは 天つみ空の光を見んが爲めにも非ざりき。 パリシナがエステの園亭に立寄るも そは爛漫たる花の爲めにも非ず。 たとひ耳をそば立つとも、そはナイチンゲールを聽かんが爲めにも非ざりき。 素より耳には他のやさしき言葉を聽かんと心に待てりと雖。 樹立の深き茂みの中より忍びの足音聽こえぬ。 彼の女の頬は今や色青さめ、胸の動悸は甚だ速く脈打てり。 茂みの中より小き聲はさゝやきぬ、 パリシナは今や顏に紅を回復し、其胸は切迫《はりつめ》たり。 今一瞬間─さらば彼等互に相逢はん。 其瞬間は過ぎ去れり、彼の女の戀人は其足下にあり。   三 彼等に取つては世界万物果して何ぞや。 時の推移《うつり》、潮《うしほ》の滿干《みちひ》何かあらん。 凡ての動物も、天も、地も、 彼等の眼にも心にも、げに何物にてもあらざりき。 是等は凡て死物の如く、 四周の事物、身の上、身の下、 凡てのもの盡く看過されて過ぎ行けり。 二人の呼吸は二人|片身《かたみ》のものにして、 其のつく息はいとも深き喜に充ち 其の喜は、よしたとひ、とこしへに移らふことはあらずとも、 彼等二人の幸福なる狂行は 烈火の如き其制御を受くる彼等の胸を壊らん。 彼等此の穩かならざる優さしき夢の最中《もなか》に於て こは罪なり危險なりと果して思ふことやある。 此の激烈なる情を感じたる者にして、 誰か此の塲に臨みて或は躊躇し或は恐れしものやある? 或は此る瞬間は永續するものに非ざることを考へしものやある? されども其瞬間は既に過ぎ去りぬ。 かゝる樂しき夢は、再び來らざることを知る前に、 吾等先つ覺めざる可からざるなり。   四 罪ある嬉しかりし塲所を 屡[#「尸+婁」、第3水準1-47-64、屢]々顧みつゝ二人は去りぬ。 又たの逢ふ夜の望みと誓ひはかけて交はせしとはいへど、 今の別れは永の別れとなるかの如く二人はいとど悲しみぬ。 と息つきつゝ抱き合ひ、 口と口とは永久離るゝことを好まざり。 されどパリシナの面の上には 罪免さゞる恐ろしき天はかゞやきて、 宛も、靜かなる意識ある星は 遙かより其弱き行を見るが如し。 尚ほ相逢ひし塲所を離れ難み、 二人はと息つきつゝ抱き合へり。 されども來べきことは來らざるを得ず。 罪の行に必ず續き來る所の 深きすごき戰慄《ふるひ》を以つて 二人は恐れよりする重き心に於て別れざるを得ざるなり。   五 ヒユーゴーは己れの床にたゞ一人 他人の妻を思ひ樂しまんとして行きぬ。 されどパリシナの物思ふ頭の内には 又た夫の信ぜる情をも置かざるを得ざるなり。 寢りに於て發熱したるなるべく、 又たなやましき夢の爲めにやパリシナの頬は紅を帶び、 胸の思の苦しみにや、 晝の間はおくびにだにも出さゞりし人の名をさゝやきつ、 己が胸にと、夢中にて夫を抱きよせたり。 されど其胸は夫に非ず、他の人の爲めに動悸せるなり。 此くて夫は抱きよせられて目さめつ、 誤つて自ら心に意ふらく、妻の夢中の此のと息よ、此の温なる抱きよ、 此くの如き、己れは實に幸福なるものなりと。 かくて睡眠中に於てすら己の愛する妻を 彼は難有として妻の顏を眺めて嬉し啼[#「さんずい+帝」、第4水準2-78-80、渧]きに啼[#「さんずい+帝」、第4水準2-78-80、渧]きしならん。   六 夫は眠[#「眠」は底本では「眼」]れる妻を己が胸に引きよせて 其片々の寢言を聞きぬ。 彼れは聞きぬ─『如何なればアゾ(エステ)公は 大天使の聲を聞きたる如く驚ろき玉ふにや? 公は再び眠[#「眠」は底本では「眼」]ることなく目さめて 天の審判の坐の正面の立ち玉ふ時 是に優らん宣告の聲は公の墓上に響くことなけん。 又た地上に於ける公の平和は 此ひゞきに由つて息《や》むやう定められてあるべし』─と。 此くて寢言に於てさゝやきし[#「さゝやきし」は底本では「さゝやしき」]人の名は パリシナの罪と、アゾ公の恥辱とを示すなり。 其名は果して誰の名ぞ? 彼れの枕の上に、宛も逆か卷く怒濤が濱邊の板子を卷き去りて 角ある岩に衝き當りて微塵に之れを打ち碎き、 あはれなるもの沈みて再び浮み得ざるごとき人の名─ 其名は彼れの精神には此くも激動を與へたり。 其名は果して誰の名ぞ。そはヒユーゴーなりし─彼れの愛したりし所の─ 彼れは實に此れなるべしとは思はざりき。 あゝ其名は彼の愛する一子のヒユーゴーなりき。 ヒユーゴーは彼れ自身の衆惡の凝まりし子、 彼れ放蕩の青年たりし時、 ビアンカと云へる少女をそゝのかし、 之れを己が妻となすことをせずして 少女の頼みとせる信用を破りし時に生まれし子なり。   七  彼れ劍を握れり。 殆ど拔きて又た之れを鞘に納めぬ。 彼女今やたとひ活くる價なきものなりと雖、 此くも美しきものを彼は殺すに忍びざりき。─ よしやほゝゑむことはなさすとも尚ほ心地よげに眠れるものを。 殺さゝるのみに非ず、彼れは妻を起こしも爲さず。 若しパリシナが夢より醒むるあらんには、 能く其感覺を氷らしめ、再びこれを眠らしむるが如き容貌を以て 彼は妻を見つめたり。 而して其額には露の如き大なる玉なす汗は 濕ひてかゞやく燈火に照らさる。 パリシナ今は何事をも云はずなりて尚ほ眠れり。 されども夫の心の内には、パリシナの生命の日數は數へられたり。   八 朝に至り彼は四周の人々より 種々の談話を聞き集めて探索し、 彼等二人の現在の罪行及び己れ自身の將來の不幸等 彼れ聞くも好ましからざる凡て十分の證據を得たり。 久しき間二人の仲を知りつゝ看過し居たる侍女等も 己の罪を免れんと、罪も、恥も、運命も、 盡く之れをパリシナの一身に押しきせたり。 彼等の云ふ所は、是非とも信せざる可からざる所に立ち入りて、凡ての事情を語りしかば、 今や祕密にされ居ること一もあるなし。 而してアゾの苦しき心と耳とは 今や何事をも感ずる能はず又た聞く能はざるなり。   九 彼は躊躇する人に非ず。 彼の宮廷の一室には、 昔よりエステ家の宗領の座する玉坐あり。 彼れこゝに坐し、彼れの貴族及び親兵は周圍に護衛し、 彼れの正面には有罪の一對は立てり。 兩人共に年若し、又た其の一人の美しさよ! あゝ劍なき帶をしめ、手は鐵鎖にしばられて、 此くて子は父の面前に出でざる可からざるなり。 此くてヒユーゴーは父に面して立ち、 父の宣告を聞き、 又た其の不面目の話しを聞かざるを得ざるなり。 而してたとひ彼れ其聲に於ては默せりと雖、 彼れの心や尚ほ未だ決して屈せざるなり。   十 物靜かに、色青さめて、又た默して、 パリシナ死罪の宣告を待てり。 あゝ其變化如何にぞや。 昨日までは其の喜ばしき、物言う所の目は、 かゞやく室内に喜びを四周にそゝぎ、 高貴の人も彼女に接するを榮譽となし、 『美』は彼女のやさしき聲及び其可愛らしき容貌を摸せんとし、 又た此女王の態度風姿より、 其『優美』を獲んとしたり。 若し彼女の眼に悲しみの涙あらんには、 數千の兵士奮て直ちに起ち 數千の劍は直ちに鞘を脱して閃《ひらめ》き、 彼女の憂を以て己等の憂としたり。 然るに今や彼女は如何ん─又た彼等や如何ん。 彼女果して命令するを得るか。彼等果して從ふか? 彼等今や默然として意を留めず、 俯して眉をひそめ 腕を拱きて其態度や冷然たり、 而して其唇は彼女に對する輕侮の情を禁じ得ざるものゝ如し。 彼等の勳爵士も宮女等も、又た其の宮廷も依然として存せり。 而して撰ばれたる一人、彼れ、 彼れの槍は尚ほ彼女の目前に立て掛けられて存す。 若し彼れの腕にして一瞬たりとも自由にあらんには 必ずや彼女に自由を得しむるか、或は死せしなるべし。 彼れの父の新婦の嬖人たる彼れ、 亦た彼女の側に縛されて在り。 彼女が己れ自らの爲めよりも、彼れの爲めに失望して、 泣きはらして、涙を湛ゆる彼女の目を、彼は見ることを爲さゞりき。 あゝ其|眼瞼《まぶた》には、すみれの色はたゞよひて やさしき色をのこし、 甞て柔かなるキツスを招きたる 滑かなる白きを通してかゞやきしが 今や熱して色青黒く 下なる眼を蔭すと云はんよりも、寧ろ之れを厭迫するが如くにして 涙に涙いやまさり いとゞ其みめ重たげなり。   十一 彼れ亦彼女の爲めに泣きぬ。 されど其は、彼を見つむる彼女の爲めなり。 彼れたとひ悲哀を感じたりとするも、其悲哀はねむりたり。 彼れ嚴として其額をあげたり。 心は如何に悲哀を自白せりと雖、 彼れ決して群衆の前に憶することを爲さゞるなり。 されども彼れ尚ほパリシナの方を見ることを爲さず、 これ其罪及び其愛の彼の時、 其現在の状況、其父の忿怒、凡ての善人の惡み、 其地上の、又た永遠の運命の記憶たればなり。 パリシナの容貌今や死せるものゝ如し。 彼女の容貌、あゝ彼女の容貌には彼れ一瞥だに投ずることを敢てせず たゞ其昂揚せる心情は、 自ら故に此破滅を致さしめたる痛恨を洩らせるあるのみ。   十二 アゾ公語るらく─ 『昨日までも我は眞に我妻及び我子に敬意を表したり。 然るに今朝《けさ》に至りて此夢は消散せり。 今日《けふ》の日の傾くまでには、我は何ものをも有せざるべし。 我か後年はたゞ獨りさびしく過ごさゞる可らざるなり。 然り、其は其如くあらしめよ、 吾が爲せし如く爲さゞる者は活く可からず。 人倫の結繩は全く茲に破れたり─吾が破りしに非ず。 此事亦成る如くならしめよ、死は準備せられてあるなり。 ヒユーゴー、僧は汝を待てり、 又た汝の罪の報も待てり。 往け、夕の星のかゞやく前、 汝の祈祷[#「示+壽」、第3水準1-89-35、禱]を天にさゝげよ、 若し或は汝の罪の赦さるゝこともやあるを伺へ。 天の惠、或は尚ほ汝を赦すことあらんとも 天が下、此地上に在つては 汝と我とは一時なりとも倶に天を戴く一點の塲所だにあらざるぞ。 さらばよ。我は汝の死するを見ざるべし。 されどもか弱き者なる汝は、彼れの首を見るべし。 去れ、我れ此他を語り能はざるなり。 去れ、淫奔放恣の女、 彼れの血を濺ぐものは我に非ずして汝なるぞ。 去れ、汝若し彼れの最後の光景を目撃して、 よく甘んじて我が與ふる生命を樂しみて生き殘ることを得ば生きよ』。   十三 嚴格なるアゾは其面を蔽へり、 これ其前額には血脈高く漲り、 熱血腦に出入して 潮《うしほ》の滿干《みちひ》の如くなりしを以てなり。 故に彼れ暫く其|面《をもて》をうつぶき、 震ふ所の手を目に當てゝ之を蔽ひ 以て人々に見られざらんとせり。 然るにヒユーゴー其|鎖《くさり》付けられたる手を揚げて 暫く父の猶豫を願へり。 默せる父は敢て其子の願を禁じも爲さゞりき。 ヒユーゴー父に向つて云ふて曰く 『我は死を恐るゝ者に非ず、 我れ父上の側《かたはら》に在つて 激戰の間を乘り廻したるは父上の知る所なり。 父上の奴隸が我が手より取り去りし 一度だにも無益ならざりし我が劍が 父上の爲めに流したる血潮は、 今ま我が頭を斷る所の斧に從來血ぬりしよりも多かりき。 我生命は父上の玉ひし所、父上又た之れを取り去ることを得べし、 されど此賜物は我が難有《ありがたし》とせざる所、 又た我母の誤りも我れ忘れざるなり。 我母の輕侮されたる愛情と、其|壞《やぶ》られたる名譽とは 彼女の子が受け繼ぐ所の耻辱の遺産たるなり。 されども我母既に墓中に在ます、 母の子にして、父上の女敵《めかたき》たる我も、亦直ちに其所に至らん。 我母の破れたる心と、我切斷されたる頭とは 父上の若かりし時の愛─父としての慈愛は 實《げ》に誠《まこと》に、又た實《げ》にやさしかりしことは、 墓より之れを父上に證明せん。 我れ父上に對して罪を犯したるは事實なり。 されども、惡に報ゆるに惡を以てす、何かあらん。 父上の妻と思ひ玉ふ所の、又た父上の虚《むな》しき誇《ほこ》りの犧牲たる女は、 久しく我がものと定まり居りしは父上の知る所、 然るに父上彼女を見て其嬌美を横領せり。 實に我れは父上の罪に由つて生れたり、 父上は我を生みて價なきものとして蔑如せり。 我は彼女の腕を擁せらるゝには不名譽のものとなれり。 何となれば我れ決して父上の名の正統なる相續人となり、 又たエステの王坐を占むることを要求し能はざればなり。 されど若し我に二三の春秋あらんには 我名は全く我れ自身の名譽を以て エステの名より輝くべし。 我は劍を有し又た大怛なる胸を有す。 以て能く我功名をして 父上の祖先等の列を拔いて冠絶せしむることを得ん。 我は善き門地の人の如く 常に勳爵士然として輝く拍車を着けずと雖、 「エステ及び勝利」の吶喊を以て 進撃するに當つてや 我が騎る馬の横腹は、槍の石づきを以つて刺撃して 驕れる王侯貴人の列の前を騎りまわせり。 我れは自ら罪の辨護を爲さず、 又た數時或は數日間我刑罰の免されんを願ふことをも爲さゞるなり。 何となれば終の時は やがて直ちに我が如き盲行者の上に回轉し來るべければなり。 我が過去の如き狂妄なる瞬間は 決して永續すべきものに非ず、又た永續を爲さゞりき。 たとひ我が生れと我名とは卑しくとも、 又た父上は高貴のやからなるより 我如きものを飾り立つる事を卑しむとも、 尚ほ人々は我血統に於て 父上の容貌のおもざしありとなし、 我精神中には盡く父上の性質を受け傳へりとなせり。 父上より我が此の大怛なる心情は得たり、 父上より─何故に父上は驚き玉ふ─ 父上より凡てのもの皆豪壯にして我に來れり。 父上より我腕の強力、我炎の精神は得たり。 父上はたゞに我に生命を與へたるのみに非ず、 亦た我を父上以上のものとなせり。 見よ、父上の罪ある戀愛は果して何を爲せしかを! あゝ父上には餘りによくも似たる子を以て報はれたり。 我精神は決して私生兒には非ず、 何となれば我精神も亦父上の如く、同じく制御を嫌へばなり。 我呼吸は父上よりの輕早なる賜ものにして、 父上又た速かに之れを取り返へし玉ふなり。 父上が價つもり玉ふ以上、我れ我生命を重く視ざるなり、 父上兜を戴き玉ふ時は、 吾等も共に轡を並べて戰塲に馳驅し、 駿馬に鞭つて死者の上を乘り廻はしぬ。 過去は過去のみ既に何物にも非ざるなり。 將來も亦終には過去たらんのみ。 我れ寧ろ以前に死したりしことを願ふ。 何となれば父上たとひ我母に惡の行ひ玉ひしとも、 又た我妻と定まり居りしものを父上の妻となし玉ひしとも、 我尚ほ父上を我父なりと感ぜばなり。 父上の嚴酷なる命令は※[#「さんずい+區」、第3水準1-87-4、漚]り嗄《か》れたる音響の如く、 又た假令父上より出だされたるものなりとも、敢て不正には非ざるなり。 罪に生れ耻に死し、 我生命は始と終を同うす。 父の誤りし如く子も亦同じく誤りぬ。 而して父上は二人の罪を一人に於て罰せざる可からざるなり。 今ま我罪を人間の眼より視る時は、最大不義の如しと雖、 神は我等兩人の罪、孰れか大なるを審判すべし。』   十四 彼れ語り終りて手を組み合はして立ち 縛せる鉄鎖は響きたり。 其鈍重なる鉄鎖の相觸れて響くや、 並み居る凡ての將士の耳には 傷つけられしが如く感ぜざるは一人としてあらざりき。 而してパリシナの不運なる美しさは 再び人々の注目を引き付けたり。 此くてパリシナはヒユーゴーの死刑の宣告を聽かん。 彼女色青ざめて靜かに立てり、 之れ實にヒユーゴーの罪の活ける原因なり。 パリシナの眼は少しも動かず十分廣く見張り、 一度も、何れをも顧みしことなく、 又た一と度も其美しき眼瞼を閉せしこともなく、 又は其視線を覆ひかくすこともなかりき。 其眼の、濃き青色の周圍をば 取りまける白色は廣まりて 宛も硝子の如き見へを爲し、 パリシナの凝まりたる血の中には、或は嚴氷あるかと疑はれぬ。 されど大なる玉なす涙は集まりて 美しき眼瞼《まぶた》の、長き黒き房なすまつげより 時々頬を傳ひて流れ落ちぬ。 之れ聽《き》くべきものに非ず、見るべきものなりき。 人若し之れを見しならんには 此くの如き大なる玉なす涙は人間の眼より出で得るやに驚くなるべし。 パリシナ語り出さんと思ひたり、 不完全なる音節は、せき上げ來る咽喉《のんど》の中にひゞきたり。 されども其の空しき低き呻吟の中に 彼女の全心情は調子を以て湧き出づるものゝ如くなりき。 呻吟止みぬ─彼の女再び語り出でんと思ひたるが 今や彼の女の聲は長き一聲の叫[#「口+斗」、呌]びに破裂し、 パリシナ※[#「てへん+堂」、摚]然として地上に倒れ 或は石或は立像が其臺石より覆へされたる如くにして、 パリシナは生命ある有罪のものたり、 其各感覺は刺撃して罪を行はしめ 而して其罪行の證明と其絶望とに堪え得ざるものの如くならず、 寧ろ始より生命を有せざるものゝ如く、 又たアゾの妻の紀念立像の覆へりたる如くなりき。 然りと雖彼女は活けり、 而して万事其死の状態より回復せり。 然りと雖一切の感覺は切烈なる苦痛の爲めに過度に緊張せられ、 心緒こゝに錯亂して道理の力は全く去れり。 彼女のかよわき腦髓の纎緯は (宛も弓の弦が雨めに濡ほひゆるみて、 其的をあやまる如く) 其思想を滅裂混亂せしめて發表せり。 彼女の過去は空にして其將來は暗黒なり。 宛も闇夜に當つて暴風震怒せるの時、 荒れ野に電光一閃し、 辛くもさびしき一條の小路を瞥見したるが如きなり。 彼女は恐れぬ─何物か惡しき事 其心中に、深く且つものすごく存することを感ぜり。 彼女、罪と耻との其身にあり 又た何人か死せざる可からざるを知る。されども誰うや? 彼女之れを忘れぬ─彼女呼吸せしか。 此くの如き─尚ほ下には地あり、 上には天あり、四周に人ありと云ふを得るか、 又た今までは同情を以て 彼女の眼に向て微笑《ゑみ》し人々の眼は 今は怒れる惡魔には非ざるか。 彼女の乱調にして漂搖せる心には 一切混乱不明たるなり。 其心情は荒妄なる希望と恐怖との混沌にして 忽ちにして笑ひ、忽ちにして泣き、 其兩極端に於て全く狂せる如く 痙攣的の夢を以て煩悶せり。 これ其夢は彼女の上に破裂する如く見へたればなり。 あゝ彼女は尚ほ無益に其夢より醒むることに煩悶せざるを得ざるなり。  十五 寺院の鐘は もの悲しげに徐々と鳴れり。 灰白色の四角なる塔樓に 深き響きを以て鐘は彼方此方に振り動けり。 其響は人の心にいとも重く感ぜらる。 聖歌の聲は聽こゆなり。 これ樓の下なる死者の爲めに 或はやがて直に死する者の爲めに歌ふものにして 死に行く人の靈魂の爲めにとて、 死の詠歌はうたはれ、空しき鐘はひゞくなり。 彼れは臨終に近づき、 僧の膝下に膝づけり。 彼れの聲や悲しく、其姿やいぢらし。 彼れ冷たき地上に膝まづけり。 前には斷頭臺あり四周[#「四周」は底本では「四週」]には番兵あり。 後ろには斷頭者ありて腕をまくりて立てり、 これ其白刄の一撃をしてよく迅速且つ正確ならしめんが爲めなり。 而して斷頭の斧は其刄を新にせしものなるを以て 彼れ其刄に指を觸れて其鋭利なるやを驗せり。 而して人々寂として聲なく、 父の宣告せる死罪に由つて死する所の子を見んとして集まれり。   十六 時はこれ尚ほ─此悲しき日に登りて、 其確乎たる光を以つて此光景を嘲りし所の 夏の太陽の西山に沒する前の いと美はしき時なり。 ヒユーゴー、僧に對して最後の懺悔を爲し、 其悔悟の神聖を以て 自己の運命を悲しむの時 夕陽の光は ヒユーゴーの命數定る頭に注がれぬ。 彼れ、僧より、一切我等の罪を拭い去ると云ふなる 免るしの惠ある言葉を聽かんとして 其身を前にかゞめたり。 彼れ膝づきて僧の言葉を聽くの時、 天上高き太陽は彼れの頭に照り輝きぬ。 彼れの黄金色の環をなす髮は 其あらはなる頸《うなぢ》に半ば房の如くかゝれり。 されども一層輝く光線は 彼の近くに光る所の斷頭の斧より反射して、 閃としてものすごき光を放てり。 あゝ此の死別の時のすごきかな。 かの剛毅嚴格の人なりとも、皆恐れを以て身体氷りたる者の如くに立てり。 あゝ其罪や暗く、其法律や嚴正なり。 人々此光景を見し時は皆其身をふるはせたり。   十七 此不義の子にして大怛なる情人の 別れの祈祷[#「示+壽」、第3水準1-89-35、禱]はさゝげられたり。 彼れの冥福及び懺悔は、再びこゝにくりかへして祷[#「示+壽」、第3水準1-89-35、禱]られたり。 彼れの時は最後の瞬間に來れり、 彼れの上衣は先づはぎ去られたり。 彼れのかゞやける黄金の髮は、今や剪られざる可からざるなり。 此時は爲されたり─髮は剪られたり。 此時まで着たりし下衣、 パリシナの與へたる肩衣、 是等は墓にまで彼れを飾ること能はず、 今は盡く取り去られざる可からざるなり。 今や彼れの眼は白布を以て蔽はれんとせり。 然りと雖此くの如き最終の凌辱は 決して彼れの倨驕なる眼には近づき得べきものに非ず。 彼れ決して、自己の死を見ることを敢てせぬ如き盲目を甘受する者に非ず。 故に斷頭者が彼れの目を蔽はんとして準備するや、 彼の凡ての感情は今まで鎭厭されし如くなりも 忽ち深き侮蔑の情を以つて半ば醒起し、 毅然として之れを拒反して曰く 『否、我血も亦我呼吸も凡て、汝に沒收されてあるなり、 我手は鐵鎖を以て縛されあるなり、 せめては我眼をして蔽はるゝことなく死せしめよ。 「撃て」』。言ひ終りて 斷頭臺上に其頭を俯せり。 之れヒユーゴーの最終の言葉なりき。 『撃て』─斧は閃めき一撃下るや 頭は前に轉落して流血淋漓、 血に塗れたる其躰躯[#「身+區」、第3水準1-92-42、軀]は[#「は」は底本では「ほ」]後ろに倒れたり。 各々の血管よりは血の雨として 盡く地に墮ちぬ。 彼れの眼と唇とは暫く顫動し、痙攣し居たるが、 終に永久に靜まりぬ。 彼れ、不義の人々の死するが如く死せり。 葬禮の裝飾も隊列もなし。 彼れ柔和に膝づきて祈りたり、 決して僧の助けを輕侮することなく 又た神の信仰に於て絶望することもあらざりき。 彼れ高僧の前に膝ける間 全く浮世の感念を絶ち、 怒れる父、及び愛婦の事は全く念頭に存せざりしが如し。 此瞬間に於て、是等のもの何ぞ念ず可けんや、 今や誹謗もなく絶望もなく、 たゞ天を思ふの外、何の思ひもなく、たゞ祈祷[#「示+壽」、第3水準1-89-35、禱]するの外何の言葉もあらざりき。 たゞ斷頭者の斧を受みんが爲め衣を剥がれし時、 目を蔽ふことなく死なんことを願ひたる 僅かの言葉ありしのみなり。 之れ彼れの惟一の訣別の語なりけり。   十八 死して閉ぢたる唇の如く靜かに、 觀る者皆な其の呼吸を收めり。 されども死の一撃彼れの頸に下り、 生命も慈愛も此く終りし時、 人々の間には遙かに 寒冷なる電流通じ 寂として聲なく、 皆そのと息を胸におさめぬ。 斷頭者斧を撃ち下して力餘り 斷頭臺に斬り込みて激動したる音の外、 他に音響なるものあらざりき─たゞ一聲の叫[#「口+斗」、呌]びを除くの外。 あゝ此の靜寂なる空氣を劈きて 狂氣の如き烈しきは何の聲ぞも。 宛も母の、其子が不意の打撃に逢ひて 死するを歎くものゝ如く、 宛も靈魂の永久の苦痛を訴ふるものゝ如く、 其聲空《そら》にひゞきたり。 アゾの宮殿の窓を通して天に昇れり。 人々の目は其方に向けられぬ。 されども其響きも其光景も、同じく息みたり。 其聲は女の叫[#「口+斗」、呌]びにして 此くまで狂氣の如き絶望の聲は他にあらざるべし。 此聲を聽きし人々は、此聲の息みし時、 皆、此叫[#「口+斗」、呌]びは最終のものたりしことを願ひたり。   十九 ヒユーゴーは死せり。 此時より宮殿にも廣間にも、又た園亭にも パリシナの聲も聽かれず、姿も見えざるなり。 パリシナの名は宛も放逸不徳或は恐ろしき言語なるかの如く 人々の口にも耳にも全く消え[#変体仮名「江」]失せて パリシナなる者は、初めより有らざりしものゝ如し。 而してアゾ公の口よりは 其妻及び子の事を言へるを、一人として聽きしと云へるものもなし。 彼等二人は墓も有せず又た紀念もあることなし。 彼等の身は聖められざる塵土なり。 其日死したる勳爵士の身に付ては、明かに然りしなり。 されどもパリシナの運命は、棺の下なる塵の如く 全く隱秘にして知るべからず。 或は寺院に在つて其生を保ち 苛責と斷食と、窮りなき涙との 枯落したる痛恨の數年を重ね、 獨りさびしき道を天にたどりたるか。 彼女の、敢て自ら暗黒なる戀愛を感ぜしより觀る時は、 或は毒を仰ぎしか、又は自刄を爲したるか。 或は斷頭者の與へたる激動は いと急激に切痛に、 哀れ、パリシナの身に來り、 斷頭臺上に見し彼れの如く、 遠からざる苦惱にて、 其瞬間の感動の打撃にて死せしかは、 一人として知る者なく、一人として知りし者なし。 よしパリシナの終は如何ならんとも、 彼女の生涯は、悲歎に始まり悲歎に終りしなり。   二十 其後アゾは新に妻とりて 善き兒等は其側に成長せり。 されども墓に凋みし彼れの如く 美にして豪怛なるは一人もあらざりき。 たとひ之れ有りとするも 其成長は、アゾの目にはとまらざるか、 或は閉塞すると息を以て見られしなり。 而して涙も其頬を傳ふことなく、 微笑も其額に浮ぶことなし。 其廣き美しき額には 憂の思ひは線を織りて交叉し 燃ゆるか如き悲哀は 時々其皺に表はるゝなり。 而して引き劈く所の心の瘡痍《きづ》は 精神の戰爭が後に殘せしものたるなり。 彼れには、凡ての快樂も悲哀も已に過ぎ去り、 何物も此世に於て殘れるものなし。 たゞ眠られざる夜と、重き晝とのあるのみにして 心は毀譽褒貶に向て死し、 情は自ら之を避くると雖、 尚ほ服從するを好まず、又た忘れ能はず、 其聊かなりとも融解せんとするや、 深かく考へ強く感ぜり。 されど最も深く常に凝れる氷も たゞ其表面を閉ざし得るのみにして 活ける流れは下に在つて元氣あり、 溢れ溢れて息むことなし。 たとひ其心胸は閉されたりとも 天の與へし思想は尚ほ胸中に來往せり。 吾等むせぶ涙は暫く之れを拂ふを得るとも 其根帶や甚だ深くして、全く之れを消滅せしむること能はざるなり。 涙一旦溢れて流れ出づるや。 吾等心情の此水をせき止むることを得るとも、 之れ干涸したるに非ず。 せきし涙は今や其源泉に流れ復へり、 其源に於て一層純潔に靜止し 永久《とこしなへ》に其深き所にありて、 見へもせず、泣きもせず、されど又た氷結して冷却することもなく 顯はれざる所に在つて自ら其情をいつくしみはごくむなり。 死せし彼等の上に歎かんとして 後に殘りし感情は内に起り、 荒れはてたる空隙は彼をして苦痛を感ぜしむると雖、 再び充たすの力なく、 再び彼等に會合して 其一致したる靈魂は喜悦を受くるの望もなく、 たゞ彼れ正義の命令を發したると 彼等二人は惡の報を得たりとの此自覺を有すと雖、 なほアゾの晩年はあはれむべきものなり。 かの樹木の惡しき枝は、 注意して切り去る時は 之れが爲め樹木に勢を與へ、 其他の枝葉も亦生々として花さき、 緑に榮えて新鮮に又た自由に成長すと雖、 若し雷霆其の怒りに乘じて 烈しく其のそよぐ枝を害する時は、 苔むす大なる幹も爲めに損害を被り 再び青葉の出づることあらざるなり(終) 底本:尚友館書店「艷美の悲劇詩パリシナ」1905 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40084342&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0 George Gordon, Lord Byron(1788年〜1824年) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3 木村鷹太郎(1870年〜1931年) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%B7%B9%E5%A4%AA%E9%83%8E Ver.20120317